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葵の花は蝉と目見え*其の三


 紀伊守の好感度が高い意味が分からず首を傾げる葵に、楓が呆れ、光も苦笑する。


「それはそうでしょう。父親の配下の邸へ訪れる際に、わざわざ菓子折りを用意するような姫君、そうはいらっしゃいませんよ。高貴な身分をひけらかさず、それほど細やかな気遣いをなさる方であれば、下の身分の者ほど好意を抱いて当然です」

「身分が下であればあるほど、上の者から虐げられた経験こそあれど、気遣われることは少ないだろうからね。しかも、紀伊守にとっての葵は、仕えている主人の娘だ。左府が横暴な主人であるとは思わないけれど、それでも粗相がないようにと気を張っていたところに、あのような心配りを渡されたら、心酔しても仕方ない」

「そういうもの、かしら」

「そういうものだよ」


 葵にとって、持参した菓子折りたちは、光の評判を下げないための小道具でしかなかった。『原作』を読めば分かるが、この方違え、紀伊守の邸の者たちは相当迷惑に感じているのである。方塞がりの件を早めに知らせ、なるべく時間に余裕を持って動くようにしたところで、今日のことを今日言ったことに変わりはなく、しかも『原作』には居なかった葵まで同行したのだから、迷惑なことに変わりはないだろう。いくら光が今上帝の息子で、上司の娘婿だとしても、だからこそ断れない紀伊守にしてみれば、自宅に招く栄誉より好きに使われた不満の方が勝っても責められない。

『アーカイブ』によって紀伊守サイドのあれこれを知った葵にしてみれば、そういう〝身内〟の不満の種を放置しておく方があり得なかった。外面がどれほど良くとも、身内に対して横暴な権力者の行く末は、内部告発からの暴露大会のち失脚と、古今東西相場は決まっている。いくら身分的にはこちらの方が上でも、人として当たり前の気遣いをするかしないかで、心象はガラリと変わるもの。菓子折り一つ渡すだけで、紀伊守サイドの光に対する印象が「無理に方違えしに来た我儘放題な上司の娘婿」から「方違えのためやむを得ず邸を訪れたが、それを充分に理解し、こちらのことも気遣ってくれた高貴な方」に変わるなら、安いものではないか。

 そんな下心満載で持ち込んだブツが、まさか自身の好感度アップに繋がるなど、完全な想定外だ。確かに楓は「北の方様から」と言って菓子折りを渡したが、夫婦同伴で出向けば、妻の行動は夫の行動と同一視されるものではないのか。


 ――そんなことをつらつらと、『アーカイブ』の話を抜きに話すと、光は笑って首を横に振った。


「葵の気持ちはありがたいし、葵が気遣いの品を用意してくれたことで、私の評判も保たれたとも思うよ。けれど、葵が考えてやったことは、あくまでも葵だけの行動だ。他の人のことは知らないけれど、私は、妻の成果を横取りするような懐の小さい夫になった覚えはないからね」

「そりゃ、光はそうだろうけど……」

「私は常々宮中でも、葵の様々な気配りについて話しているし、時折かけられる『妻をよく教育しておいでで』云々のおべっかには、『教育なんてする必要もなければ、したいとも思わない。自然体で傍に居てくれるありのままの妻が、私にとっての至上だから』と返しているんだ。左府の配下であれば、宮中での私について見聞きする機会も多いだろう。そんな私の前で『北の方様から』と菓子箱を差し出されたのだから、紀伊守は素直に葵からだと受け取ったはずだよ」

「……そういうこと」


 どうやら、想定外だった葵の好感度アップの陰には、宮中での光の言動が大きく関与していたらしい。確かに、兄の暁から、「光は何かにつけ、そなたとのあれこれを惚気るからな。『近衛中将は大変な愛妻家』だというのが、宮中での共通認識になってるぞ」とは聞いていたが。まさか、よくあるゴマスリ文句の類をバッサリ切って捨てるほど徹底しているとは思わなかった。

 なんともいえない気持ちになり、少し俯いた葵の周りで楓がテキパキと動き、几帳と屏風、衝立を使って葵の姿が周囲から完全に隠れるよう、空間を整えていく。邸の女房たちが多めに屏障具を持ってきてくれたおかげで、かなり厳重な囲いができあがった。

