葵の花は蝉と目見え*其の一
今年の夏は、気温はすっかり高くなったのになかなか梅雨が明けず、長雨が続いていた。例年よりも冬から春にかけて暖かかった(体感だけでなく、手作りした温度計で計測した結果)こともあり、「もしもエル・ニーニョ現象が起きているなら、梅雨時期に大変な量の雨が降る可能性がある」と予測し、父に伝えていたお陰で、荘園の対策が取れたことは良かったが。
当然ながら宮中では、なかなか止まない雨が問題視されて。宮中で務める者たち総出での物忌が行われることとなった、と光から聞かされたときに、「あれ?」と引っ掛かりはしたのである。
(前世の〝私〟も源氏物語の現代語訳は一通り読んでたけど、遥か昔の学生時代に一度きりだったから、細かい部分は『アーカイブ』に潜らなきゃ出てこないのよ……彼女の『源氏物語』知識は学者さんの解説書がメインで、超有名な『雨夜の品定め』だって、どういう流れで開かれたのかまでは端折られてることがほとんどだし)
暇つぶしの本を持たせて送り出し、一晩宮中で過ごして帰ってきた光から、友人たちと女人について語り合ったという話を聞かされて初めて、(これってもしかしなくても、『雨夜の品定め』? え、いつの間にか『箒木』始まってる!?)と確信を得たわけで。暁の幼友達である隼と武の名には聞き覚えがあり、何なら左大臣邸で開かれた宴にて紹介されたこともあったから、割とスムーズに出てきた役職名を『アーカイブ』と照合。ばっちり一致してしまえば、後は芋蔓式に(と、いうことは、この後は『空蝉』登場のターンか)というところまで思い至れてしまう。
(それでも、ここはあくまでも〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟な世界で、『源氏物語』と全くの同一でもないから。……『空蝉』と出会わない展開も、期待したのに)
そうじゃなければ良いなと願いつつ、今宵、内裏から見たこちらは方塞がりではないか確認するよう、楓に頼んで。……野萩を連れて戻ってきた楓を見た瞬間、無惨にも願いが打ち砕かれたことを知る。
楓と一緒に絵巻物を片付けながらも、耳だけは鋭敏に、光と野萩の会話を拾う。拾って、紀伊守の邸が方違え先に選ばれていく様子を、いつしか無意識に『アーカイブ』を開き、『原作』の該当場面を読みながら〝同じ〟であることを確認していた。
(結局、ここは『源氏物語』ということなのね。全くの同一ではなくても、『光君』が辿る未来は、揺らがない)
『源氏物語』の一巻に当たる『桐壺』は、主人公『光源氏』の誕生から初恋の君『藤壺の宮』との出逢い、そして元服と『葵の上』との結婚までを描いた、いわばプロローグ。物語が本格的に動き出し、数多の女性との関係が描かれるのは、次の『箒木』からだ。即ち、この〝世界〟は今、ようやく始まったとも取れる。
(〝わたし〟が、『葵の上』が、死ぬまで……あと、五、六年というところかしら)
光が、どれだけ葵を、愛してくれていても。ここが『源氏物語』の世界である以上、彼はこの先、数多の女性と巡り逢い、愛し合うのだろう。……そうしていつか、自身の真の最愛が誰にあるか、気付く。
紀伊守の邸への方違えが、『原作』通り決まっていくのを目の当たりにしながら、葵は静かに絶望し――。
(やっぱり、運命は変えられない、の?)
