葵の花は蝉と目見え*其の四
――『原作』を思い返し、〝現実〟での評判を念頭に、葵は自身についてぼんやり思う。
思って、いると。
「……っ、光? どうしたの?」
「……なんでもないよ。夜も深まって、少し人肌恋しくなったかな」
先ほどまでは半分だけ几帳内に入り込んでいた光が、いつの間にかほぼ全身を囲いの中に滑り込ませ、葵を抱き寄せてきた。光が葵を物理的に離さないのは東対の日常だけれど、まさか他所の邸宅でも同じようにするとは思わず、葵は少し身を竦める。
「光……ここはウチと違って、大勢の方がおいでだから。その、あまり慎みのないことは、ね?」
「もちろん、はしたないことはしないよ。でも、こうして一緒にいるくらいは良いだろう? 私たちは夫婦なのだから、おかしいことは何もない」
「それはまぁ、これくらいなら……」
言いつつ、葵は身体を少しずらし、光の分のスペースを確保する。こうなることを予測していたらしく、楓が作った葵の座所は、人二人が入れるだけの充分な広さがあった。
――涼しい夜風が几帳を揺らす中、無言で光に抱かれていると、寝殿の西の方から、女人たちの囁き声が聞こえてくる。
「……光君が大変な愛妻家でいらっしゃるという噂はまことだったのね。まさか、方違えまでご一緒なさるなんて思わなかったわ」
「けれど、源氏の君のお気持ちも分かるわよ。あれほど高貴な方々であれば、受領の家などものの数にも入らぬでしょうに。一宿の恩があるからと、こんなにも美麗な菓子箱をご用意なさる、お心遣いに溢れたお方だもの」
「本当ね。行きずりの私たちにまで、細やかなお心配りを忘れない、素晴らしい方ですもの。片時も離したくないと思うほど入れ込んで当然よね」
自分についての噂話を盗み聞きするほど、決まりの悪いことはない。しかもそれが誉め殺しとなれば、恥ずかしいやら何やらで、ひたすら反応に困って小さくなるしかないではないか。
そんな葵を、光は笑って抱き締めた。
「ほらね? ここでもまた、葵の評判は高まっているようだよ」
「恥ずかしいから、あんまり言わないで……」
「それは無理かな。恥ずかしがってる葵は、とても可愛いから。もっと見せて?」
「もう。またそんなこと言って。あんまり他人を揶揄うものじゃないわ」
さほど中身のない戯れを繰り広げていると、御簾の外が僅かに動く気配がした。素早く対応へ出た楓が、ふた言み言会話して、すぐに戻ってくる。
「光様。紀伊守殿が、お酒とおつまみのご用意をお持ちくださったそうです」
「あぁ、そうか。――葵、少し出てくるよ」
「分かったわ」
気を遣わずとも良いとは予め伝えたが、紀伊守の立場では、光を接待しないわけにもいくまい。呼びかけに応えて出ていった光は、御簾の外、庇に設けられた宴席で、紀伊守と言葉を交わしながら酒を飲み始める。渡殿では、惟光を始めとした光の従者たちももてなされているようで、そちらへ酒や食事を運ぶ人々が行き交う足音や話し声が、途切れることなく響いていた。
配膳に駆け回っている中には子どもも多いらしい。「皆、可愛らしいね。君の子たちかい?」と光が紀伊守に問う声が聞こえてくる。
「私の子も居れば、父、伊予介の子もおります。父は子沢山ですので」
「あぁ、伊予介は通いの妻も多いので有名だったね。――あの子も?」
「……彼は、亡くなりました衛門督の末っ子です。亡き衛門督に随分と可愛がられておりましたが、父に先立たれ、姉の縁でここに暮らしているのです」
「亡き衛門督……そういえば生前、娘を宮仕えさせたいと申し出ていなかったかい? 主上からそんな話を聞いたことがあるよ」
