葵の花は蝉と目見え*其の六
皮肉を向けられた時雨は、何を言われたのか理解できなかったようで、一瞬呆けた表情を見せる。
「こう、うん?」
「わたしに関して申し上げれば、世間の噂と実情は少し違うのです。確かに右府様より東宮様へ入内の話は持ちかけられたそうなのですが、父左大臣にその気はあまりなかったらしいので」
「そ、そうなのですか?」
「はい。弘徽殿女御様よりお生まれになった東宮様にとって、右府様は外戚に当たられます。その上、左大臣の娘であるわたしが東宮妃となれば、権力があまりにも一点集中し過ぎてしまう。それでは、健全な政が困難になってしまうから、という理由でした」
「政……」
「源氏の君――二宮様の後見に父が立ったのも、同じ理由です。左右大臣の権力の釣り合いが取れるよう、どちらかに権限が集中し過ぎないように、と」
「な、なぜ、そうまでして」
「宮中で、誰か一人に権力が集まり過ぎると、その方の好きなように政が動いてしまいます。権力を握った方の考えが間違っていると思っても、下手に諫言すれば自身の地位を失いかねないとなれば、誰も物申せないでしょう。……それでは、国を健全に動かすことができません」
時雨の目が大きく見開かれる。思ってもみないことを聞かされたと、よく分かる顔だ。
微苦笑しつつ、葵は続ける。
「政に直接携わる公卿の責務は、とても重いものです。そんな公卿の娘に生まれた我々も、生まれたときから重い立場を背負っています。その立場ゆえ、わたしたち公卿の娘の婚姻は、純然たる政の一部でしかなく――自らの意思で決められることなど、何一つありません」
「何も……決められない?」
「えぇ。時雨様にあった、〝宮仕えしたい〟という気持ちすら、わたしには不要のものでした。わたしの未来は、宮中の政にとって最善の一手が選ばれると、最初から決まっておりましたから。――結果的に源氏の君と婚姻を結びましたが、それは単純に、彼が左大臣家へ婿入りすることが時流の中での〝最善〟だったからに過ぎません」
ざっくりした説明となったが、言っていることに間違いはない。父左大臣は特に、権力の専横を警戒するタイプの政治家だから、葵を東宮妃にすることはあまり考えてなかったはずだ。右大臣は〝皇女腹の左大臣家の姫〟という高貴な血筋を東宮と娶せるべく、かなり大っぴらに動いて入内を既成事実化しようとしていたらしいから、それもあって〝入内は内定済み〟といった噂が流れたのだろうけれど。
呆然とする時雨に、葵は静謐な笑みを浮かべる。
「ですから――〝なりたいもの〟があって、それを目指して努力することができた時雨様は、とても幸運でいらしたと思うのです。ご不幸が重なり、結果的に夢破れても……夢を追ったそのお時間は、時雨様にとって、かけがえのない財産であるはず。宮仕えできずとも、宮中で生きるに相応しい者であろうとご自身を磨いた過去は、時雨様を裏切りませんよ」
「そんな、ことは」
「ありますとも。――時雨様の所作は、宮中の方々と比べても遜色なく、大変優れておいでです。それほどのものを身につけるには、相当な努力をされたことでしょう」
時雨の潤んだ瞳から、透明な雫が一滴、音もなく頬を伝って流れ落ちる。
ふるふると、力なく首を横に振って、時雨は肩を落とした。
「お褒め頂いたのは、好みの誉にございますけれど。宮仕えをするならともかく、伊予介に嫁いだ今となっては、このような所作も役には立ちません」
「どのような身分であろうとも、所作が美しくて悪いことはないでしょう。そうして時雨様が宮中でも通用する所作をお伝えしていけば、これからあなたと関わる多くの人が、礼儀正しい振る舞いとはどういうものか、身をもって知ることができるはず。――宮中で直接主上にお仕えすることと同様、在野で民の見識を深めることも、とても重要なことだと個人的には思いますよ」
葵の言葉に、時雨は。
目を何度も、瞬かせて。
「……宮仕えは、叶わずとも。嫁いだ身で、あっても。わたくしが積み上げたものを〝活かす〟道は、あるのでしょうか?」
「時雨様が諦めない限り、道は続いておりますとも。生きている限り、たとえ何度夢破れようと、繕い、または一から編んで、夢を始めることは可能です。儘ならぬ生の中、それでも心のあり様一つで、きっと未来はまた幾重にも変わるはずですから」
そう。こうして、『原作』にない選択を葵がしたことで、『葵の上』と『空蝉』が言葉を交わしたように。
未来はきっと、一つじゃない。
『源氏物語』の世界の中で――葵たちは確かに、生きているのだから。
「……ありがとうございます、葵様。ご無礼のほど、平にご容赦くださいませ」
頭を下げた時雨の所作は、本当に美しい。作法のお手本のような動きだ。
『原作』でも、主人公の誘惑に乗らず、最後まで人妻としての倫理を守った彼女は、きっと元々、とても真面目で意志の強い、努力家な女性なのだろう。
真面目に生きる人が、当たり前に報われる世界であってほしいという願いを込めて、葵は微笑む。
「謝らないでください。わたしは気にしていませんから」
「葵様は、本当に寛容でいらっしゃいますね。お言葉に甘えて……もう一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「えぇ、何なりと」
「……こちらの邸に、わたくしの弟がおります。今年十二になるのですが、父もない子ということで童殿上もできず、このままでは元服の儀も満足にしてやれるかどうか……どうにか元服させたとて、出仕も危うい状態なのです」
「そういえば、そんな話も聞いたことがありますね」
というか、さっき光が、まさしくその話を紀伊守としていた気がする。
「このままこの邸に止まっても、弟に未来はないでしょう。……このようなお願いが厚かましいことは重々承知しておりますが、どうか葵様と源中将様のお力で、弟を引き立ててやっては頂けませんでしょうか?」
時雨の声には切実さが籠っている。平安時代の十二歳といえば、時雨も言ったように、そろそろ成人と就職が視野に入ってくる頃だ。時雨の弟の状況を現代日本で例えるならば、高卒予定の十八歳が、卒業間近にも拘らず就職先が決まらないようなもの。……前世弟持ちだった葵だからこそ分かる、それは尋常でなく心配な案件だと。
「それは大変ですね。お気持ち、痛いほど分かります」
「お分かり、頂けますか」
「えぇ。夫と相談し、弟君にとって良い道が見つかるよう、協力させてくださいませ」
「葵様……!」
感極まって深く平伏する時雨。何となく、勧善懲悪モノ時代劇のラストが思い浮かんだのを、内心で首を横に振って追い払い。
「さぁ、時雨様。難しいお話はここまでにして、よろしければ少し、お茶とお菓子にお付き合いくださいな」
「わ、わたくしでよろしいのですか?」
「もちろん。これを機会に、是非とも仲良くお付き合い頂けたら嬉しいです」
男性陣の酒席もまだ続くだろうしと、こちらはこちらでお茶会を開くのであった。




