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雨上がりの花々は*其の三


  ■ ■ ■ ■ ■



 無事に左大臣邸へ帰り着いた光は暁と別れ、葵の待つ東対へと向かった。


(昔から何となく感じてはいたが……やはり暁も、葵について何か知っているのだろうな)


 年が明け、葵と〝夫婦〟の仲を深めて。

 ますます離れがたくなり、寝ても覚めても葵のことばかり考えてしまう光とは対照的に、葵はむしろ、肌を重ねる前よりもその心が見えづらくなるときがあった。


(閨の中では、拒むことなく私を受け入れ、求める素振りすら見せてくれるのに。……ひとたび外へ出ると、どうしてか以前より遠いような気すらしてしまう)


 態度が変わったわけではない。葵は変わらず光を大切にしてくれて、一緒にいる時間を楽しんでくれる。

 ただ、そう。


(私が、葵への恋情を、率直な言葉で伝えたとき。……突然靄がかかったみたいに、葵の心が判然としなくなるんだ)


 嫌がられてはいない、と、思う。「ありがとう」と微笑んでくれるし、「気持ちは嬉しい」とも返してくれるから、たぶん、嫌がってはいない。

 それでも――どうしてか、言葉が伝わっている手応えが感じられないのだ。

 そして、もっと言えば。


(葵。葵は……私のことを、どう思ってる?)


 夫として大切にし、頼りにしてくれていること。人として好感を抱いてくれていることは、もう充分に分かっているけれど。

〝光〟という個人に、どういった感情を覚えているのか。一人の男として認識し、恋情を傾けてくれているのか。

 それが、見えない。


(再会した当時の葵が、私を幼友達程度にしか思っていなかったことは、何となく分かっていたが。あれから私も成長して、葵の背も越して。今は……どういう気持ちで私と接しているのだろう?)


 閨を拒まれているわけではないから、男として見れないわけではない、と思いたいが。

 どうにかその気持ちを掴もうにも、葵はその肝心な部分を用心深く隠し、決して、光には見せないまま。

 せめて、心を隠す理由を知りたいと、最近の光は葵だけでなく、葵の周囲にも気を配るようになっていた。


(楓がかなり深くまで知っているだろうことは、二人の様子から感じ取れることではあるが。今日見た感じだと、暁も楓ほどではないにしろ、知っているようだった)


 であれば、葵に忠実で絶対に裏切らない楓より、妹を溺愛してはいるものの光のことも買ってくれている暁の方が、何かと崩しやすい気はするが――。


「――お帰りなさいませ、光様」

「あぁ、野萩か。ただいま」

「お早いお戻りでしたね」

「思ったより早く、雨が上がったからね。――葵は?」

「お部屋にいらっしゃいますよ」


 葵の暮らす東対は、左大臣邸の中で最も女房の数が少ない。主人夫妻の身の回りの世話をする役目に至っては、ほぼほぼ楓が担っているようなもの。楓が出られないときは今のように野萩が出てくるが、彼女は東の対の統括的立場なので、そう悠長に主人の世話ばかりしていられないらしい。

 何はともあれ、出迎えの女房と挨拶してしまえば、あとは暗黙の了解で、東対を自由に歩き回れる。本当に出迎えただけの野萩と別れ、光は一目散に、寝殿内にある葵の座所へと進んだ。