「はい。しかしその娘御は今、縁あって父の妻となっております」
「あぁ、そうか。だから、姉君の縁で、あの少年もここにいるのだね」
「左様です。亡き衛門督の薫陶を受けていたこともあり、学問も武芸も見込みがあり、ひとかどの人物になりそうなのですが。殿上童にと望んでも後ろ盾なく、引き立ててくださる方もいらっしゃらず、簡単には出仕できないようでして」
「そうなのか。それは可哀想だな」
御簾を隔てた向こう側で交わされる、光と紀伊守の会話。これもまた、『原作』そのままだ。彼らの会話に出てくる〝伊予介の妻〟こそ、『源氏物語』序盤で強烈な印象を残す『空蝉』なのである。
『雨夜の品定め』にて〝中流の女の良さ〟を聞かされた『光君』が手を出し、その後も手を出そうとして拒まれ続け、最後には小袿一枚残して姿を消した女、『空蝉』。読者の間では、数多の女を落としてきた主人公が落とし切れなかった女性として人気が高い。
……そんな風に、外の会話を聞くともなしに聞きながら、『原作』に思いを馳せていると。
「姫様、少しよろしいですか」
「なぁに、楓?」
几帳の外から、少し緊張した様子の楓が声をかけてきた。葵も、いつもの言い方とは違う、深窓の姫らしいおっとりした口調で応える。
「こちらのお邸にいらっしゃる、亡き衛門督の娘御で今は伊予介の妻だという姫君が、姫様へお目通りを願っておいでです。本来であれば紀伊守の北の方がご挨拶へ参るべきですが、さほど良い家の生まれではないため礼儀作法に自信がなく、代理を頼まれたそうで」
「まぁ」
おっとりした風情を取り繕いつつ、『原作』には存在しない展開に、葵は素で目を丸くした。光一人の方違えでは『空蝉』が自ら出てくることなどあり得ないが、葵が方違えに同行し、しかも菓子折りを持ってきたことで、あちらが挨拶に出向いてくるというイレギュラーが発生したらしい。
ほんの少しだけ、考えて。葵は楓を手招きする。
「……御簾の外の光に、ありのままを伝えて。わたしは挨拶を受けるべきだと思うけれど、お受けして良いかどうか」
「承知いたしました」
光が、『原作』通りほんの少しでも『空蝉』に興味を抱いていたら、一緒に挨拶を受けるか、あるいは御簾の外から垣間見ようとでもするだろう。
けれど。もしも、万一、彼が〝原作補正〟に抗ってくれるなら……!
「姫様」
光へ伝言を託した楓が、滑るように戻ってきて。
「光様は、姫様の良いように、と。近くに男がいては伊予介の北の方も落ち着かないだろうから、ご挨拶がお済みになるまで、従者たちと一緒に渡殿でお過ごしになるそうです」
「――!!」
楓にとってはたぶん、予想された返答だったのだろう。告げる言葉に淀みはない。
そんな彼女の言葉を裏付けるように、御簾の向こうでは二人分の影が立ち上がり、庇から簀子へ出ていく足音がする。
(光は……光は、本当に……)
痛いほどの安堵が、胸に迫る。『原作』と同じように進む〝現実〟の中、その中心にいるはずの光が、『光君』と決定的に違う言動を選んでくれた。ただそれだけのことが、葵の中で、この上なく大きな希望となる。
(未来は、変えられる。信じても、良いの?)
声も出せないまま、光の気配が遠ざかっていくのを、見送って。
「……姫様?」
静かになった寝殿に響いた、楓の呼ぶ声に、意識を引き戻される。
「ぁ……ご挨拶、するのだったわね。お通ししてちょうだい」
「……大丈夫なのですか、姫様?」
「えぇ。――もう、大丈夫よ」
他ならない光が、大きな希望をくれたから。
葵はようやく、目の前の〝現実〟と、等身大で向き合える。




