火花散る六条邸*其の三
ここからしばらく、椿さん視点です!
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(……なんとまぁ、口先だけはよく回る、小賢しい男だこと)
御簾の中から慣れない誘いをかけつつ、椿は扇を強く握り、初めて対面する葵の夫を冷たく睨め付けていた。静かに醸し出している冷ややかさにまさか気付いていないはずもないだろうに、目の前の男はにこやかな表情を崩さないまま、表面上は和やかな会話を成立させているのだ。歳は葵より四つほど下と聞いているが、その若さでこの食えなさとは恐れ入る。腹の中にあるものを綺麗に隠して無害を取り繕う化かしの術は、どうやら宮中に巣食う狐狸妖怪どもとも渡り合えるほど達者らしい。
(見た目がとてつもなく美しいというだけで、この男の生まれ育ちは、まったく美しくはないものね。生まれたときからあのような伏魔殿で過ごせば、自然と腹の中は黒くもなるか)
たとえ宮中勤めでも、今の若者は〝光君〟の生い立ちについて、さほど詳しくないと聞く。人死にの出るほどの怨嗟が渦巻く忌みごとなど宮中では珍しくもないことだが、その渦中で生まれ育ったはずの〝光君〟当人の輝きがあまりに眩しく、古参の者たちの間で出生にまつわる話は禁忌のような扱いになっているそうだ。その結果、今の若い女房や公達の多くは、彼を〝生母君の身分があまりに低かったがゆえに臣籍降下した皇子様〟くらいにしか思わず、その恵まれた容姿も、容姿を裏切らぬ才気煥発さも、「主上の御子であれば当然のこと」と好意的に受け止めているのだとか。……彼の出生について細部を知れば、さすがにそれほど呑気ではいられないだろう。
(あれほど分かり易く、後宮の方々から恨みつらみを向けられていた皇子様も珍しいというのに)
――椿は、十五の歳に東宮妃として入内した。当時宮中では、東宮が新たな妃を迎えた話題より、主上の二宮が幼くして〝源氏〟の姓を与えられ、臣下へ降された話で持ち切りで。梨壺の局に引き籠っているだけでも、話題の当人である二宮と、その母である桐壺更衣への悪意に塗れた噂話は、自然と耳に入ってきたのものだ。主上と桐壺更衣の恋は、確かに世の常に習わぬ激しいものであったそうだが、だからといって生まれた子どもにまで呪いと違わぬ憎悪を向けるとはと、宮中の人間模様を恐ろしく思ったことを覚えている。
「兄上は為政者として大変優れたお方だが、同時にとんでもない人情家でもある。私は昔から、どうか兄上に心から愛する方が現れぬようにと願っていたが……どうやら、神は我が国に試練をお与えになったらしい」
夫となった東宮――主上の弟宮であった彼は、いかなる時も冷静で、広い視野を持ったひとであった。〝神通力〟なる、この世の全てを見通す『異能』を持ちながら、それをひけらかすことのない、謙虚で穏やかな人格者でもあった。入内したばかりの椿が宮中の暗い情念に慄いているといち早く察し、その背景を、彼から見た主上と桐壺更衣を語ってくれたのだ。
「桐壺のお方に、野心などは微塵もなかった。あの方はただ、母君に言われるがまま宮中へ上がっただけの、仕え人に過ぎなかったよ。美しさと聡明さは際立っていたけれど、兄上が見初めさえしなければ、生涯を桐壺でひっそりと過ごされていただろう」
「世間では、主上を道ならぬ道へ走らせた悪女のように語られておりますが……」
「そこが兄上の残念なところだ。情の深さゆえに人心を見誤り、ご自身が桐壺のお方を寵愛すればするほど、彼女の立場を危うくさせることに気付かれなかった。……否、気付いても、手をお離しすることがどうしてもできなかったのかな」
「それほどまでに、桐壺のお方を?」
