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葵の花は蝉と目見え*其の五


 葵の声に芯が通ったことを感じ取ったのか、一つ頷いた楓はそのまま下がり、ほとんど間を置くことなく、小袿姿の女性を一人連れ、戻ってきた。

 いかにも大人しげで可憐な風情の、それでいて意志の強そうな瞳をした、おそらく葵とそう歳の違わない彼女の雰囲気は、『原作』で語られていた『空蝉』のそれと一致する。

 ――楓が葵を隠す几帳の横に控えたタイミングで、推定『空蝉』が淑やかに平伏した。


「近衛中将様の北の方様に、ご挨拶申し上げます。(さきの)衛門督の娘にして、伊予介の妻にございます。この度は、家の者たちへ結構なお品を頂戴し、誠にありがとうございました」

「丁寧なご挨拶、痛み入ります。こちらは、左府様の御娘であり、(げんの)中将様の北の方様にございます」


 楓の代返に、推定が取れた〝空蝉〟は、さらに深く頭を下げる。現役左大臣の娘である葵と、亡くなった父親が衛門督だったに過ぎない〝空蝉〟とは身分に大きな隔たりがあり、こちらが良いと言わねば、彼女は頭を上げることすら許されない。

 葵は少し周囲を見回し、御簾と襖で区切られたこの(へや)に、三人しかいないことを確認する。


 確認、して。


「――北の方様。頭をお上げくださいませ」

「はい」

「そして、御几帳のほど近くまで、お寄りください」

「……かしこまりました」


 扇の陰で囁いた言葉を、楓が正確に伝えてくれる。言われた通り、几帳を挟んだすぐ近くまでにじり寄ってくれた彼女へ、葵は静かな声で切り出した。


「ご丁寧に、ありがとうございます。却ってお気を遣わせてしまったようで、申し訳ありません」

「――っ、いえ、そんな」

「改めまして、源中将が妻、葵と申します。この度は、急な方違えを快く受け入れてくださり、本当に助かりました。ありがとうございます」

「もったいない、お言葉にございます。……前衛門督が娘、時雨(しぐれ)と申します」


 この世界において、〝呼び名〟を伝える行為は、「あなたと仲良くしたいです」という友愛心のアピールとされている。そのため、身分が異なる者同士の場合は、こうして身分の高い者から名乗るのが暗黙のマナーなのだ。というより、身分低い者が上の人へ馴れ馴れしくするのは礼儀知らずだという儒教的概念により、下の者から名乗って友愛を示す行為も推奨されず、必然的に上が名乗るしかないのである。もう面倒だから、身分関係なく初対面の相手には名刺を渡してまず名乗るという、令和のビジネスマナーを採用してほしいものだ。

 ――閑話休題。


「時雨様、と仰るのですね。優しいお名前です」

「そんな、とんでもない。……直答をお許し頂いた上に、これほど温かなお言葉を頂戴し、感無量にございます」

「堅苦しいことは止めましょう? せっかくこうしてお知り合いになれたのですから、あまり気負わずお話しくださいませ」

「ありがとう、ございます。……わたくし、外の方とお話しする機会もあまりないまま嫁いだもので、こういった交流には不慣れでして。失礼がありましたら、申し訳ございません」

「それは、お互い様ですわ。わたしの方こそ、父に甘やかされて育ち、そのまま中将様をお迎えした、世間知らずの箱入り娘ですもの。何かご不快なことがあれば、遠慮なく仰ってくださいね」


 おっとりした語気を意識して保ちつつ、〝空蝉〟――時雨の心をほぐせるよう、優しい声音で語りかける。イメージするのは、葵の母の話し方だ。

 言葉のラリーを続けるたび、時雨の肩から力が抜け、言葉も砕けてくるのが分かる。どうやら緊張はほぐれたらしいと察して、葵は会話を一歩、前へ進めることにした。


「用意したお菓子は、お家の方皆へ行き渡りましたか? 紀伊守の邸宅は人が多くて賑やかだと聞いていたから、多めにお持ちしたのですが」

「充分にございます。あれほど甘く、見た目にも楽しいお菓子は、久々に頂戴しました。邸の者たちも喜んでおります」

「それなら、ようございました」


 持ち込んだお菓子は、なんちゃって求肥に色々な餡を包んだ、大福の原型のようなものだ。てんやわんやの子育てを繰り広げていた前世の〝彼女〟の家事スキルは高く、『アーカイブ』に残されていた料理関係の情報はありがたいことにかなり豊富で、〝概ね平安時代〟なこの世界でも、大抵の料理は頑張れば再現できる。そのため、左大臣邸で供される料理は宮中にも引けを取らない……というか、ぶっちゃければ宮中以上と、知る人からは大絶賛されているらしい。