 ――光との間に置かれた几帳を少しずらして、作ったばかりの空間の中に、光が滑り込んでくる。


「完全に姿が見えなくなると、それはそれで寂しいものだね」

「お気持ちはお察ししますが、こちらにおいでの間はお控えくださいませ。光様が入られますと、その隙間から姫様のお姿が見えかねません」

「いざとなったら、私が抱き込んで隠すよ」

「……それ以前の話で、わたしは別に、ちらりと髪や肩が見えるくらいなら気にしないってば」


 葵が紀伊守の家人たちとの会話を楓に任せているのは、別に高貴な姫の常として慎み深く振る舞っているわけではなく、単純に声を聞かれるリスクを極力抑えているからに過ぎない。必要があれば女房の外出着に身を包み、割とホイホイ気軽にあちこち外出している葵は、誰に素顔と声を晒しているか分からないのだ。「あれ、この顔とこの声、どこかで……」とならないための予防策が屏障具と楓による代返なだけで、葵自身は人前に姿を見せない慎み深さとは無縁である。

 少し唇を尖らせ、そこまで厳重に隠さずとも良いと主張すると、楓が肩を竦めてこちらを覗き込んできた。


「姫様が気になさらないのは重々承知しておりますが、今のところ良い具合に、世間様から誤認して頂いているのです。わざわざ本当のことを言うより、このまま『近衛中将の北の方様は高貴な身分に相応しい品格と慎み深さを兼ね備えたお方だ』という印象が浸透するよう振る舞った方が、先々の受けはよろしいでしょう」

「自分でそんな印象操作をしたことはないけどね。わたしが表向きはあまり外出しない〝深窓の姫〟なのを良いことに、お父様やお兄様が好き勝手吹聴しているせいでしょう」

「後は、光様の隠さない溺愛と、宴などで左大臣邸を訪れた方々による伝聞でしょうか」

「宴での葵はまさしく、左府の子としてこの上ない、姫の中の〝姫〟だからね。管弦の腕前は当代一の呼び声高く、詠む歌は人々を魅了し、漢詩まで即興で作ってみせる。これほど優れた姫は皇族にもおるまいと、密かな評判になっているよ」

「当たり前でしょう。主上の姫君方は皆様、わたしよりお歳が下じゃない。さすがに、歳下の方に抜かされるような努力はしてないわ」

「うーん……たぶん、皆が言っているのは年齢のことじゃないと思うけれど」

「ウチの宴にいらしてくださるのは、お父様と仲の良い方ばかりだもの。わたしがどんな姫だったとしても、どうにか褒め言葉を捻り出して、〝当代一〟の評判を立ててくださったと思うわ。……同年代か少し上の方々と比べれば、わたしなんて下の方よ」

「それはさすがに、謙遜が過ぎるんじゃないかな」


 真面目な顔をした光が首を横に振るが、客観的に見れば、葵の実際の実力と魅力はそんなものだろうと思う。今を最もときめいているのは、今上帝の寵愛深い〝藤壺の宮〟で、次いで評判高いのは先の東宮の寵愛深かった〝六条御息所〟。その後ろに、東宮妃となった〝弘徽殿女御〟や兄の妻である〝右大臣家の四の君〟と並んで、影薄く〝左大臣家の大姫〟が出てくる。それが京のそこここから聞こえてくる噂のざっくりした統計なのだから。


(……『原作』でも、『葵の上』の重要度は下から数えた方が早いしね)


 同じく物語序盤で亡くなっているのに、後々まで娘と絡んでクローズアップされる『夕顔』とはえらい違いだ。『光君』の跡取り息子である『夕霧』の生母にも拘らず、死後にその存在が重々しく語られる場面はほぼない。左大臣家を継ぐのも結局は『頭中将』で、『葵の上』は中盤以降、忘れ去られたも同然となっている。


(まぁ『葵の上』ってよく言えば真面目、悪く言えば堅物で、『原作』序盤に出てくる女性キャラの中では地味な印象だもの。わたし自身、そこまで派手というか、華やかな人間じゃないし。思えば最初から、序盤脱落のフラグは立ってるのよね)


 その脱落の仕方があまりにあんまりなので、せめて穏当な離婚のちフェードアウトを目指したいだけで、キャラクター的にはそもそも、物語ラストまで居座るようなタイプじゃないのだろう。


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