雨上がりの花々は*其の二
今回、少し短いです。
「……やるなぁ、光」
宣耀殿を抜けたことで緊張が解け、思わずこぼれ落ちた素直な感想に、隼と武が無言で首肯したのが分かる。あの口達者な隼が何も言えなくなるほど、光の対応は〝完璧〟だったということだろう。
友人たちからほとんど尊敬の眼差しを向けられた光は、今度こそはっきりと苦笑する。
「大袈裟だよ。程度に差はあっても、あの程度の言い回しならば、君たちだってできるだろう?」
「できなくはないけどな。咄嗟の場面であそこまですらすら出てくるかとなると、話は別だろ」
「もちろん、言い回しの巧みさもお見事でしたが。主上のお子でいらっしゃる光様が、あのようにご自身を下げるお言葉を選ばれたことに驚きました」
「確かに。誘った女房は納得しておりましたけれど、実際のところ、光様の北の方様と後宮の女房たちとでは、その美しさも教養の高さも、比べるべくもないでしょうに」
「……まぁ、そういうのは比べるものでもないからね」
隼の言葉を全肯定はせず曖昧にぼかしてから、光は足音なく立ち止まり、視線を自分が出てきた桐壺へと向けて。
「彼女がどこまで本気だったかはともかく、〝選ばれない〟というのは傷つくものだよ。誘いを断る私は、最初から、彼女を傷つけることは確定しているんだ。それなら、できるだけその傷が浅くなるよう、配慮しないとね」
「だから敢えて、自分を下げるってことか?」
「下げたつもりは、そんなにないけれど。誘いを断った理由が彼女にではなく私にあるのは、本当のことだから」
「しかしあれは……光様のご身分であれば、『身の程知らずな』『私の妻と張り合えるとでも思うのか』と返しても問題ない誘い方ではありましたが」
武の言葉に、光は少しだけ頷いて。
「言いたいことは、分からないでもないよ。……けれどね、武。そうやって居丈高に振る舞って、彼女の矜持をへし折ってしまったら、後に残るのはそれこそ、大勢の前で恥をかかされた恨みだけだ」
「……はい」
「私が恨まれるだけなら、まだ良い。けれど、もしも彼女の恨みが私ではなく、私が〝選んでいる〟妻へ向いたら? 私の振る舞い一つで、妻へ危害が及ぶかもしれない」
「それ、は……」
武と、話を聞いている隼にも伝わったのだろう。光が桐壺へ視線を向けている、その意味が。
光の生母である桐壺更衣こそまさに、〝選ばれなかった〟女たちの恨みを一身に背負った〝選ばれた〟女の悲劇を体現した存在だ。
(……正直、光が〝そこ〟を理解して、葵第一に立ち回っている時点で、葵が言ってる『託宣』の未来が現実になる可能性は低いんだよなぁ)
母の身に起きた〝悲劇〟を知るからこそ、自身の妻を同じ目に遭わせないよう立ち回る光は、年齢に見合わず老成している。もちろん、光の顔がとんでもなく美麗な時点で、勝手に恋心と葵への妬心を募らせる女人が全く居ないとは言い切れないが、少なくとも、光は自身へ向けられる好意に気づかず流すほど鈍くはない。自分への好意が、巡り巡って葵への悪意に変貌する可能性をしっかり理解している彼であれば、『託宣』の未来からも、妹を守ってくれるのではないだろうか。
(葵は『託宣』が外れることはないと、絶対視してるみたいだけどな。話を聞く限り、少なくとも夕花と俺の未来は変わったみたいだし、同じように葵と光の未来も変わると、なんで信じられないのか……)
暁から見た光は、間違いなく葵一筋で、他の女人など視界に入ってすらいない。葵は光が本当は他の女人を想っているのに気付いていないだけだと思い込んでいるが、宮中で光と行動を共にする機会が誰よりも多い暁は、そんなわけがないとはっきり分かる。無自覚でも心惹かれる女人のいる男は、無自覚だからこそ、その行動に〝色〟が出てしまうものだ。宮中での宴や様々な会の最中でも、なるべく早くお開きにして家へ帰りたいとしか考えていない男の心のどこに、妻以外の女が住まう余地があるというのか。何度か、光のいない隙を見計らってそれとなく葵本人へも伝えてはみたけれど、ついこの間まで恋心を解さなかった無粋っぷりが災いし、イマイチ信用してもらえない。
「――暁?」
考え込んでいた暁は、不意に呼びかけられて我に返り、顔を上げる。
「あぁ、光。どうした?」
「どうした、じゃないよ。そろそろ行こうかと呼びかけたのに、返事もしないから」
「……何か、心配事でも?」
武の問いに、ゆるゆると首を横に振って。
「何でもない。ちょっとした考えごとだ。悪かったな」
「……そうか。じゃあ、行こう」
「あぁ」
頷いて一歩を踏み出しながら、暁は一人、空を見上げて心中で呟く。
(まぁ、なるようにしかならないか。どんな未来が訪れても絶対に葵を守り切れるよう、この先もできるだけの対策を用意しておくだけだな)
雨上がりの青空を見上げ、そう改めて決意する暁。
その横顔を静かに窺う光の視線には、敢えて、気付かない振りをした――。
次回、視点が変わります。