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火花散る六条邸*其の四


 入内した瞬間から坩堝のような宮中の怨嗟に怯え、やがて東宮の子を身籠ったことで、その悪意は椿自身へ向けられることにもなった。主上を愛して魑魅魍魎と化した後宮の女御たちと同じ道は辿るまいと、当初椿は東宮に必要以上の情を抱かぬよう気にかけていたが、彼に入内した姫たちは皆、東宮と男女の情で結ばれていたわけではないらしい。実家や親戚関係に難があり、往生していたところを、〝東宮に入内する〟という言い訳で逃げてきた人ばかりなのだとか。〝神通力〟の『異能』を持つ彼は、昔からそういった困りごとの現場に遭遇しやすく、いつの間にか宮中駆け込みどころのような存在と化していたと聞かされ、唖然となったことを覚えている。

「私が望んで得た妃は、あなたが最初で最後だ。無理に好きになってくれとは言わないからせめて、私の最初の子は、他ならぬあなたに産んでほしい」と、初夜から熱心に口説いてきた東宮。そんな彼に絆され、気づけば椿は梨壺の中で、東宮唯一の愛妃、次代の中宮とまで目されるようになっていた。その当然の帰結として、東宮の子を身籠ったのだ。

 全ての世界が、あの穏やかな梨壺で完結していれば、どれほど良かっただろう。しかし現実は非情で、東宮の子を孕んだ椿は必然的に、〝次の次の皇位争い〟に名乗りを上げたと見做された。結果として生まれたのは皇女(ひめみこ)だったけれど、一度東宮の子を産んだ妃は、次を産む可能性も高いと勝手に思われる。

 この頃、東宮の後に世継ぎとなるのは、弘徽殿女御が産んだ一宮と見られていたものの、主上が内心では彼女と、彼女の父である右大臣を苦々しく思っていることもまた、周知の事実であった。東宮に男児ができ、その子が将来有望であれば、我が子を飛ばして東宮の子を次代の東宮に据えかねない。それほど、主上と右大臣の間の空気は冷え切っていたのである。


 そんな空気を敏感に察した殿上人たちは、東宮の男児を産む可能性が最も高い椿を何かと持ち上げ、表舞台へ引き摺り出そうと画策し……小さな娘を抱えた椿の精神は、いよいよ追い詰められた。夫がいくら庇ってくれても、彼とて昼間は公務がある。ましてや椿は東宮の単なる愛人でなく、いずれは彼の隣で宮中を取り仕切る立場を背負う、東宮妃なのだ。東宮が過保護になりすぎることは、却って椿の立場を脅かしかねない。

 心の行き場は日に日に狭くなっていくのに、探せど探せど、突破口は見つからない。……そんな擦り切れるような日々を過ごしていた、ある日。


「――椿。この前、宴で左府と話したのだけれど。左府にはね、外との付き合いをあまり好まない娘御がいるらしいんだ。その娘御が気兼ねなく話せる友人を作ってやりたいと相談されたのだけれど、もし良ければ、一度会ってはもらえないかな?」

「……左府様の、姫君、ですか?」


 かなり以前に一度だけ、母がちらりと話していたような気がする。先の女一宮様――主上の同母妹が、とある大臣家の息子に嫁ぎ、男児と女児を儲けたとか何とか。その大臣家の息子が確か、今の左大臣のはずだ。つまり〝左府の姫〟とは、母の話に出てきた、主上の妹君が産んだ娘ということか。


「そのように高貴なお方のお話相手が、わたくしなどに務まりましょうか?」

「椿とて大臣家の娘で、私の妃だろう? 血筋はともかく、身分はあなたの方が高い。血筋と身分を合わせて考えれば、あなたたちはちょうど良く釣り合いが取れていると、私は思うよ」

「そういう……ものでしょうか?」

「椿にとっても、外の方とお話しするのは、良い気分転換になるはずだ。まずは一度会ってみて、気が合わないと感じたら、それきりで構わないから」


 気が進んだわけではないが、夫がこれほど強く何かを勧めてくることも、これまで無かったことだ。また、左大臣は右大臣と反目する立場ではあるが、だからといって東宮や椿をダシに、政敵を出し抜こうなんて小狡い手を使うこともなかった。左大臣や彼と近しい者が梨壺に近寄ることはなく、たまに宴で挨拶を交わす程度。その適度に遠い距離感は、当時の椿にとって、何より安心できるものであった。