 それほど優秀な料理人たちが作ったお菓子が美味しくないわけもなく、どうやらここでも、無事に胃袋を掴めたらしい。あらゆるモノが飽和気味だった現代日本と違い、調味料の類は高級品に分類される〝概ね平安時代〟で、甘味が嫌いな人はそう居ないはずと、甘く柔らかいお菓子をリクエストした目論見はズバリ的中したようだ。

 時雨の様子からも、どうやら光の評判は守られたらしいと、内心ほっとしていると。


「あの……葵様。この機会に一つ、お尋ねしたいことがあるのですが。ご無礼をお許し願えるでしょうか」


 不意に。真面目な顔をした時雨が、几帳越しに真っ直ぐ、こちらを見つめてきた。

 少し面食らったが、断る理由もない。笑顔で頷いてみせる。


「はい、何なりと」

「ありがとう、ございます」


 例を述べた時雨は、ほんの少し、沈黙してから。


「失礼、ながら。……葵様は、源中将様とご結婚なさったことを、どのように感じていらっしゃるのでしょうか?」

「中将様との結婚、ですか?」

「はい。……聞いた話では、葵様は東宮様に望まれ、いずれは女御様、中宮様となられるお方として、大切に育てられたと。それが土壇場で、主上と左府様のご意向により、源中将様を婿としてお迎えすることに変わったのでしょう?」

「あぁ……」


 五年も前の話を、よく覚えているものだ。確かに、光が婿入りした当時、そんな噂が世間を巡った。そのため、結婚当初のほんの一瞬、〝源氏の君と妻の不仲疑惑〟が囁かれはしたのだ。――疑惑の渦中にある張本人が、そんな疑惑を持たれていることすら知らぬまま、(つま)とのあれこれを日々惚気てくれたおかげで、小火(ぼや)にもならず掻き消えたが。


「本来であれば入内し、栄華を極めるはずであったのに、主上の御子とはいえ臣下に降られた源氏の君と娶せられたことを……左府様の姫君は、どのように感じていらっしゃるのかと。ずっと、知りたいと思っていたのです」

「そうでしたか」


 時雨の質問は、無礼か否かのジャッジだとギリギリアウトの範疇だ。その証拠に、控えている楓の気配が怖い。時雨本人も分かっているからこそ、これほど強張った表情で、ほぼ平伏に近い体勢で、葵の言葉を待っているのだろう。

 自身が、貴族女性としてあり得ない振る舞いをしていると、痛いほどに理解しながら。それでもなお、この質問の答えをもらうことは、時雨にとって何にも替えられないほど重要ということか。


 葵は。静かに、ゆっくりと、顔の前にかざしていた扇を外し、几帳の隙間から、まっすぐ、時雨の瞳と視線を合わせた。


「……そのようなご質問をなさるのは、時雨様ご自身が、宮仕えするはずだった未来とは違う道を歩んでおいでだからですか?」

「――っ、ご存じ、で」

「小耳に挟んだ程度ですが。時雨様のお父君――亡き衛門督様は、姫君の宮仕えを望んでいらしたと」

「……は、い。父は、そのつもりでおりました。ですが、準備を進めていた最中、急な病に斃れて」

「えぇ。予期せぬことであったと伺っております。お父君が儚くなられたことで、時雨様の宮仕えのお話も立ち消えとなったのですね」

「左様、です。父は名家の出というわけでもなく、親類縁者にも乏しく、両親を亡くしたわたくしどもは、明日の暮らしをも知れぬ身となりました。……ゆえに、伊予介の求婚を受けるしか生きていく道はなく、わたくしは今、こうして葵様のお目にかかっております」

「……そう考えると、不思議なご縁ですわね」


 意識して穏やかな声色を保ちつつ、葵は。


「――〝こんなはずではなかった〟と。時雨様がそう思えるのは、とても幸運なことかもしれません」


 ほんの少しだけ、皮肉を込めた笑みを、几帳越しに時雨へ向ける。


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