浮かんだ言葉が口から零れ落ちたのは、全くの無意識だった。気付いたときには「やっぱり」の音が響いていて、考えている以上に己が動揺していることを知る。心中の呟きを音にするなんて失態、光と結婚してからは犯したことなどなかったのに。
探るような視線とともに、柔らかながら引く気配のない光に詰められて――『託宣』を得ているのかとまで迫られてなお、動揺した頭では、どうにか誤魔化すことしか考えられなくて。自分でも下手くそだと分かる言い訳に、光の表情がどんどん強張っていくのを、どうしようもなく切ない想いで眺めることしかできない。
(『葵の上』と『光君』は、不仲なのが〝正しい〟のだもの。もしかしたら、光の心は、ここからどんどん、離れていくのかも……)
『原作』通りの〝現実〟が目の前に迫ってきたことに、知らず心がネガティブな考えで埋め尽くされそうになった、
そのとき。
「――ねぇ、葵。方違えだけれど、葵も一緒に行こうよ」
「……はい?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
いや、言葉の意味は分かるのだけれど。
「いっしょ、って……紀伊守のお邸へ、わたしもお邪魔するということ?」
「あぁ。女人の外出は何かと入り用になるから、急には難しいものだと聞くけれど、葵はそんなことないだろう?」
「それはまぁ……外へ出るのに、何かと物々しい準備なんて、面倒だからしないけれど」
一般的な平安女性と違い、気軽にあちこちお忍びで出かける葵にとって、外出支度は日常の一コマに過ぎない。ふと思い立ってもすぐ出かけられるよう、出先で必要になる最低限のものは、外出セットとして常にまとめてある。ゆえに、急な外出も問題はない。
が、違う。論点はそこではない。
「この方違えって、内裏から見たこちらが方塞がりだからでしょう? こちらにいて障りがあるのは光だけよね?」
「まぁ、そうだね。左府の北の方も皇女だけれど、今上帝の娘ではないから、特に障りはないはずだし」
「つまり、方違えしなきゃいけないのも、光だけよね?」
「そうなるね?」
「……わたしがついていくの、おかしくない?」
「おかしくないさ。方違えに妻が同行しちゃいけないなんて決まりはないんだから」
「決まりはないけど、あんまり聞かないわよ」
「世間の常識なんて気にしない、葵らしくもない言葉だね」
涼しい顔で言われてしまえば、「確かに、平安常識なんてさほど気にしないけども」とぐうの音も出せず負かされてしまう。光に散々令和の感覚を吹き込んだ弊害が、まさかこんなところで発揮されようとは、お釈迦様でも思うまい。
――そこへ、タイミング良くか悪くか、野萩が戻ってくる。
「確認して参りました。光様、紀伊守の方は問題ないようです」
「ありがとう、野萩。急なことだし、最低限の供だけ連れて出るから、そう外へ伝えてくれるかな。あと、葵も一緒に行くよ」
「……姫様も、でございますか?」
「あぁ。せっかく物忌が開けて葵と過ごせる時間を、方違え如きで台無しにされたくはないからね」
「承知、いたしました。大丈夫とは思いますが、念のためもう一度、紀伊守に確認して参ります。――楓、そなたは姫様のご用意のお手伝いを」
「はい、母様」
誰よりも頼りになる側近の女房二人が異議を唱えない以上、葵の同行は決定したも同然である。外堀を真っ先に埋めて逃げ道を塞ぐ光の隙のなさは、『原作』でも有能と語られていた、為政者の片鱗にも見えた。
(『空蝉』のいる邸へ『葵の上』が行くなんて、イレギュラーにも程があるけど。こうなった以上は仕方ない、か)
自分でもあからさまと分かるほど光と距離を取り、彼を傷つけた。
それにより、『原作』通り光の気持ちが離れるのかもしれないと、半ば覚悟を決めてからの、この急展開。先ほどまでの強張った表情は何だったのかと拍子抜けするほど、今の光は穏やかだ。
「楽しみだね、葵」
「……えぇ。遣水の方法が分かれば、ここでも真似できるかもしれないし。そうすれば、もう少し夏を涼しくできるかも」
言外に同行の承知を含ませると、聡い彼はすぐに気付いて、そっと肩を抱き寄せてきた。
「夫婦は比翼連理と言うからね。私はなるべく、両翼でありたいのだよ。ワガママにつき合わせてしまうけれど、どうか離れないで。……傍にいて、葵」
「えぇ。……あなたが望む限り、わたしはあなたの傍にいるわ」
日没までは、今しばらく――。