 ゆえに。


「あなた様がそこまで仰るのでしたら……承知いたしました。至らぬ点は多いと存じますが、姫君のお話し相手、お引き受けいたしますわ」

「ありがとう。左府に伝えておくよ」


 ――そうして、やってきたのが。


「お初にお目にかかります。この度は、東宮妃様のご尊顔を拝す栄誉を賜り、恐悦至極にございます」


 輝くような射干玉(ぬばたま)の髪を、身の丈からたっぷりと余らせ、天の川の如く背に流し。

 ほっそりと(たお)やかながら、ピンと伸びた背筋からは教養の深さが感じられ。

 生き生きと煌めく黒曜石の瞳は、整った目鼻立ちの中でも、見る者を抗いようもなく魅了する力を秘めて。


「――藤原左大臣の娘にございます。以後、お見知りおきくださいませ」


 今はまだ幼さが勝つものの、いずれは間違いなく、当代一の美女の名を(ほしいまま)にするであろう姫君が、見事な礼を見せていた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。東宮様の妃として梨壺にお部屋を頂いております、椿と申します。どうぞ、お心易くお呼びください」

「……お気遣いに感謝いたします。改めまして、わたしは葵と申します。わたしの名も椿様にお呼び頂ければ、大変嬉しく存じますわ」

「ありがとう、葵様。わたくしも、外のお方とお話しできる今日が、とても楽しみだったの。色々とお話をお聞かせ願えますか?」

「はい、よしなに」


 無難な挨拶から始まり、葵は椿に問われるがまま、家での過ごし方や好きな遊び、左大臣家が住まう邸の様子などを語って聞かせた。その語り口調は軽妙で、それほど特別なことを話しているわけではないのに、聞き手の椿をいつまでも飽きさせない。その堂々たる振る舞いは、とてもではないが夫の言っていた〝外との付き合いを好まない娘御〟のものとは思えなかった。


(……お話を頂いたときから、そうではないかと思っていたけれど)


 葵は決して、気難しやな姫ではない。宮中の人間関係に疲れ果てた椿のため、夫が左府に相談し、話し上手な(あおい)を宮中へ招く運びとなったのだろう。本当のことを言えば、椿が遠慮して断ると思い、わざわざ葵を〝外との付き合いを好まない娘〟などと表現し、椿ではなく葵のためであるかのような言い回しをしたのだ。

 これはむしろ、こちらが礼を言わなければならない案件と確信し、椿が改めて頭を下げかけた、そのとき。


「ふあああぁぁぁー!!」


 数部屋向こうから、つんざくような幼子の泣き声が響き渡った。……あれは、もしかしなくとも。


「いやああぁ、おかあさま~!!」

「おかあさまがいい~! おまえたちはいやー!!」

「おかあさまー!!」


 泣き声と交互で聞こえてくる舌ったらずな愚図りは、とんでもないことに、どんどんこちらへ近づいてくる。

 椿は目だけで、控えている女房に、この部屋へ彼女たちを入れぬよう指示を出した。


「――あの元気なお声は、皇女様ですか? お昼寝から起きちゃったのかしら。わたしは構いませんから、どうぞ椿様、皇女様をあやして差し上げてくださいませ」


 ……指示を出した、つもりだったが。それより一拍早く、目の前でにこにこ笑う葵に、気を遣わせてしまった。いや、気遣ったというより、彼女の表情からして、純然たる善意だろう。葵はおそらく、小さな子が煩わしくない人間なのだ。

 椿は小さく息を吐き、控えの女房に、皇女と乳母をこちらまで連れてくるよう伝える。女房は頷いて一度下がり、それほど経たぬうちに、今度は幼子を抱いた少し年嵩の女房――椿の娘、東宮の皇女である桔梗と、その乳母を連れて戻ってきた。


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