雨上がりの花々は*其の四
そして、思わぬ掘り出し物を探し当てたい冒険心に関しても。
「葵と巡り逢って、再会して、こうして夫婦になれたことで、私の冒険心はもう満たされているからね。仮にこの先、荒屋住まいの気品ある姫君と知り合う機会があっても、不憫な暮らしをしているなぁと同情する気持ちしか持てないと思うよ」
「……同情が恋情へ発展するお話も、巷には溢れているけどね」
「それはないかな。荒屋住みの姫君より、左大臣邸の東対に住んでいる奇想天外な発明姫の方が、意外性という意味では遥かに格上だから。あなたを好いている時点で、その手の姫君に私が心惹かれることはない」
「……わたし、ときどき、光の趣味が分からなくなるわ」
ふい、と葵は視線を逸らすけれど、よく見ればその耳は微かに赤い。照れている、ということは、本心で嫌がってはいないはずと前向きに捉え、光はそっと葵の肩を抱き寄せた。
「ところで……色々な物語絵巻があるけれど、葵はどれが好き?」
「わたし? えっと……そうね」
視線を彷徨わせた葵は、ややあって、少し古びた絵巻を指差した。
「これかな。『落窪』」
「落窪……って確か、継子いじめの?」
随分と古い物語である。いつの頃からか世に広まり、作者が誰かも正確には伝わっていない。
物語の内容も、実の母親を亡くし、継母のもとで不遇な暮らしを強いられていた姫君が、高貴な公達と巡り逢って幸せになり、夫となった公達は継母へ復讐するという、言ってしまえば〝よくあるやつ〟だったと記憶している。
葵が好む物語にしては、随分とありきたりというか、俗向けだという気がしなくもない。そんな疑問が表情に現れていたのか、彼女は少し、苦笑して。
「継子がどうというより、登場人物たちの描写が面白いのよ」
「登場人物の描写?」
「主人公の女君は心優しく、辛い境遇でも人を恨まない健気な人柄。男君は若い公達らしく色好みで通っているけれど、実はまだ恋を知らないだけで、本気になったら一途な愛情深い人。女君に仕える女房の阿漕は生意気だけれど頭の回転が早く、主人のために一生懸命。その夫で男君の乳兄弟である帯刀は、お調子者だけどもよく気が利いて、裏表がない。……こんな具合に、登場人物がどんな人か、お話を読む中で鮮やかに浮かんでくるの。もちろん、主人公をいじめる継母や、彼女の実家である中納言邸の人々も同じよ。敵も味方も人物造形がはっきりしていて、そんな彼らだからこそ『落窪』の物語が紡がれていく。それを読み解くのが、とても面白いわ」
「……そういう読み方もあるのか」
「あー……ひょっとして、あんまり一般的な楽しみ方じゃないのかしら?」
「あまり聞かないかな。確かに、とても面白い着眼点かもしれない。そういう視点で改めて物語を読めば、また違った知見が得られそうだね」
物語ひとつ読むにしても、光の知らない世界を見せてくれる妻は、相変わらず意外性の塊だ。きっと、どれだけ長く連れ添っても、彼女の秘めた姿を全て知ることはできないのだろう。それほどまでに、葵という女人は、深い。
頷きつつ、光は葵が持つ『落窪』の絵巻物に目を落とした。場面は有名な、男君が初めて女君の邸を訪れ、彼女が過ごしている室の様子を垣間見て、室内や衣服の粗末さに釣り合わぬ、姫の美しさと気品の高さを知って虜になるところだ。
(……あれ、これって)
「――『落窪』の男君はまさしく、あなたのお友だちが仰るところの、〝思わぬところに思わぬ姫が〟の意外性に惹かれた、というところかしら。彼女が住んでいるのは中納言邸内ではあれど、狭く落ち窪んだ粗末な部屋へ追いやられ、着る物すらも満足に与えられず、それでもその美しさと気品は隠し切ることができず……そんな女君の有り様に、男君は強く惹きつけられたのだものね」
光が気付いたことを、笑った葵がほぼ代弁してくれた。気の合う妻に笑って、相槌を打つ。
