火花散る六条邸*其の一
新章開始です!
紀伊守の邸への方違えは、大きな混乱もなく過ぎていった。葵は挨拶を受けた紀伊守の義母と意気投合したようで、あれからちょくちょく、文のやり取りをしているらしい。
文使として二人の間を行き来しているのは、方違え後、葵からの相談もあって家人として引き取った義母の弟、真である。紀伊守から推薦されていただけのことはあり、学問も武芸も人並み以上にはこなせて、かつ素直でよく気が利く。今は家人として簡単な仕事を任せているだけだが、近いうちに童殿上させた後、元服と仕事の面倒を見ようと、葵とも話し合っていた。宮中での地位が上がるにつれ、こういった頼まれごとは今後も増えていくのだろう。早いうちからその段取りに慣れておくのは、光自身にとっても悪いことではないはずだ。
何はともあれ、こうして新しい家人も増え、ますます賑やかになった東対を支えるべく、ますますお役目にも力が入ろうというもので――。
「――六条御息所様には、お初にお目にかかります。主上の名代として、左近衛中将、御前に罷り越しました。ここに謹んで、ご挨拶を申し上げます」
理由は不明ながら、父帝の代理として申しつけられた、亡き叔父東宮の妃であった方への季節の挨拶にも、こうして真面目に取り組んでいるのである。
「……丁寧なご挨拶、痛み入ります。昨今、京中で話題の美丈夫殿にお会いできて光栄ですわ」
庇に座り、頭を下げる光に、御簾の向こう側から、淡々とした受け答えの声が響く。言葉の雰囲気から察するに、どうやら御息所本人が話してくれているらしい。
(叔父上の妃であった方、か……)
叔父東宮へと嫁いですぐ身籠り、皇女を出産し、その後も寵愛されていたことで、一時は未来の中宮とも目されていた女人だ。当時は光も同じ宮中で暮らしていたため噂はよく聞いていたが、住まう殿舎が異なれば、意識しない限り顔を合わせることもない。……あの頃は、姿を消した葵を探すことでいっぱいいっぱいの毎日を過ごしていたから尚更、他を気にかける余裕などなかったのもあるが。
いずれにせよ、皇室に深く貢献してくれた方である。たかがご機嫌伺いとおざなりにはせず、敬意を尽くすべきであろう。
「最近は暑い日が続いておりますが、御息所様と姫宮様におかれましては、いかがお過ごしですか。何かご不自由などがあれば、遠慮なく仰ってください」
「過分なお心遣いを頂戴し、却って申し訳なく存じます。幸い、わたくしも姫も暑さには強い体質のようでして、宮中を離れ、この六条に住まいを移してからも、夏に苦労したことはございません」
「左様でしたか。それは何よりです」
「はい。主上にも、昔と変わらぬお気遣いに感謝申し上げていたと、どうぞお伝えくださいませ」
臣下に降ったとはいえ、光は今上帝の実子。ゆえに御簾向こうの御息所も、女房を介すことなく、こうして直答してくれていることは分かる。帝の使者として、これが最上級のもてなしであることも。
――が、それはそれとして。
(なんだろうな……そこはかとなく、御息所の空気が冷たい気がするのだが)
受け答えは初対面の貴族同士としては成り立っている方で、どちらかが一方的に話すようなこともないため、お互いを尊重したやりとりができていると言って良いだろう。何より、普通ならば女房に代返させて当然の身分である御息所が、御簾越しに対面して直接話してくれているのだから、普通に歓迎されていると思って良い場面のはず、なのだが。
「――それで、中将様? 主上の御用向きとしてこちらへおいでになって、どう思われました?」
どうも、御息所の言葉選び、口調や語気からは、歓迎よりもほのかな嫌悪を感じてならない。それなのに、こうして会話を続けるための問いを投げかけてくるのだから、どうにもちぐはぐだ。
(別に、私のことが嫌いなら、それはそれで構わないのだけれど)
どうやら他人から好かれやすい外見をしているらしいという自覚はあるが、別にこの顔が万能とも過信していない。全ての人から好かれるなんて不可能だということも知っているし、好かれたいわけでもないのだ。どれほど綺麗な顔をしていようと、右大臣方のお歴々は光のことなど大嫌いだろうし。
(右府も、弘徽殿の方もそうだが……嫌いならそれで良いから、せめて関わらないで欲しいものだよ)
殿上の間では右大臣やその派閥の者たちと、後宮では弘徽殿の女御及び、彼女に従う数多の女官と、普通に歩いているだけですれ違うのだ。その度、聞こえるか聞こえないかの声で嫌味を言われれば、たまにはやさぐれたくもなる。こちらは日々真面目に働いているだけだというのに、「宮中でこれみよがしに勢力を増すなど、東宮様へ叛意を翻されるおつもりか」や「主上に可愛がられているからといって、後宮を我がもの顔で歩くとは」と、いかにも光が東宮位を、はたまた帝位を狙っているかのような言説をヒソヒソされてしまう。やられっぱなしは性に合わないので、こちらもちょくちょく「光君は帝位など望んでおらず、父と兄の治世を支える立派な臣となるべく努力しているだけ」という噂を流し、「真面目に勤めている光君が謀反者に見える者こそ、心の奥底では主上に対して叛意を抱いているのでは」とヒソヒソ返しをしてはいるけれど。
――嫌っているのにちょっかいだけはかけてくる方々を思い出しつつ、光は御息所へ明るい笑顔を見せる。
「こちらへ参ったのは初めてですが、宮中を下がられてなお、六条の御方様のご見識は当代一でいらっしゃると、感銘を受けている次第です。室礼もお庭も、殊更に趣深く、雅やかで。宮中と比べましても、遜色ございません」
「まぁ。今をときめく〝光君〟にそこまで仰ってもらえるなんて、大変な名誉ですこと」
「何を仰せになりますか。六条御息所様といえば、今も昔も変わらず、京随一の姫君と名高いお方でしょう。そのような方に〝今をときめく〟と見られていたなど、恥ずかしい限りです」
「中将様こそ、ご謙遜が過ぎましょう。主上のご寵児、左近衛の中将様といえば、今やこの京で知らぬ者など居ない、名実ともに当代一の公達でしてよ」
御息所の話した言葉を文字にして記せば、そこにあるのは裏も表もない、まっさらな賛辞に見えるだろう。
しかし、実際にその言葉を受け取った光は、彼女の声色に皮肉を、その心情に冷淡さを、よりはっきりと感じてしまう。
(右府たちと違って、御息所は、はっきりとこちらを攻撃する意思を見せないのが強かだね。しかし、御息所や亡き叔父東宮が右大臣派だったという話は、これまで聞いたことがないな)
父帝と叔父東宮は、母親こそ違えど仲の良い兄弟だったと聞くし、亡くなる数年前から左大臣と親交を深くし、そのことに右大臣があれこれ文句を言っていたという話も小耳に挟んでいる。そんな叔父東宮の愛妃であった御息所もまた、右大臣派とは距離を置いているように見えた。
(まぁ、御息所が私を嫌っているとして、その理由が派閥争いに起因しているとは限らないしね。真面目に生きることを心掛けているけれど、人間、どこでどんな行動をやらかして、その話が巡り巡って、誰に嫌われたり恨まれたりするか、こればっかりは予測できない)
光が嫌われて困るのは、究極のところ、葵だけ。葵にさえ嫌われなければ、他の誰から嫌われようと、好かれようと、正直なところどうでもいい。その葵が、他人を真っ当に思いやれないロクデナシを心底嫌っているから、彼女に好かれる人間になろうと鋭意努力中の光は、人として〝それなり〟でいられるのだ。




