年が明けて*其の五
設定キーワードに嘘偽りはございません。
今話、15歳未満の読者様は、もう少し大きくなってからご覧くださいませ。
(……ようやく、気付いたのね)
光が幼い頃の幻想から覚める日を、密かな寂しさを押し殺し、ずっと覚悟していた。仮初なのは知っていても、できるだけこの幸福が続いて欲しくて、これまで自ら切り出すことはしなかった。……結局、最後は自分で気付かせてしまったけれど。
ほろ苦い気持ちになりつつ、葵は意識して、あの頃と同じ微笑みを浮かべた。
「わたし、ね? 光とは、この先もずっと、仲の良い間柄でいたいの。互いに信じ合い、労り合って頼り合える、そんな関係でありたい。――もしも、あなたがいつか、心の底から愛するひとを見つける日が来たら、笑顔で背中を押してあげられるような、そんな優しい〝姉〟でいたい、って……たぶん、出逢った頃から、思ってた」
「そう、か」
「それなのに、万が一、あなたに恋でもしようものなら……わたしは、自分でわたしを、裏切ってしまうでしょう? 優しい〝姉〟でいたいと思ったことなどすっかり忘れて、離れていくあなたを、詰ってしまうかもしれない」
「……」
「きっと、そのときのわたしは――あなたの知ってる、〝葵〟じゃない。その姿に幻滅されて、この関係ごと、壊れてしまうのなら」
恋になんて、堕ちない方がいい――。
「――っ!!」
続けようとした言葉は、伸びてきた腕の抱擁に、遮られた。
「うん。ありがとう、葵。よく、分かったよ」
「……っ、わかって、くれた?」
「あぁ。――私の伝え方が拙かったと、よく分かった」
言葉が終わるなり、纏っていた小袿を滑り落とされる。突然、袴に単衣という薄着にされたことへの文句が出てくるより先に、ふわりと身体が浮き上がった。……これは、光に抱き上げられている、のか。
「ひっ、光!?」
「黙って。騒ぐと、女房たちが様子を見に来るかもしれないよ?」
夫婦二人のプライベートはなるべく晒したくないという葵の気持ちをよく知っている光ならではの言い回しで言葉を封じられ、なすすべもなく御帳台の内へと連れ込まれる。
畳の上の夜具へ、慎重な手つきで下ろされてすぐ――唇が、重ねられた。
「――っ、ん、んぅっ」
否――重ねられた、だけでなく。これまでの、触れるだけの優しいものとは打って変わった、深く激しい口付けが、絶え間なく繰り返されて。動揺のあまり口を開けば、待ち構えていたように、舌まで潜り込んでくる。
(な、んで――!)
やろうと思えば、こんなキスを交わす機会はいくらでもあった。「触れたい」と懇願されたあの日から、毎日のように唇同士を触れ合わせてきたのだ。ときには、御帳台の中で、眠る前に、交わしたことさえあった、のに。
「んんっ、ん、ぁ、」
……口付けが深まることは、なかったから。最近では葵も、ほぼ挨拶のようなキスに、親愛以上の意味はないのだろうと、思い込んでいた。
それなのに――。
「ぁ……、ひかる……?」
呼吸が上手くできず、気が遠くなりかけたタイミングで、唇が離される。――前世アラサーだろうのツッコミは野暮だ、高校生からワンオペ育児に邁進していた身で、マトモな男女のお付き合い経験があろうはずもない。
息も絶え絶えに名を呼ぶと、光の表情が静かに、ゆっくりと、笑顔になって。
「……っ」
抱き込んでいた光ごと、敷かれた夜具へと倒れ込む。
仰向けに寝転ばされた体勢で、真正面に見えるのは――。
「――葵が言ってくれたように。今からは、心のまま、あなたを求めることにする」
笑顔の中、瞳だけが爛々と、獲物を定めた獣の如く煌めく、光の顔だ。