「そうやって物語に例えられてみれば、隼が言っていたことも一種の様式美なのだなと理解できるよ。そういえば、『落窪』の男君も、女君を見染めるまでは適当な遊び人だったという話だね。色好み男がそういう、冒険心をくすぐる恋に惹かれるのは、世間一般ではよくあることなのだろうな」
「まぁ、この手のお話が好まれるのは、古今東西、過去から未来まで見回しても、そう変わらないでしょう。男性側もそうだけど、女性側だって、自分だけを一途に愛してくれる貴公子に見染められて幸せになる、っていうのは、ほとんどテンプレ……様式化されたお話だし」
「なるほど。そういう着眼点もあるのか。物語の読み方といい、葵は他の人と違うところによく気がつくのだね」
「それって褒めてる?」
「もちろんだとも」
どんな葵も好ましく感じるのだから、光が葵を形容する言葉は、須く褒め言葉だ。そんな基本的なことを聞かれてしまうなんて、まだまだ愛情表現が足りないということか。
夫婦という立場にあぐらをかき、こちらの気持ちは伝わっているものと思い込んで愛を伝える労力を尽くさなかった結果、まさかの葵から別れを切り出されそうになった年始の一件は、光にとって紛れもない恐怖体験であった。もう二度と、あのような経験はしたくない。光が葵を愛していると、絶対に手放す気はないと言葉と態度で示し続けているうちは、葵の方から離れる選択肢は今のところ無いようなので、あれからは自分でも少しくどいと思うほど、自身の気持ちをあらゆる手段で表現し続けている。
「ところで……」
話が一段落ついたところで、葵が『落窪』の絵巻物を引き寄せつつ、そっと光を上目遣いに見つめてきた。
「先ほどからちょくちょくお名前が出てくる隼様……って確か、以前うちの宴にもいらしてた、左馬頭様だったかしら?」
「ん? あぁ、そうだよ。左馬頭の隼と、藤式部丞の武と、あとは暁と私の四人で話してたんだ」
「それって……」
少し表情を曇らせ、僅かの時間思案した葵は、光が何事か尋ねるよりも早く、傍らに控えていた楓を手招きする。扇を開き、その陰で短く出された指示を受けた楓は、「確認して参ります」と一礼して下がっていった。
「……どうかしたの?」
「えぇ。今、楓に確認してもらってるけど――たぶん、内裏から見ると、今夜のこちらは方塞がりになっていると思うの」
「えっ」
〝方塞がり〟――陰陽道の考え方における占いの一つで、行こうとする方角に神が巡行していて、進めば神の怒りに触れ、禍があるとされる方角のことである。人により、日時によって塞がる方角は異なるが、内裏から見た方塞がりは、特に帝とその親族にとって凶兆と言われている。
普段、葵の口からはあまり聞かない語句に、方塞がりの事実よりも珍しさが勝ち、光は僅かに身を乗り出した。
「葵から陰陽道の言葉が出てくるなんて、初めてじゃないかな? 普段は占いなんて、さほど信じていないだろう」
「よほど力のある方に占ってもらった結果以外は信じてないわね。でも、信じてないからといって守ってないわけでもないのよ。慣習ってそういうものだもの」
「それは、確かにそうだ」
その身一つでホイホイ奇跡を起こして平然としている葵はおそらく、その辺りの平凡な占者の視る凶兆などものともしないほど、神の加護が強いだろう。日時も方角も、大抵のことは気にせず生きていけるが、だからといってこの都で陰陽道を軽視した振る舞いをすれば、変わり者の烙印を押されることは避けられない。聡明な葵がそれを理解できないはずもなく、お忍びでない公的な外出の際は、きちんと方角を確かめているという。
「方違え」の解釈は諸説ありますので、作中解説はあくまでも〝この世界〟のものと認識ください。
調べれば調べるほど混沌としていく、平安風習エトセトラ。。。