これから*其の二
これからどう動くべきか――。
葵にそう投げかけられた暁は、腕を組んでふむ、と考えた後、顔を上げて口を開く。
「これもそなたの『託宣』絡みにはなるが。葵の知る〝未来〟と異なる、源氏の君のお心に訴えるというのはどうだ?」
「本来であれば、源氏の君は姫様との結婚に乗り気でなく、姫様も歳下の婿君と打ち解けることができず、夫婦仲は冷え切ったものとなる……のですよね?」
「父上のお話を聞く限り、源氏の君はむしろ、そなたとの結婚を心待ちにしているご様子であったそうだが……まぁ、あれほど心を砕いて、長年密かにお世話申し上げたのだ。源氏の君がそなたを慕っていても、不思議はないが」
「私もそう思いますけれど、姫様は何故か、慕われていることが不思議なのだそうです。源氏の君は、亡き桐壺の方に瓜二つという、藤壺女御様を想われるはずなのに、と」
葵の長年の後宮通いにおいて、左大臣邸の皆に気付かれないよう、専用の車と牛飼童を用意してくれたのは暁、葵が部屋から消えている間、不審に思われないよう上手く立ち回ってくれたのは楓である。ゆえに、二人は葵が何をしに後宮へ出向いていたか、よく知っている。光との仲を深めていたのは呪殺ルート回避の一手だと考えていたらしく、藤壺女御の入内を機に「これで終わり」宣言をした際は、大層驚かれた。光との日々にそこまで深い意図を持っていなかった――育児放棄気味の子どもの養育フォロー程度に考えていた葵は、驚かれたことこそ意外であったが。
「――その件につきましては、先ほど楓にも指摘されまして。わたしがかの君にできたことなど、せいぜいが空き時間の遊び相手程度でしたので、そこまで大きな影響を与えていたとは思えず……正直今も、腑に落ちておりません」
「……姫様は昔から、変なところで自己評価が低いですよね」
「自己客観視ができていると言って。実際本当に、大したことはしていないのよ」
「だとしても、源氏の君がそなたとの婚姻を喜び、是非にと望んでいるのは確かだろう?」
「それなのですが――」
先ほどから浮かんでいた推論を、葵は考えつつ、言語化していく。
「考えてみたのです。源氏の君が、わたしとの婚姻を望む理由を」
「そなたを慕っている、以外にあるか?」
「慕っている……というより、気心知れている間柄ゆえではないかと」
「どういうことです?」
疑問を口に出した楓と、無言で首を傾けた暁を、交互に見て。
「彼の君が、どれほど亡き母君を慕っておいでだったか、わたしはよく知っております。そのお心を慮るに、やはり彼の方が恋情をお寄せになるのは、亡き桐壺の方と瓜二つという、藤壺様をおいて他にはいらっしゃらないと、そう思うのです」
「しかし……ならば、そなたとの婚姻をお望みにはならないだろう」
「いいえ、お兄様。どれほど恋慕おうとも、藤壺様は主上の愛妃。源氏の君にとっては、手の届かぬ存在でしょう。ならばせめて、彼の密かな気持ちを知っている――幼い時分を共に過ごした、気心の知れた友であるわたしを妻にと望むことは、理に適っております」
「……そなたであれば、藤壺の方を想う心を、咎められることはないと?」
「事実、咎めるつもりはございませんし。わたしが彼に抱くのは、歳下の友人に対する親愛の情であると、源氏の君もご存知ですから」
葵の推論を聞き終えた暁は、黙って腕を組むと、しばらく目を閉じて熟考し――。
「葵の考えが正しいのだとしたら、俺はあまり、源氏の君と親しくなれそうにないな」
ぽつり、と。低い声で、そう呟いた。程よく気安く、また気の良い暁を何かと頼みにしていたせいか、この兄は『原作』の『頭中将』に比べ、かなり過保護でシスコン気味なところがある。複雑な表情の彼に、葵は苦笑いを返した。
「そのようなことを仰らないで、お兄様。いつの世も、いつの時代も、ひとを恋う気持ちだけは、当人でもままならないものなのですから」
「……確かに、それはそうだが。恋心が思いのままなら、俺はもう少し、右大臣家の姫君と上手くやれているだろうから」
「政略ゆえ致し方ないとは申せ、お話を伺う限り、お兄様とあちらのお方は、本当に性格が合わないようですからね」
これも平安上流貴族の常か、左右大臣双方の対立を和らげるという政略目的により、暁は元服と同時に右大臣家へ婿入りし、右大臣家の四の君――現代風に言えば四女と婚姻を結んでいる。これもまた『原作』通りの流れであり、政略婚を結んだ二人の反りが合わず、仲が冷え切っているのも『原作』ママだ。とはいえ、目の前の兄は『原作』の『頭中将』と違い、お世辞にも深窓の令嬢とは言えない葵を妹に持ってしまったせいで、価値観がところどころ原作寄りであり、反りが合わないなりにも向こう方へ心配りは欠かしていないようだが。
