いきさつ*其の三
孤独に涙する幼子を、放っておくことなんてできない――。
それは、同情だったかもしれない。憐憫、だったかもしれない。
けれど、前世で三十年あまりを生きた彼女は知っていた。人間は、〝愛〟が主食の生き物なのだ。
ありきたりな家庭に育てば、その〝愛〟は親がくれるのだろう。だが、別に親だけが〝愛〟を与えるべきとは決まっていない。特に幼少期の〝愛〟など、あればあるだけ、食べれば食べるだけ、満たされるものなのだから。
寂しさに泣く、幼子に。通りすがりの転生少女が、ほんの僅か、余分に愛情を注いだところで、〝物語〟の本筋から大きく外れはしないだろう。
そう楽観視して、葵はそれからの数年間、よほどの用事がある日を除いて、毎日内裏へと通った。季節が何周かして、彼が後の〝光源氏〟だと確信を得た日も、裳着を経て、女童の装束を脱ぎ成人女性の装いとなった後も、変わることなく通い続けた。
「昨夜、藤壺に新しい女御様がいらっしゃったんだ。乳母の話では、彼女は私の母の若い頃に瓜二つらしい」
――すっかり背が伸び、大人びた物言いをするようになった彼が、〝運命の女性〟と巡り逢う、その日まで。
「そう。――良かったね、光」
「葵?」
「あなた、お母様のお顔を覚えていないことを、ずっと気にしていたでしょう? その寂しさを、きっと藤壺女御様は埋めてくださるわ」
「寂しい……確かに、ずっと小さい頃は、寂しかった気もするけれど。最近は、父上が語る母上のお話に相槌しか返せないのが申し訳ないという意味で、気にはしていたかな」
「女御様と、主上と、同じ時を共に過ごせば、その溝も埋まるでしょう」
「父上は未だに、女御様方へのご訪問に私を同行させようとするからね。しかし、私もあと二年ほどで元服を迎えるし、女御様とは歳も近い。下手にお近づきとなるのは、女御様にも失礼だろう」
……ちょっと失敗したなと思わなくもないのは、彼の養育環境の悪さが看過できないレベルで目についてしまい、一般常識や現代的な価値観を教え込んでしまったところ、彼の性格が一部、『原作』と乖離したような気がすること、くらいか。平安皇族のスタンダードなのかは不明だが、目の前の〝彼〟に限って言えば、一流の教師陣によって必須の座学や教養は教えられていたものの、それよりもっと根っこの部分、人として大切なことや対人関係において守るべき礼儀といった人間的な教育があまりにおざなりだった。
頭は良いのにお粗末な言動を繰り返す幼い彼を、ついついアラサー目線で叱って諭すを繰り返した結果、とっても良い子に育ってくれて、葵としては純粋に嬉しく思う。思うが、『源氏物語』の主人公育成としては、ちょっとどうなのだろう。……いや、〝光源氏〟が常識と人権意識を持てば、無意味に泣かされる女性は減るはずだから、これはこれで良いはず、と、思いたい。
そう。何はともあれ、光は無事に大きくなり、原作どおり〝運命の女性〟と邂逅したのだ。
だから――。
「……これで、〝偽紫〟の出番も終わり、ね」
この世界の〝葵〟はあくまで、〝光〟が自身の孤独を満たす存在と出逢うまで、代替品として傍にいるだけ――。
いつしか葵は、そう己を戒めていた。……そうでなければ、いつの頃からか純粋に、ひたむきに慕う瞳を向けてくる年下の少年へ、余計な心を預けてしまいそうで。孤独な幼子を癒すべく、無償の愛を注いでいたはずが、こちらが彼の情に絆されてしまっては本末転倒だ。
「――葵?」
何かを感じ取ったのか、少し低い声で名を呼ぶ光に、いつもと変わらぬ微笑みを返して。
あの日――〝藤壺女御〟の入内を境に、葵の後宮通いは終わりを告げた。
あれから、二年。葵は一度もあの箱庭に足を踏み入れてはいないし、裳着を済ませた成人女性として、当然ながら表の世界で〝源氏の君〟と会う機会も皆無だった。
葵がこっそり光と親交を深めていたことは、乳母の野萩と乳姉妹の楓、兄の暁と彼の腹心の部下である福寿丸、隆暁しか知らない。その中で、葵の前世まで含めて知っている人間は楓だけだ。暁は葵の身にこの先何が起きるのかこそ把握しているものの、それは葵が死にかけたことで得た未来視の力だと思っている。
知っている人間がごく少数ということもあるだろうけれど、葵と光の密かな交流は、当然『物語』の進行に何の影響ももたらさない。『原作』どおり、葵は弘徽殿女御が産んだ一宮の妃にと望まれたものの、右大臣方の権勢が強まることを恐れた今上帝と父左大臣の判断により、臣籍降下した二宮、通称〝源氏の君〟の元服に合わせ、彼を婿として迎え入れることが決まる。最愛の息子である源氏の君に後ろ盾を与えたい今上帝の思惑もあったろうが、もしなかったとしても、この時勢で葵が一宮へ輿入れする未来はなかっただろう。権勢欲旺盛な右大臣を下手に増長させないため、左大臣の姫である葵は、右大臣方とは別陣営の誰かと婚姻を結ばねばならなかったはずだ。そしてその最有力候補が、右大臣陣営の姫の子ではない二宮――源氏の君であることも変わらない。
「――お父様。お願いがございます」
左大臣家の姫として、そんなことは葵も重々分かっている。けれど同時に、この婚姻が誰の幸せにもならない、不幸の幕開けであることも〝知っている〟のだ。
平安の、しかも上流貴族の家に生まれた娘が言い出すには、あまりに常軌を逸した〝願い〟であったことだろう。「源氏の君がわたしをお気に召さないようであれば、婿として我が家へお招き遊ばすことは、どうかお控えくださいませ」なんて。
しかし、幸い葵には、これまでの〝実績〟があった。貝殻と海藻から原始的な石鹸を作ったり、酒をひたすら蒸留してアルコール消毒薬を生み出したり、何の変哲もない砂をガラスへと変身させたり……どう見てもマトモとは思えない言動を繰り返した結果、気付けば左大臣家の益へと繋げてきた、確かな〝積み重ね〟が。
そして、何よりの幸運は。
「分かった。他ならぬそなたがそこまで言うのだ。そなたらの心が通い合わぬようであれば、無理にとは言わぬ」
父左大臣が、この時代の貴族男性には珍しく、女子どもの言葉にも真摯に耳を傾ける、人格者であったことだ。そもそも、葵が左大臣家で『アーカイブ』の力を惜しみなく振る舞えたのも、父左大臣と母宮の寛容さがあってこそ。
優しく懐深い両親と、頼りになる協力者の皆がいれば、平安貴族の姫という絶大なハンデがあっても、呪殺ルート回避は夢物語じゃない――!!
昨日の昼間まで、葵の心はしっかりと前を向き、希望に満ちていた。
その夜、添臥の儀のため、邸を訪れた源氏の君――光と対面して。
「あぁ、やはりあなただ、葵。逢いたかった――!」
純度百パーセントの歓喜を表情に乗せた彼によって、混乱の渦へと、放り込まれたのである。