雨上がりの花々は*其の五
「とはいえ、わたしの身分では、公的な外出の機会自体が滅多にないから。わたしの口から方角関連の言葉が出てこないのは、ある意味当然だったわね」
「そう言われれば、そうなるのかな」
「――失礼いたします」
几帳の裏から、楓の声がした。「どうだった、楓?」と尋ねる葵に答える形で、妻腹心の女房が現れる。――背後に、東の対の統括である野萩を連れて。
「野萩が来たということは、やっぱりこちらは方塞がりなのね」
「はい。姫様にご指摘いただけて、大変助かりました」
「急ぎ、方違え先を探さねばなりませんね」
方塞がりを避けるため、定められた時刻を過ぎるまで他所の家へ身を寄せることを〝方違え〟という。方塞がりは誰の身にも等しく起こるため、日頃はさして親交のない相手であっても、方違えを頼まれれば快く受け入れるのが礼儀だ。とはいえ、それはあくまでも建前で、実際は急な客を迎え入れるのと大差ないため、受ける方はかなり慌ただしくなる。今回は、葵が早めに気づいてくれたおかげで日暮れまでまだしばらくあるとはいえ、それでも当日夜の方違えとなると、そこそこ急だ。相手方の負担を軽くするためにも、連絡するなら早いに越したことはない。
のんびり絵巻物を読む空気でもなくなり、楓と葵が散らばっている巻物類を手早く片付けていく中、野萩がいくつか方違え先の候補を挙げて。
「あとは……すぐに受け入れ可能なところとなりますと、左大臣家配下の者の邸でしょうか。たとえば紀伊守の邸宅は、遣水を上手く作って、ずいぶん涼しい木陰に立つ家になったとか」
「へぇ。涼しいのは良いね」
雨上がり特有のじめじめした空気も相まって、うっかりすると気分が悪くなりそうなほど、外は暑い。左大臣邸はどういうわけか、じめっとした感じは大きく軽減され、室内の風通しも良いため、体調を崩すほどの暑さは感じないが。
方違えするなら、涼しい場所の方が良い。光の言外の希望が伝わったらしく、野萩は「では、紀伊守に確認して参ります」と一礼し、静々と室を出ていった。
「やっぱり――」
野萩が下がり、静かになった室内に落ちた、小さな呟き。
思わずという風に溢れ、すぐに口を噤んでも、発された言葉は無かったことにはならない。
「葵? 〝やっぱり〟ってどういうこと?」
「ごめんなさい。何でもないの、気にしないで」
「……何でもない、とはとても思えないのだけれど」
……そうだ。考えてみれば、ここまでの会話の流れは、どこか不自然だった。雨物忌の間、暁たちとどう過ごしたかの雑談をしていたところに、葵が何の脈絡もなく、方塞がりを告げてきたのだ。
そう。あれは、確か。
(隼と、武。二人の役職を聞いて、葵の顔色がほんの少しだけど変わったんだ)
内裏の方塞がりと二人に、関係はない。けれど、二人と光が話したことが、葵にとって方塞がりを予見する〝きっかけ〟となったのだとしたら。
……今、葵から発された「やっぱり」が意味することとは。
「葵……もしかして、何か『託宣』を得ていたの?」
確信に近い問いだった。光が隼たちと話した翌日、方違えで紀伊守の邸宅へ行くことまで、葵は全て見通していたのだろうと。彼女の様子からは、そうとしか思えない。
光の視線を受けた葵は……その視線を静かに受け止めた後、ゆるゆると、首を横に振って。
「ううん。得てないわ」
「葵……」
「『託宣』ではないのよ。……本当に」
「しかし、」
「紀伊守の邸は、お父様の配下の間で評判だから。光が方違えするとしたらそこかな、って当たりをつけてて、本当にそうなりそうだから、思わず『やっぱり』って呟いちゃっただけ。ごめんね、紛らわしいことして」
葵の微笑みはいつもと同じようでいて、しかしいつもとまるで違った。
どこかで見たことのある〝それ〟の記憶を探って――思い至った刹那、光は奈落の底を幻視する。
〝……これで、〝偽紫〟の出番も終わり、ね〟
葵が光の前から姿を消した〝あの日〟と同じく、今の葵の目は、ここではない〝どこか〟を眺めている。光を見ているようで、光ではない〝何か〟に囚われている。
(離れては、いけない。ここで不用意に葵と離れてしまったら、今度こそ、永遠の別れになるかもしれない)
夫でありながら、光はまだまだ、葵を知らない。殊更に心を隠すわけも、〝偽紫〟の意味も、
――時折彼女が見ている、〝どこか〟も。
知らなくて、知りたくて。
けれど、知ろうとする度、他でもない葵自身から、ぶ厚い〝壁〟を感じてしまう。
それならば――。
(知られたくないなら、暴かない。見られたくないなら、見ないから。……だからどうか、もう二度と、私から離れないで)
光にとって何よりも耐え難いのは、葵を喪ってしまうことだ。仕事への意欲も、俗世への関心も、葵がいるから湧いてくる。葵と末永く幸福に過ごすため、立場を確立させて彼女を守れる人間になろうとすればこそ、仕事へも真摯に向き合えるし、葵が世俗を良くしたいと日夜発明に取り組んでいるからこそ、そんな彼女の思いを無駄にしないためにもと、世の動きに対し敏感でいられるのであって。
葵を喪ってしまったら、光の中にはもう、何一つ残らない。光にとって、葵は生きる理由、そのものなのである。
だから。
「――ねぇ、葵。方違えだけれど、葵も一緒に行こうよ」
「……はい?」
〝この目〟をした葵と、このまま離れることだけは、絶対にしてはならない。
強い執心を柔和な笑みに隠し、光は穏やかに、葵を誘う――。
次回、主人公視点です。
しかしこの話、思ってた以上に主人公以外の視点が多いですね。