火花散る六条邸*其の二
葵を、大切な愛妻を思えば、自分を嫌っているであろう相手とも、晴れやかな笑顔で言葉を交わせる。
光は曇りのない笑みを、御簾向こうの御息所へ向けた。
「過分なお言葉、ありがとうございます。当代一など畏れ多いばかりですが、主上の血筋の一人として恥ずかしくないよう、これからも真摯にお務めを果たす所存です」
「……本当に、噂通りの、真面目な方ね。わたくしたちの間には、薄い御簾がたった一枚、あるだけなのに。これほど近くにいて、それを越えようとはなさらないの?」
「なんと……御息所様であっても、そのような冗談を仰るのですね」
少々大袈裟に驚いてみせたが、予想だにしないことを言われ、表に出した以上に驚いたのは間違いない。高貴な女人に対して非常に失礼ではあるが、心の底から引いてしまった。
(こんなにも日が明るいうちから、御簾を越える誘いだなんて……御息所というお立場でありながら、随分と奔放なことを仰るものだ)
他ならない愛妻の葵が、どの角度から見ても世間並みでない女人だからか、光は主に左大臣邸の女房たちから、「光君は世間の常識では測れない、変わった姫が好み」と思われている節がある。もちろん、葵の突飛さや、思わぬときに大胆さを発揮するところも愛しているが、それはあくまで葵だからで、他の姫に同じことをされても心は動かない。
ましてや葵は、あれほど世間の常識には囚われないのに、こと男女のよしなし事においては、驚くほど貞淑だ。以前、睦言に「あなたの肌に心惹かれぬ男など、この世にいないだろう」と囁いたところ、「わたしの肌を知るのは夫のあなただけなんだから、あなたが気に入ってくれたらそれで良いわ」と、なんの気負いもなく返された。通い婚が多い現代、夫のいぬ間に別の恋人と通じている妻など珍しくもないと知っているだろうに、葵は自然と夫への貞節の心を持てる女人なのだ。
そんな葵に、あの夜、また惚れ直しただけに――。
「まぁ、そのように遠い目をされて。中将様は、わたくしの〝冗談〟を聞いて、いったい、〝どなた〟を思い浮かべられたのかしら?」
妙に好色な気配を醸し出す御簾向こうの女人に惹かれるどころか、警戒心しか湧いてこないのである。
「……ご想像に、お任せしますよ。ただ一つ申し上げるとするならば、〝遠い目〟が語りますように、ここには居ない〝誰か〟でしょう」
「あら、つれないお方。わたくし、久しぶりに外の方と〝親しく〟できると、今日を楽しみにしておりましたのに」
「外の時勢に興味がおありでしたか。私で分かることならばもちろん、何なりとお話ししますとも」
「ご親切に感謝いたしますわ。ですがわたくし、見も知らぬ者たちの動静より、目の前にいらっしゃる光君を、もっとよく知りたく思いますの」
「私など、この通り見た目が少々持て囃されているだけの、つまらぬ無骨者ですよ」
色めいた誘いを受けるのは、光にとって宮中での日常のようなもの。不興を買わぬよう躱すことなど造作もないが、慣れた状況であるがゆえに、光はこれまでにはなかった違和感をひしひしと覚えていた。
通常、婉曲であれ直接であれ、色仕掛けをしてくる女人たち(ごく少数男もいたが、それはさておき)は、程度や種類は様々であっても光に好意を抱き、光の好意が返される期待を抱いていた。言葉には出さずとも、たとえ御簾越しであっても、そういった気配は漏れなく伝わってくる。
――それなのに。
(御簾向こうのお方からは、私に対する好意の一欠片すら、感じられない。私の好意が欲しいとも、おそらく思っていないだろう)
語り掛けてくる言葉も、その雰囲気も、間違いなく色を含んだものであるはずなのに、その根本にあるはずの〝感情〟だけが空っぽなのである。
……否。
