これから*其の一
(うん。やっぱり、この展開は色々とおかしい気がする)
ほとんど箸が進まなかった朝食を楓が下げて、一人きりになった室内で、葵は重いため息を吐く。幼友だちだった光が葵を覚えてくれていたのは素直に嬉しいが、『源氏物語』的には齟齬しかない。〝光源氏〟が〝葵の上〟との結婚に前向き、ともすれば前のめり気味なんて、いったいどこの世界線か。
「何なら、恨まれても仕方のない別れ方したし……」
「――よ、葵。調子はどうだ?」
不意に、御簾の向こう側から声が掛かった。考え事がてら脇息にもたれかかっていた上半身を起こし、背筋を伸ばす。声の持ち主は、普段なら貴族のしきたりなんてどこ吹く風で御簾の内側まで無許可で入るデリカシーのなさを発揮するが、さすがに妹が男と一夜を過ごした部屋にずかずか踏み込むほど、配慮に欠けているわけでもないらしい。
「お兄様、おはようございます。どうぞ、お入りになって」
「あぁ」
御簾を捲って顔を見せたのは、左大臣家の嫡子にして葵の兄、暁。既に成人して久しく、宮中にて蔵人少将の役職を与えられている、若手貴族随一の出世頭だ。――そう、彼こそ『源氏物語』において『光源氏』生涯のライバルと語られる、あの『頭中将』なのである。
作中では何かと比較され、『光源氏』にはいつも一歩及ばない、と評される彼だが、妹の欲目を抜きにしても、暁は文句なしの〝良い男〟と思える。光は美人系、暁はちょっとヤンチャ系と方向性が違うだけで、どちらも顔の造形は同じくらい整っているのだ。ここまで来れば、あとは見る人の好みの問題だろう。
「体調はどうだ? ……顔色はともかく、具合は悪くなさそうだが」
「体の調子はいたって良好ですわ。顔色が優れないのは……気分の問題でしょう」
「……源氏の君のこと、だな?」
兄の質問に、無言で首肯する。葵の様子から状況を察したらしい彼は、板の間に座ると軽く頭を振った。
「父上から、去り際の源氏の君が仰った挨拶を伺った。『姫の夫として末永くよろしく』と言われたそうだな」
「わたしも楓から、そのように聞きました。聞きましたが……社交辞令ではなく、ですか?」
「父上の喜びようから察するに、形だけのお言葉でなかったことは確かだろうな。添臥の一夜は婚礼の三夜に数えられるのかと、源氏の君からお尋ねだったそうだ」
「それは、つまり?」
「今夜もいらっしゃる、ということだろう。母上をはじめ、奥の女房たちが張り切って婚礼の準備を進めておられるぞ」
左大臣邸の盛り上がりを聞かされ、葵は思わず、姫君ポーズを忘れて脇息に突っ伏す。
「どうしてそういう大事な情報が、結婚する当事者まで回ってこないのですか!」
「そなた専属の女房が、そもそも少な過ぎるからな。野萩と楓だけでは、入手できる情報も限界がある。あと、」
「なんです?」
「そなたが、源氏の君との婚礼に後ろ向きというのも大きな理由だろう。並の姫ならいざ知らず、そなたが自分の意に沿わない状況を強いられて、唯々諾々と従うわけがない。下手に話して家出だの出家だのされるよりは、黙って結婚まで持ち込んで、後から恨まれた方が良いという判断だろうな」
「別にわたし、源氏の君が嫌いだから婚姻を避けたいわけではないので、それほど過激な逃げの手を打つ気はございませんが……」
「葵が何のため、この婚姻に反対しているのかを知っている俺たちは、その言葉を信じてやれるが。何も知らずに『託宣』を受けられた父上と母上は、警戒されて当然だろう」
葵が『アーカイブ』を使ってやらかすあれこれを『託宣』と呼ぶ兄は、妹が人智を超えた異能持ちであることこそ知っているが、前世事情まで事細かに理解できているわけではない。『アーカイブ』で得た知識も、『源氏物語』を知っているからこそ見えるこの先の展開も、全てまるっと『託宣』で得たもの、と片付けている。『アーカイブ』も前世の葵が得た知識のストックゆえ、広義では暁の認識も、全くの的外れではないが。
「――で?」
身内からの信用度がゼロな件に、若干遠くを見てしまった葵へ、暁が改まった様子で問いかけてくる。
「俺が知る限り、葵の『託宣』が外れたのは、これが初になる。そなたが語る未来から、外れたと思って良いのか?」
「残念ながら、大筋は外れておりませんわ。源氏の君が結婚に前向きという状況こそ、わたしの知る〝未来〟とは異なりますけれども、婚姻を結ぶことそのものは変わりませんから」
「なるほど、そうとも言えるのか……」
腕を組んだ暁が唸ったところで、少し離れた場所に置いていた几帳が揺れ、膳台を持った楓が「失礼いたします」と近づいてきた。台の上には、椀が二つ置かれている。どうやら、暁の来訪を察し、飲み物を持ってきてくれたらしい。
「ありがとう、楓」
「さすが、気が利くな」
「滅相もない。暁様、わざわざのお越し、痛み入ります」
「可愛い妹の運命がかかっている。これくらいのことは当然だ」
敢えて茶化すように語り、楓に手渡された白湯を一口飲んで、暁はすっと表情を変える。
どことなく茶目っ気のある、愛され上手な公達から――若くとも有能な、左大臣家の嫡子へと。
「話を戻すが――葵の知る〝未来〟と大筋が変わらぬということは、『源氏の君の嫡妻となった左大臣家の大君は、彼を慕う女性から恨まれ、やがて呪い殺される』というそなたの『託宣』にも変わりはないということだな?」
「……その〝未来〟から逃れるべく、今も布石を打ち続けてはおりますけれど。源氏の君との婚姻が避けられぬのならば、むしろ一歩近づいたと見るべきでしょうね」
「姫様ほどのお方が恨まれ、呪われるような婿君など……と思っておりましたが、今朝方ちらと拝見しました源氏の君は、確かに世の女性の心を一瞬で虜にしそうな容貌でいらっしゃいました。あのような方であれば、北の方を呪い殺してでも自らがその座に収まりたいと邪心を抱く不届者が現れても、不思議ではないやもしれません」
「わたしが知る〝未来〟でわたしを殺す方は、明確な悪意や邪心を抱いていたわけではないのよ。ないけれど……源氏の君を愛するあまり、お心が制御できなくなってしまわれたわけだから、やはりあの方の妻となれば、そういった恨みの対象にもなりかねないと、覚悟だけはしておかなければ」
『葵の上』呪殺ルートの厄介さの肝は、まさしくここにある。『源氏物語』において、主人公の妻である彼女は、何か特別なアクションを起こしたわけではない。左大臣家の姫に生まれたがゆえ、時勢を鑑みて『光源氏』の妻となり、妻となったがゆえに恨まれた。呪い殺すほどの情念のきっかけこそ『葵祭での車争い』というのが定説だが、それも源氏の北の方であったからこそ起こった悲劇である。
要するに――『光源氏』の嫡妻、〝北の方〟となった時点で、誰が悪いわけでもないけれど、妬み嫉みと恨みを買いやすいポジションへ収まってしまう。即ち、呪殺ルートへも近づいてしまうわけで。
「さて――。ここから、どう動きましょう?」
婚姻を避けられないのであれば、その次の手を打たねば、『原作』展開待ったなしなのだ。