〈閑話〉とある女房の総評*其の三
〝秘密〟と、そして。
「そんな……! では、姫様のお命は」
「えぇ。――『原作』どおりに世界が進めば、あと二十年弱の命、ということになるわね」
「まさか――!!」
彼女の、〝宿命〟も。
「色々と作っていたのは、生活水準向上のためが第一だったけど……こんな感じの、触るな危険的扱いにならないかな、って狙いもあったのよ。普通の姫君の日常がどんなものか、わたしも知らないわけじゃないけれど、その通りに振る舞っていたら、呪殺コースまっしぐらだもの」
「そのために、その……『前世』とやらの、お力で?」
「正確には、『前世』のわたしが得た知識限定で詳細まで閲覧できる〝力〟ね。限定知識の保管庫って意味で、わたしは『アーカイブ』と呼んでるわ」
「あーかいぶ……」
葵が最初に石鹸を作ったのは、病から奇跡的に回復して目覚め、健康体へと無事戻って楓と再会した、その後まもなくだったはずだ。
と、いうことは。……あの頃から、彼女は。
「か、楓……? どうしたの、泣いてるの?」
「も、申し訳、ありません……」
「な、何が? あなたが謝ることなんて、何も」
「――私は、姫様の、乳姉妹なのに! 血よりも濃い絆を、持つ者である、はずなのに。……姫様が、ずっと苦しんでおられたことに気づかず、今日までのうのうと!」
「楓……」
ふわり、と温かい腕が回される。
葵に抱きしめられたのだ、と気付くより先に、耳元で声がした。
「あのね。わたし、病から回復して、初めて楓に会ったときのこと、今でもよく覚えてるの」
「ひ、姫様?」
「あのときは、ね。周囲の女房たちの噂話から、ここが『源氏物語』の世界で、わたしが『葵の上』だって、ほぼ確信したすぐ後だった。さすがにこれ以上、女房たちのお喋りを聞く元気はなくて。お母様に頼んで、女房たちには下がってもらってたの」
「そうだったのですか……」
「側仕えの女房の中で、野萩だけは、無責任な噂話に加わらないから、信頼してた。乳母だってことも分かってたし。だから、野萩だけ残したんだけど……そのとき、野萩が言ったの。『気分転換に、娘の楓でも呼びましょうか。姫様の乳姉妹で、病の前まではずっと一緒にいましたので、気心も知れておりましょう』って」
「えぇ、はい」
「『前世』の記憶が蘇る前の〝葵〟の記憶って、朧げでね。お父様、お母様、お兄様の顔はさすがに分かったけど、女房は、野萩だけ安心できるなって程度で、顔と名前すら一致しなかった。……でもね、楓だけは、名前を聞いた瞬間、すごく懐かしくて、『会いたい』って思ったの」
「姫様……!」
喜びのあまり、先ほどとは別の涙が溢れてくる。
やはり、そうだ。『前世』を生きた記憶が蘇っただけで、葵はずっと、葵のまま。
――楓の愛する、〝姫様〟のままだった。
「そうして会ってみたら、やっぱりすごく、懐かしくてね。思わず大人みたいな挨拶しちゃったから、あなたも不思議だったでしょうけど」
「それは、えぇ。正直、ちょっと違和感はありましたが」
「でしょうね。怪訝そうな顔してたもの、楓」
「――ですが、難しい言葉をお使いなだけで、姫様は姫様だとも思いましたよ。少し雰囲気は変わられても、大好きな姫様であることには変わりありませんでしたから」
「……そっか」
僅かに首肯する気配がして、葵が抱擁を解く。
至近距離で見つめ合い、彼女は。
「あのとき、当たり前みたく遊びに誘ってくれて、わたし、すごく嬉しかった。――今だって、わたしがどんな風に変わっても、楓は笑って、受け入れてくれる。それがどれほど心強くて……ありがたいか」
花が綻ぶかの如く、穏やかに、笑った。
顔が赤らむのを自覚しつつ、楓はふるふる、首を横に振る。
「ですが……姫様のお苦しみを理解できなかったことに、変わりはありません」
「わたしが見せないようにしてたんだもの、当然よ。さっきも言ったけど、『前世』のわたしはもういい大人だったの。いくらしっかりしてても、まだ七歳の楓に見破られていたら、逆に情けなさすぎるわ」
それに――と葵は瞳をいたずらに光らせて。
「これからは――秘密の共有者として、力になってくれるでしょう?」
敢えて軽く、そう言ってくれたのだった。
葵の秘密を知ってから、二人はこれまで以上に距離の近い主従となった。葵は楓を無二の存在として重く扱い、単なる乳姉妹以上の待遇を得て。
――葵の後宮通いが始まってからは、邸で不在を誤魔化してくれる楓のためにと、色々気遣ってくれた。
「えっ!? 『光君』に会ったのですか!?」
「会ったけど……この時点の彼はまだ、母を亡くしたばかりの幼子だわ。それなのに、桐壺には、新しく雇われた乳母以外、彼の養育に携われる人がいないみたい」
「そんな……」
「〝宿命〟とか、そういう難しいことは抜きにして。あの放置子を、そのままにはしておけないわね」
留守番お礼の贈り物を渡されながら、世間話のように重要な話を聞かされたときも。
「お帰りなさいませ、姫様。……何やら、お顔の色が赤いですね?」
「……あなたもそうだったけど、この世界の子どもって、老成してるのがデフォなの?」
「と、仰いますと?」
「…………光の中で、何がどう転んだのか、分からないけど。今日、会いに行ったら、どうしてか口付けされて」
「――はい!?」
裳着を終え、御簾の内に籠るべき立場になっても変わらない主に、青天の霹靂が訪れた日も。
「噂では、聞いていたけれど。――やっぱり先日入内されたそうよ、藤壺女御様が」
「そう、でしたか」
「えぇ。……光の口から聞いたから、間違いない」
「光、君が……」
「お母君と似ていらっしゃる方と巡り逢えて、嬉しそうだったわ。……これできっと、彼の心の穴も埋まる」
「姫様」
「葵の花は、色こそ似ていても、所詮藤にはなれないの。――偽紫の役割は、これでおしまい、ね」
「姫様……」
穏やかに育んだ友情の日々が、『物語』の進行によって、容赦なく潰えた夜も。
「姫様。――どうか、お心を強くお持ちください。まだ何も、始まってすらいないのですから」
いつも、楓は葵の傍にいた。