「愛していたのだろうね。――違うな、今もか。今もなお、兄上のお心は桐壺のお方だけを愛している」
義務として女御や更衣の元へ通ってはいても、心は彼女たちに向いていないということか。後宮とはそういう場所だと言ってしまえばそれまでだが、主上の心が欲しくて一人の更衣を呪い殺した後宮の女たちは、果たして現状をどう思っているのだろう。
そんなことは……考えるまでもない。
「二宮様は、だから、宮中の恨みをあれほど一身に買っておいでなのですね。誰もが望んで得られぬ主上の愛を、唯一、目に見えて注がれているお方だから」
「……兄君の振る舞いも、正直、どうかとは思っているよ。一宮に比べて、二宮の扱いはあまりにも特別が過ぎる。情を政には持ち込まぬお方だから、弘徽殿のお方から生まれた一宮を差し置いて次代とすることはないと私は分かってはいたけれど、兄上をそれほど深く知らぬ大臣たちが不安に思う気持ちも理解できる」
そう言った東宮は、どこか遠い目で、静かに桐壺の方を眺めていた。
「二宮は、その容姿も、素質も、国の主として遜色ない。宮中へ来たばかりの頃は、情に飢えた様が長じて国を乱す片鱗が見受けられたが、いつの頃からかその心は安定し、この度の臣籍降下でも歪む様はなかった。儀式の最中は揺らいでいるようにも見えたが、今はむしろ、かつてないほど落ち着いているようだ」
「……これほどの恨みつらみを受けていて、ですか?」
「宮中の悪意など、彼にとっては母御の腹の中にいるときから浴び続けていた、この世で最も身近なものだよ。常は流し、時に見下し、蔑み、自身に害が及べば、悪意の主ごと切って捨てる。それだけのことがあれほど幼いうちからできるからこそ、彼は帝王の器なんだ」
「ですが……二宮様は、臣下に降られました」
「うん。帝王の器ではあるけれど、かといって二宮がこの国を治める者となれば、それはそれで天下が乱れる。主上が情ゆえに国の律を破った前例を残すわけにはいかないし、そのような経緯で御位についた帝を、大臣たちが認めるとも思えない。そのような不和が起これば、政が成り立たなくなることは明白だろう?」
「主上は、そうご判断なさったのですね」
「まぁ……分不相応な地位を与えることで、これ以上の妬み嫉みを二宮へ集めて、桐壺のお方の二の舞にすることを恐れたとも言えるけどね。兄上のことだから、二宮への情と同じだけの重さで、政のことも考えていたと信じたいね。二宮は帝王の器を持ちながら、国という大きな生き物を己の手で動かしたいなんていう野心とは無縁だ。自身の安寧が脅かされない限りは、きちんと善政を敷いてさえいれば、臣下の立場でその有能さを遺憾なく発揮してくれると思うよ」
……そうだ。あの頃から、二宮がまだ幼かった十年前から、夫ははっきり言っていた。彼はとても有能で、悪意に惑わされることも振り回されることもない、帝王の器だと。であれば、御簾を挟んだ椿のささやかな嫌がらせなど、おそらく意に介してすらいまい。夫が言っていた通り、目の前の男は椿の悪意など最初から承知の上で、神仏の如き美麗な顔に柔和な笑みを浮かべながら、取るに足りぬ些事と流し続けているのだ。
(本当に……なんて、忌々しい。好意だけでなく悪意まで手玉に取るなんて、ありきたりな狐狸妖怪よりタチが悪いのではなくて?)
椿がどのような誘い言葉を投げかけても、動じることなくさらりと無難な言葉で返し、しかし適当と思われないよう、返答の仕方も実に豊富。その卒のなさが却って、彼に誘いをかける女の多さを証明しているようで、ますます目の前の男が憎たらしい。
――椿から葵を奪い、夫という立場で縛りつけている、この男が。
椿さん、書きながらちょくちょく「ワァ、過激派……」とち◯かわ顔になりがち。




