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〈閑話〉とある女房の総評*其の四




 楓にとって、第一に望むものはいつも、葵の幸福だ。葵が何の憂いもなく幸福で、その幸福な人生が可能な限り長く続くこと。それこそが楓の望みであり、自身の存在意義とすら心得ている。

 ……だから。葵の語る『物語』の通り、〝源氏の君〟と葵の結婚が本決まりとなったとき、彼が真に葵を軽く扱う男だったら、どんな手を使っても、彼を葵から排除するつもりだった。


「あぁ、やはりあなただ、葵。逢いたかった――!」


 あの日。添臥の夜、見届け人として御帳台の外に控え、その声を聞くまでは。


(そうだったら良いのに、と願ってはいたけれど――やはり、〝源氏の君〟は姫様を、お忘れでなかった!)


 一縷の望みを、かけてはいたのだ。幼い頃から六年もの間、あれほど葵に真心込めて慈しまれ、あっさり忘れられるような人間が果たしているのだろうか、と。種別はともかく、何らかの〝愛情〟は抱いていて然るべきでは、と。

 結果として、御帳台の内にいる〝光君〟は、葵の言う『原作』の主人公と違い、声だけでも分かるほど、葵に心底惚れ込んでいる。


「……どうぞ落ち着かれませ、源氏の君。今宵は元服、添臥の儀にございます」


 その情と正面から向かい合っている葵の声は、ごく落ち着いているように聞こえるが、楓には分かる。


(……姫様、かなり動揺しておいでですね)


『原作』と大きく外れた展開を前に、『原作』を指標としてきた彼女が動揺するのも無理はない。

 ――が。


(もしも、こちらの〝光君〟が、姫様一人を愛して、大切にしてくださるお方なら。姫様が彼と交流した六年間で、母君への思慕も、初恋のひとへ抱くはずだった淡い想いも、全部まとめて姫様への恋情へと置き換わったのなら。――姫様が呪われる隙もないほど、愛してくださるかもしれない)


 葵から聞かされた『原作』の『光君』は、永遠に結ばれることのない初恋のひとへの情を持て余し、埋まらない心を埋めようと多情に走る男だった。一度関係を持った女人は生涯面倒を見たという話だから、情深く、マメな人ではあったのだろう。

 たとえば。この世界の〝光君〟も、『原作』の性質そのものは受け継いでいるとしたら。

 情深く、マメな男が、心の底から求めていた女を堂々と愛せる立場になったら――?


(姫様以外目に入らない、一途で誠実な夫となってくださるかも……なんて、さすがに夢見すぎかしら)


 高貴な身分の男が、生涯妻を一人しか持たないなんて話は、昨今物語の中でしか聞かない。葵の影響か、女遊びに興味を示さない左大臣家の嫡男、暁ですら、政略の都合上、複数の妻を娶っている。


(それでも、姫様を大切に想ってくださる婿君なら。妻が恨まれる羽目になる、不実な女遊びはしないと信じたいわ)


 神仏に祈るような気持ちで、楓は添臥の夜を過ごして――。




 ……現状を見るに、楓の祈りは、届きすぎるほど天へ届いたらしい。

 新枕を交わすべき夜に、妻から〝禁欲令〟が出されたにも拘らず、迎えた婿君はこちらが引くほど足繁く、左大臣家に通ってくる。割と早い段階で挨拶が「こんにちは」や「こんばんは」から「ただいま」となり、迎えるこちらも「お帰りなさいませ」となって。葵に至っては、昔と違う他人行儀な言葉遣いを寂しがられたとかで、ほぼいつもの話し方に戻っていた。

 葵は未だに現実を受け入れられないようだが、光が葵を一途に想い、夫婦であることを望んでいるのは、一目瞭然。ここまで来たら後は、葵が光の想いを受け入れるだけ――。


(……暁様と夕花様の婚姻などもあり、まさか姫様が婿君と睦み合うまでに、四年もかかるとは思いませんでしたが)


 人生とはいつも、ままならないものなのだな、としみじみ実感する、楓であった。



  * * * * *



「それにしても、ついに姫様が……よくもまぁ、ここまで源氏の君が忍耐してくださったものだよ」

「最近は忍耐し切れなくて、そろそろ姫様と床入りしたいお気持ちが漏れ出ていたけれど。……それを〝別れの切り出し〟と勘違いされるなんて、つくづく姫様、恋愛方面だけは鈍くていらっしゃるわ」

「まさか、そうだったの?」

「さっき、光様がご入浴の間、姫様のお傍に控えてたんだけどね。そういう話されたの」

「それはもう、鈍いとかそういう問題ではないでしょう」

「私もそう思うけど、姫様の中では今でも、『光君の最愛は藤壺女御様』なんだもの。『葵の上』が『光君』に愛される展開はあり得ないって思い込んでる」

「姫様が『前世』でお読みになった『予言書』ね……」


 葵は野萩に直接『前世』の話をしていないが、〝気配を消す〟を得意技としている野萩が、以前に葵と楓が話している内容を聞いてしまい、「あの話はどういう意味か」と尋ねられたため、ざっくりした概要は説明してある。野萩も、九死に一生を得て突然大人びた葵には思うところがあったらしく、「これで大体のことは理解できた」と納得し、その上で「姫様が信頼して、全て話すのがお前だけなら、私は詳しく知らない方が良い。この先も、姫様のお心第一になさい」と任せてくれたのだ。


「まぁ、姫様がいくら『予言』に引きずられて後ろ向きになっても、お相手の光様に姫様を手放す気がまるでないから。特に心配しなくても、なるようになると思う」

「姫様から別れを切り出されても、受ける気はおありでないということね?」

「それどころか、姫様の雰囲気から不穏な気配を察知して、姫様が逃げないよう、『私が風呂から上がるまで葵を頼む』って私に託されるくらいよ」

「まぁまぁ、なんてこと」

「姫様、過去に一度、光様の前から消えたことあるし。神経質になるのも分からなくはないけど、……あの隙のなさ、敵に回すと怖そう」

「そうだねぇ。源氏の君が姫様を大事にしてくださっている限り、これまでと変わらず遇するのが良さそうね」


 葵の話す『原作』――『源氏物語』における『葵の上』の死因は、主人公『光君』を愛し過ぎた恋人の一人が無自覚に起こした呪いだという。葵曰く、「意識して呪詛したわけじゃなく、恋人を狂おしいほど想っているのに、その気持ちを素直に表へと出せない葛藤が、彼女を生き霊にしてしまったの。生き霊化して、恋しいひとのところへ行ってみれば、彼の隣には別の女が侍っている。こいつがいるから彼は私のところへ来てくれないんだ! って衝動的に襲ってしまっても……仕方ないのよね、彼女にしてみれば」ということらしい。

 こちらの〝光君〟が葵一筋で、隠れて遊ぶ暇もないほど左大臣邸へ通い詰めている現状を見るに、他所で女を囲っている可能性は皆無だろう。婿入りした公達の中には、気に入らない妻を放ってその屋敷の女房と遊ぶ猛者もいると聞くが、野萩管轄の東対で、そのような不祥事は起こり得ない。そもそも、光は入浴以外で葵と離れることはないし、葵の御帳台以外で夜を明かしたこともないので、疑いを挟む余地すら存在しないのである。


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