 夫の特権で、声をかけると同時に御簾を掻き上げて。


「――葵、ただいま」

「お帰りなさい、光」


 室内で、楓とともに何やら絵巻物を広げていたらしい葵は、光の気配に気づき、すぐ立ち上がる。そんな彼女を目にすると、光は自然と笑顔になるのが分かった。

 立ち上がり、近づいてくる葵に、光の方も近づいて。


「物忌、お疲れ様。宮中の様子はどうだった?」

「物忌にかこつけて、大臣方も若い者も、好きに過ごしていたよ。真面目に篭っておいでだったのは、主上くらいじゃないかな」

「ふふ。世の中、だいたいはそういうものよね。わたしが貸した本はどうだった?」

「読んでたんだけど、面白くなってきたところで、暁が遊びにきてね。それからはずっと暁と、あと久しぶりに隼と武も来てくれたから、四人で話していたよ」

「あら。じゃあ、余計なことをしたかしら」

「葵が私にしてくれることに、余計なことなんかあるものか。また空き時間に続きを読むから、しばらく貸してくれる?」

「えぇ、もちろん」


 話しながら袍を脱ぎ、楽な格好になって、空いている敷物へ適当に腰を下ろす。葵から袍を受け取った楓がシワにならないよう丁寧に伏籠へかける様子を目の端にしつつ、光は床にいくつか広げられている絵巻物へと視線を落とした。


「さすがは左府の家だね。絵巻物ひとつ取っても、実に質が良い」

「そうなのよね。生まれたときからこの上質感に慣れすぎて、ちょっと怖いわ」

「怖がることなどある?」

「あんまり上質な暮らしに慣れると、粗末な生活ができなくなりそうじゃない?」

「葵が粗末な生活をする日なんて来ないだろう」

「そう願いたいけれど、いずれ東宮様がご即位されれば、我が家の立場は必然的に弱くなるだろうし……」

「この暮らしが維持できなくなるほど、左府の地位が脅かされることはないと思うよ。暁はあれでも、右府の娘婿だしね」

「そうだった。本人にそのつもりが微塵もないから、うっかり忘れちゃうけど」


 そう笑って、絵巻物を巻こうとする葵の手を、そっと握って止める。


「光?」

「良いじゃないか、出しっぱなしでも。見てたんだろう?」

「え、えぇ。でもあなた、帰ってきたし」

「たまには葵と二人、ゆっくり物語を楽しむ午後があっても良いよ。もちろん、もう見飽きたなら、片付けてもらって構わないけれど」

「ううん。久しぶりに出したから、まだ全部は見てないわ」

「久しぶり、なんだ?」

「あなたに本を貸そうと、物語系の書物を入れていた唐櫃を開いたから。せっかくだし、絵巻物でも見ましょうか、って話になってね」

「雨だと、できる作業がぐんと減りますから。姫様もお暇になるのですよ」

「そういうこと」


 楓の注釈に怒るどころか深々頷く葵は、本当に、貴族家の姫として風変わりだ。いかに余暇を楽しむかが上流貴族の風流の見せどころという常識を知りながら、普段の葵は新しいものを生み出すことに夢中で、忙しくて当たり前のような気質の持ち主なのである。それを女房に当て擦られても気にせず頷くばかりな彼女は、京を代表する姫の一人でありながら、全然まったく、〝らしく〟ない。その気安い雰囲気は、どちらかといえば先ほど桐壺で話していた〝中流の女人〟に近いのではないだろうか。


「光? どうかした?」


 無意識のうちに、葵の顔を見つめたまま、動きを止めていたらしい。問われて、軽く首を横に振る。


「いや。やはり、女人の意外性とやらは、中流階級に限らないと再認識していたところだよ」

「女人の意外性?」


 きょとんと首を傾げる葵へ、物忌の間、桐壺で隼が話していた内容を掻い摘んで話す。要は、色好み男が何故中流階級の女人を好むのかという、男の下心解説のような話だが。人の心の機微にも聡い葵なら、果たして何と言うだろう。


「そういう話をしてたのね……」

「私は、妻が居ながら他の女人とも〝遊びたい〟と思う男の心理など、さっぱり分からないからね。どういう感情で複数の女人を渡り歩いているのか、興味があったんだよ」

「で、その答えが、裕福な受領階級狙いと、思わぬ掘り出し物探し的な、意外性のある冒険心を満たすため、ってことね。……言われて、理解できた?」

「まぁ、何となく。共感はできなかったけれど」


 主上の子であり、人臣の頂点左大臣家へ婿入りしている時点で、光がこの先困窮する未来はない。即ち、金目当てで受領階級の娘を狙う意味もない。


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