〈閑話〉とある女房の総評*其の一
葵の女房、楓視点です。
底冷えする冷たい風が、夜闇を静かに揺らし、抜けていく。
――今頃、ようやく、この凍えるような寒さを癒す人肌へ辿り着けたであろう主を思い、楓はそっと、嘆息した。
「……楓? どうしたの?」
「お母様」
簀子をぐるりと回り、やって来たのは南庇。左大臣家の一の姫、葵が寝起きする東の対において、御帳台から最も遠いこの位置に、女房たちの控え部屋である局は固められている。主の側仕えという、女房本来の役目からすれば、ご座所から遠いこの位置は不便なこと甚だしいが、もちろんこれにはきちんとした理由があった。
本来側仕えされるべき主本人が、女房たちに傅かれるのを嫌がる――という、理由が。
「姫様は? どうかなさった?」
御簾が少し上がり、中から顔を出したのは、楓の母であり、葵の乳母であり、この東の対における使用人頭のような役目を担っている、野萩だ。楓の局は野萩の隣なので、帰ってきたら当然ながら、母と顔を合わせることになる。
「うーん……今日はお近くにいない方が良いかなぁと思って、抜けてきた」
「抜けてきた、って。お前が抜けたら、母屋に控える女房がいなくなるでしょう」
「だから、その方が、姫様のご意向に添えると思ったの」
「……まさか」
抜群に勘働きの良い母のことだ。楓の遠回しな言い方で、現在の母屋――正確には御帳台内の様子を察したらしい。何度か呼吸を整えて、彼女は御簾を大きく上げた。
「――入りなさい」
「はい、お母様」
頷いて、母の局へ入る。野萩と楓の局は立場上、他の女房たちのものとは少し離れた場所へ置いているため、中で声を潜めて話せば、盗み聞きされる心配はほぼない。
「先ほど、内裏から源氏の君がお帰りになって、お湯を使われたことまでは、把握していたけれど。……今宵ついに、同衾されたということ?」
「えぇ。間違いない、と思う」
「そうなったところを確認したわけではないんだね?」
「だから、姫様は〝そうなったところ〟を聞かれるだけでもお嫌だろうから、絶対に音が聞こえない局まで下がってきたのよ」
「そう。――確かに、その判断は正しいよ」
「ありがとうございます」
女房として大先輩でもある母に、太鼓判を押されるのは心強い。……この判断に太鼓判が押されることそのものが、平安の、しかも左大臣家なんていう貴族中の貴族家に生まれた姫君として、異例中の異例であることは今更だ。
「それにしても、姫様の感覚は、遂に変わらずだったわねぇ」
「大殿様も母北の方様も、無理に姫様を貴族の型へ嵌めずとも良いというお考えだったもの。『異能』を持つ方は、それを自身の思うまま使えない方が、人として大切な部分を歪ませてしまわれるのですって。姫様が前に、光様からお聞きした話よ」
「確かに、姫様は破天荒ながら、まっすぐお育ちになったけれど……女房が傍にいないと、不都合も多いでしょうに」
「姫様の『前世』の方は、他者との距離感や個人の時間をとても気にする『世界』で生きていらしたようよ? なんだっけ……〝ぷらいばしー〟が大切なんだとか」
「その〝ぷらいばしー〟って?」
「私たちが言うところの、〝公私〟の〝私〟に近いかも。個人の趣味とか、夫婦や家族の時間とか、そういうものは親しい人の間だけで共有するもので、みだりに他者へ見せるものじゃない、って考え方……なのかな?」
「分かるような、分からないような……姫様のお考えだと、女房は〝親しい人〟に入らないんだね?」
「〝親しい人〟にも段階があるんだよ、きっと。私も完璧に把握できてるわけじゃないけど、姫様のこれまでの言動を振り返るに、夫婦の時間の中でも〝閨ごと〟は、お互いだけが把握すべき最重要機密なんじゃないかな」
楓は葵の『前世』を彼女の話でしか知らないので、何もかも全部理解するのは難しいけれど。
楓を信じて、大きな秘密を明かしてくれた最愛の〝姫様〟の、常に一番の味方であり、死ぬまで味方でい続けると、ずっと、ずっと誓っている。
それはときに、忠義心では他の追随を許さないと評判の母、野萩を苦笑させるほどで。
「……やっぱり、お前を姫様付として育てたのは、正しかったよ。これほど主に寄り添える女房は、育てようと思って育つもんじゃない」
「私は、生まれたときから姫様――葵様に、お仕えする宿命だったのだもの。これくらい、できて当然でしょう?」
母の賛辞に胸を張りつつ、楓の記憶は過去へと遡っていく――。
* * * * *
……楓の記憶は、敷布の上で今にも息絶えそうなか細い呼吸を繰り返す幼子の手を必死に握る、母の背中から始まっている。
「姫様、姫様!! あぁ、どうか、どうか御仏よ、姫様をお連れにならないでくださいまし……!」
後から思えば、あのような修羅場に幼子を連れてくる非常識人は左大臣邸にいないため、葵の看病で連日局に戻ってこない母を探して広い屋敷を冒険し、運よく母の居場所を探し当てたのだろう。
そこで母に看病されていたのが、このお邸の〝ひめぎみ〟だという事実に、楓は強く心を揺さぶられた。
母を取られた、という嫉妬心もあっただろう。
寂しがった我が子がすぐ近くに居ることすら気付かず、〝ひめぎみ〟の手を握り続ける母への、怒りもあったことだろう。
しかし――それ、以上に。
(ひめさま……ひめさま、なんで? なんで、そんなに、おつらそうなの?)
病にやつれてなお、高貴な美しさは一欠片たりとも損なわれない〝ひめぎみ〟が、その瞳を固く閉ざしていることに、楓は。
(やだ。やだよ、ひめさま――!)
強く深い、衝撃を受けたのだ。
それ以前の記憶は曖昧だから、想像することしかできないが……乳姉妹である楓は、葵より少し早く生まれはしたものの、その差はほんの僅か。赤子の頃から野萩の乳を分け合って育った間柄なのだから、気付いたときには傍にいて、近しい存在だったことは間違いない。
いつも傍にいる、幼いながらも凛として、夏風の如く清涼な美しさを纏った彼女を。
誰もが崇め、末は女御か中宮かと持て囃す〝姫〟を。
……楓は、きっと。〝ひめさま〟と己の立場の違いも分からぬほど幼い頃から、大好きだった。




