葵の花は蝉と目見え*其の二
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この世界における葵のアドバンテージは、良くも悪くも、『原作』を知っているという点にある。光の誘いを受けてすぐ、密かに『アーカイブ』にて『箒木』をおさらいし、実は紀伊守のお屋敷が今は手狭な状態で、相当な無理をして『源氏の君』の方違えを受け入れていた一文を見つけ出した。さり気なく楓に耳打ちし、供の人数は本当に最小限となるよう調整する。加えて、急ぎ厨房へも伝達し、大人数にも行き渡るよう、大量のお菓子も用意してもらって。
「――ようこそお越しくださいました、源氏の君」
「急に悪いね、紀伊守」
早いうちから連絡していたのもあってか、日没とともに訪れた邸にて、紀伊守が落ち着いた様子で出迎えてくれた。付き合いのない他所様の家という事情もあり、唯一同行してくれた楓が持参した几帳によって最低限姿を隠した状態で、葵は光とともに挨拶を受ける。
光の言葉を受け、紀伊守は笑って首を横に振った。
「滅相もございません。日の高いうちに仰ってくださり、大変助かりました。お供の方々も、これほど少なくしてくださるとは」
「急な方違えだからね。極力、紀伊守の負担を減らすようにと、妻が助言してくれたんだ」
「それはそれは……北の方様のご配慮に、御礼申し上げます」
父左大臣の配下である紀伊守にとって、葵は上司の娘のようなものだ。光はその婿で、しかも今上帝の愛息子。どうしたって腰は低くならざるを得ないだろうし、どれほど迷惑でも本音など言えない。実際、『原作』にもそのような描写はあった。
(こういう小さな不満を放置するかしないかで、上司の人望って大きく変わってくるのよね……)
前世を思い出して遠い目をしつつ、葵は目で、控えている楓に合図する。
葵の意を正しく受けた楓は、来る前に厨房で用意してもらったお菓子の詰め合わせの箱を几帳の陰からそっと差し出す。
「北の方様より紀伊守殿へ、御礼の品でございます」
「……そんな、礼など」
「聞けば、こちらのお邸には今、お父君のお家の方々も身を寄せておいでとか。ただでさえ慌ただしいところ、我々の方違えまで受け入れてくださったことに、北の方様は大層感謝していらっしゃいます。その御礼にございますゆえ、どうぞお受け取りくださいませ」
「そこまでご存知でしたか。確かに我が家は今、常に比べ手狭ではございますが。ご連絡が早かったのもあり、家の者も余裕を持って、お迎えの準備を整えることができました。私どもこそ感謝せねばなりません」
こういった品を遠回しに一度断るのは、前世でもよくある振る舞いだ。もちろん、こちらに引く気はない。
葵の意をよく汲んでいる楓は下がることなく、箱を前へと押し出す。
「北の方様もまた、家政を取り仕切る奥の方。邸の方々のお手間を慮れば、これくらいは当然のことと仰せです。量も充分にお持ちしましたので、邸の皆様方でお召し上がりください」
「いえ、しかし……」
「ここは受け取っておくれ、紀伊守。妻は主従の立場など関係なく、他人様へ面倒をかけるときは礼を尽くして当然と考えるひとでね。あくまでも、場所を借りることへの返礼のようなものだから」
「えぇ。光様の仰る通りですわ」
「――承知いたしました。源氏の君、北の方様のお心配り、ありがたく頂戴いたします」
几帳の向こうで、紀伊守が深々と頭を下げた。彼が箱を受け取ったのを見て、惟光と二人の舎人が、用意していた菓子入りの重箱を紀伊守の邸の家人へ手渡す。箱を掲げた彼らが一旦奥へと下がり、室内には光と葵、楓だけが残された。
「……話には聞いていたけれど、なかなか見事な風情だね」
「えぇ。遣水も見事だし、あちらの垣根や庭先の植え込みも、しっかり手入れされているわ。蛍が飛んでいるということは、遣水の水質も良いようね」
紀伊国といえば、現代日本における和歌山と三重南部を示す地名で、等級分けでは上国に区分されている、豊かな土地だ。そこを任されていた紀伊守はさぞかし、せっせと稼いでいることだろう。庭の凝り方だけを見ても、彼がいかにお金持ちか伝わってくる。
「そういえば、隼が言っていたね。受領たちは中流だけれど、位はそう低くはないしお金にも困ってはいないから、こういう立派な邸を建ててゆったりと暮らし、世間からも評判を集めているって。紀伊守や、父親の伊予介なんかはまさしく、隼が言う〝成功した受領〟に当てはまるのだろうな」
「家も見事だし、家人の教育も行き届いているし。確かに、こういう家でお育ちになった女人であれば、宮中でも気負うことなくお勤めできるでしょうね」
評判高い庭はもちろんのこと、室礼も風情があって素晴らしい。葵たちが通された寝殿の東側は、常であれば主人である紀伊守とその一家の座所であるはず。客人向けに整えてはあるが、そこかしこに紀伊守一家の趣味の良さが窺える。さすが、父左大臣が気に入って配下に加えただけはあり、紀伊守は受領身分ではあっても上流に引けを取らない文化人のようだ。
「――失礼いたします」
そんなことを話しているうちに、複数人の気配がして、入室の声がかけられた。楓が「どうぞ」と応えると、数名の女房が几帳や屏風、衝立といった、いわゆる置き型の屏障具を持って入ってくる。
「主人である紀伊守より、そちらの北の方様へお届けするようにと申しつけられました」
「まぁ。わざわざありがとうございます」
「いいえ。北の方様も同道なさるとお伺いしていたにも拘らず、用意に不手際がありましたこと、誠に申し訳ございません」
「とんでもない。お気遣いに感謝しますとお伝えくださいませ」
女房たちは謙遜していたが、寝殿に屏障具の類がなかったわけではない。屏障具とはそもそも、室内の間仕切り用に使われる家具の総称である。平安時代における貴族邸宅の建築様式である寝殿造とは、大きく広い部屋を御簾や襖でざっくり区切り、さらにその中で几帳や屏風を使って室内を細かく区切って〝部屋〟とする仕様なので、客人を迎える部屋にそれらがなかったら変だろう。〝源氏の君〟という、帝の寵児を迎えるに相応しい室礼は、しっかり整えてあった。
しかし。そこに、〝葵の上〟という妻が加わると、話はまた変わってくるわけで。
「助かりましたね。こちらの几帳一枚で姫様のお姿を完全にお守りできるかといえば、正直なところ、心許なかったので」
「外出先で完全に姿を隠すつもりはなかったけれど……扇もあるから、最低限、顔は隠せるし」
「自身は几帳の陰に隠れつつ、女房が全てのやり取りを任されている様子を見て、この上なく慎み深い姫だという印象を、紀伊守は抱いたのだろう。そのような姫に、几帳一枚だけで夜を過ごして頂くのはあまりに酷と、彼の立場なら考えるんじゃないかな」
「そこまで気を遣わせてしまって申し訳ないわ。光、後でくれぐれもお礼を言っておいて」
「もちろん言うけれど、この待遇は単純に、紀伊守と邸の者たちの、葵への好感度の高さの表れだと思うよ。だから、そこまで申し訳なく思うこともないさ」
「好感度? どうして?」
きちんと住む家がありながら、夫の方違えについて来る妻など、普通に常識知らずの烙印を押されて終わりだと思っていたが。どこに好感度要素があったのだろうか。