「――まぁ、今は俺のことは置いておこう。それよりも、源氏の君のことだ」
ため息をついて話を戻した暁は、父によく似た策略家の瞳を、ひたと葵へ向ける。
「藤壺様を想うがゆえ、気心の知れたそなたを妻にと望まれたのだとしても、婚姻は婚姻だ。夫して、妻をお守り頂きたいと願うのは、さほど筋違いではないだろう」
「姫様と彼の君の仲も、お悪いわけではありませんし」
「それはそうかもしれないけれど……『わたしは将来、あなたの恋人に呪い殺される運命だから、自由恋愛するにしてもちょっと自重してほしい』なんて言われたら、いくら気心知れた幼友だちでも嫌な気持ちになると思うわ」
「そこは、言い方を考えましょうよ」
要はオブラートに包め、ということか。いくら包んだところで、話の内容が内容だから、不愉快な思いをさせることは避けられない気もするが。
「……いっそ、嫌われるのもありなのかもしれませんね」
「は? 突然何を言い出すのだ」
「だって、わたしが知る〝未来〟でわたしが恨まれ呪われるのも、冷え切っているとは言いつつ『源氏の君』がわたしを妻として扱って、世間的には尊重されていたからですし。修復不能な仲の妻を、夫の恋人が恨むことはない……でしょう?」
「そうとも言い切れないだろう。仮面夫婦なのに見苦しく嫡妻の座は手放さないのかと、却って恨みが深まる可能性もあるぞ」
「そこはホラ、源氏の君が左大臣家の後ろ盾など必要ないくらいにご出世された辺りで、さり気なく離婚すれば済む話では?」
「済みますかねぇ? 源氏の君のご出世より早く、姫様が呪われてしまったら?」
「わたしが死ぬ時点で、確か源氏の君は『宰相中将』までご出世されていたから、その辺りを目安に離婚を切り出せば、なんとか?」
「……俺は時々、そなたの『託宣』が恐ろしくなるぞ。まるで〝この世界〟の未来が丸ごと、頭の中に入っているみたいだ」
ここが『源氏物語』の世界なら、少なくとも光の誕生から死までの遍歴は脳内にインプットされているので、暁の言はあながち間違っていない。しかし、それを馬鹿正直に告げる意味もないので、葵は意味深に笑って誤魔化した。
「姫様は、それでよろしいのですか? 幼い頃よりずっと二宮様を気にかけていらして、仲良く過ごしておいででしたのに」
生まれた頃からの付き合いで、『託宣』の真実を知る楓はさすが、誰よりも〝葵〟を理解している。彼女が気にかけるのはいつだって、前世の記憶や『アーカイブ』がもたらす導ではなく、葵自身だ。
頼りになる乳姉妹へ、葵は穏やかに笑いかける。
「良い、わけではないけれど……命には替えられないし、それに」
「それに?」
「わたし自身が彼にどう思われるかより、彼がこの先の長い人生を幸せに生きてくれることの方が、大切だから」
呪殺ルート回避がもちろん、目的の第一義ではある。
しかし、葵の生死を度外視しても、『原作』のような刹那的恋愛が、あの少年の幸福に繫がるとは思えない。別に嫌われたいわけではないけれど、人生において必要な助言が少しでも彼の心に響き、その結果嫌われることで呪殺ルートが遠ざかるなら、一石二鳥と言えまいか。
(わたしの価値観が令和の現代人まんまだからしょうがないけど、『源氏物語』ってどうしても、主人公を含めて幸せな人が居ないイメージなのよね)
人権何それ美味しいの? な西暦九百年代に紡がれた物語に、現代的な幸福感を持ち込むことこそナンセンスだと、承知はしているけれど。
あの素直で純真な少年には、自分本位な恋愛で相手も自分も破滅していくような姿より、心から愛する相手に自らも想われる幸福の方が似合うと、贔屓目ながら考えてしまう。
「――決めました。少し言い方は考えますけれど、『刹那的な自由恋愛は自重すべき』と源氏の君へお伝えすることにしますわ。それで嫌われてしまっても、生きるためには仕方ないと、前向きに捉えることといたします」
「積極的に嫌われにいくわけではなく、言うべきことを言って、結果嫌われても気にしない……ということだな?」
「前向きなのか後ろ向きなのか微妙な方針ですが……打てる手が限られている現状では、それが最良かもしれませんね」
暁、楓双方に思うところはありそうだが、葵の出した結論に大きく反発することはなく、頷いてくれる。何だかんだ優しい二人に、葵はようやく、いつもの笑みを返すことができた。
「お兄様、楓。ご心配と迷惑をかけてばかりですけれど、今後もよろしくお願いしますね」
『葵の上』に転生したと気付いてからの日々は怒涛だったけれど、信頼できる味方に恵まれたことは〝今世〟の財産だなと思いながら、葵は改まって首を垂れる――。