(好意ではなく、敵意なら。そして、嫌悪の情なら、先ほどからずっと感じ取れるのだけど)
大して好きでもない女を欲情のまま抱ける男がゴロゴロしているのは知っていたが、嫌いな男を閨に誘う女がいるとは知らなかった。……これがもしや、以前葵が言っていた〝はにーとらっぷ〟とやら、だろうか。
敵に色仕掛けをして欲しい情報を聞き出したり、本気にさせて味方を裏切らせたりする工作を、葵の得た『託宣』によると〝はにーとらっぷ〟と言うらしい。そういった手口が有効なのは女よりも男のため、仕掛ける側は女人が多く、その場合は好きでもない、どちらかといえば嫌い寄りの男相手でも、色めいた誘いをする必要が出てくる……が。
(叔父東宮が存命ならまだしも、既に身罷られている今、御息所が私に〝はにーとらっぷ〟を仕掛けたところで、彼女に益などないのでは? お子も姫君で、まだまだ幼いと聞く。まさか私を籠絡して、姫の相手にと考えているわけでもないだろうし)
あるいは本当に、六条御息所は右大臣方と親しくしていて、左大臣とズブズブの光の足元を掬いたい、という可能性もあるにはあるが、そうだとしても初対面で色仕掛けは性急が過ぎるだろう。そういうことはもう少し、お互いに文などを交わして親しくなってから……。
(――いや、そうでもないな?)
葵に散々、「相手を尊重したお付き合いをするように」と言われて育った光だから、知り合った相手と親しくなり、性格などを加味した人付き合いが常となっているだけで、別にこれが〝当然〟ではない。宮中では普通に、出逢ったその日に床入りする恋愛もありふれている。むしろ、女房相手に高貴な姫君仕様の〝何度も文のやり取りをし、じわじわ距離を縮めていく恋〟などまどろっこしいと、会話の流れで寝所入りする男の方が多いのではなかろうか。
(そう考えると、御息所のお振舞いも、性急とは言い切れないか。いずれにしろ、嫌っている相手に色仕掛けせねばならぬ事情がおありとは、お気の毒なことだ……)
父帝からは明確な特別扱いを受けるほど寵愛され、宮中では〝光君〟と持て囃され、婚家と、何より妻に恵まれた光は、その分悪意に弱いと思われがちだが、実際は全然、まったく、これっぽっちも弱くない。物心つかない頃に生母を内裏に住まう女たちからの怨嗟によって亡くし、物心ついて戻った宮中では、顔だけ褒められ〝光〟という存在は捨て置かれるように育った。そんな環境で悪意への耐性が付かなければ、そちらの方が生きていけないではないか。葵とめぐり逢ったことで人の優しさ、温かさを知った今は余計に、他者から向けられる悪意に実のところ大した意味はないと言い切れる。
悪意を浴びれば鬱陶しいとは思うが、裏を返せばそれだけだ。鬱陶しいからといって、自分に悪意を向ける者全てを駆逐してはキリがないことなど、随分前から悟っている。
光が欲しいのは、昔も今も、葵の好意だけ。葵の好感を稼ぐためなら、自分にできるありとあらゆる努力は尽くす。――その結果、葵以外の誰から好かれようと、はたまた嫌われようと、光にとってはどうでも良いことであった。
光は、他者の悪意に弱いのではない。心から愛する〝葵〟という人間に弱いだけの、普通の男なのである。
「ふふ。光君はまこと、罪なお方でいらっしゃるわ」
「人は生きているだけで罪深い存在と申しますから。私はそのような生で、せめて大切なひとに誠を尽くせる人間でありたいのですよ」
「その〝誠を尽くす〟お相手に、わたくしを加えては頂けないの?」
「御息所様は、亡き叔父君最愛のお方。当然ながら、心からの敬意を尽くしておりますとも」
内心で御息所に同情しつつ、光は笑顔のまま、滑らかに動く口で、彼女からの色めいた誘いを躱し続ける――。
次回、視点が変わります。