どうやら、地雷の中でも特大級を踏んだらしいと気付いたけれど、たぶんもう遅い。ここからは、どう足掻いても逃げられないことは、真正面の光が無言で雄弁に主張している。
「ひっ、光……!?」
「幼い私が、あなたに〝姉〟や、もしかしたら〝母〟に近いものを感じていたのは、否定しないけれど。――それなりに成長して、今ではあなたより大きな図体になっても、未だに〝そう〟あって欲しいとは思わないよ」
「ま、待って……!」
「むしろ私は、頼りになる歳上として取り繕っていない、自然体のあなたをもっと知りたい。この四年の結婚生活で、随分と気を許して、色々な面を見せてくれるようになったと嬉しく思っていたくらいなのに」
「は、話、先にしよう?」
「もう話は済んだだろう? ――絶対にありえない仮定だけれど、もしも私があなたに不実を働いたら、思わず詰ってしまうだろうと心配する程度には、どうやら想ってくれているようだから」
「ぁ……!」
袴の紐が解かれ、単衣だけの格好にされる。熱い掌が単衣の上から身体をなぞるように触れてきて、全身が粟立った。
――嫌悪とは全く別の、〝何か〟で。
「私が、未熟なくせに見栄っ張りだったのが良くなかったんだ。――もう随分前から、こうして葵と触れ合いたかったのに」
「ひ、ひかる……」
「理解のある、良い夫のフリをしたくて、見栄を張った。葵は、夕花姫の出産や撫子姫の育児で忙しいだろうから、無理に迫るのはやめておこう……なんて、余裕のある男を取り繕ったのが拙かったんだね」
「……っ!」
ちゅ、と音を立てて耳に口付けられる。そのまま優しく舐め上げられ、漏れそうになる声と息をどうにか必死で飲み込んだ。
「すごく今更ではあるけれど――、私は結婚当初から既に、葵のことは〝女〟としてしか見ていなかったし、〝男〟として触れたいと、そういう意味での欲望まみれだったよ」
「ひ、ぁっ!」
「だから私は、葵への好意が〝恋〟だと疑ったことはなかったんだけど……ねぇ、葵は?」
遂に、単衣の紐までもが解かれ、合わせが開かれていく。そっと触れてきた光の指先が、その熱が、葵に与えてくるものは――。
(なんで? なんで、こんなに、気持ちが良いの?)
どれほど、違う路を模索しようと。心だけは自分のものだと、強く保とうとしても。
(『葵の上』は、『光君』と結ばれる……これが、〝原作補正〟だというの?)
触れられることを――触れ合えることを、自分は。
「これでもまだ、私を〝友人〟だと、〝弟〟のようなものだと、思う――?」
「あ……、光――!」
どうしようもなく……言い訳のしようもなく、悦んでいる。
まるで――。
「葵――愛してる。どうか、私と、睦み合って?」
『原作』からは逃れられないと、告げるように。
一度――強く、目を閉じて。
目を開くと同時に、葵はそっと、光の背へと、腕を回す。
「葵……?」
「きか、ないで」
「え、」
「きかれて、冷静になって、しまったら……拒む言葉が、出てきそうだから」
「それ、って」
分からない。この選択が正しいのか、間違いなのか。
でも。――葵は、もう。
「わたしが、あなたの熱に、浮かされている間に。この熱を、心地良く感じている、今のうちに……身も心も、全て溶かして」
「あおい……!」
目の前で確かに生きている〝光〟の気持ちを、知っていて受け取らないのも。
毎日、惜しみなく注いでくれる優しい言葉を、拒絶するのも。
もう、できない。――したく、ない。
(この先のことなんて、知らない。今はただ、わたしが感じている、リアルな気持ちを選びたい。……たとえそれが、地獄への入り口に繋がっていたとしても)
光への気持ちが親愛なのか恋情なのか、そんなことはどうでもいい。
今は、ただ。
「わたし自身も知らない〝わたし〟を、あなたの手で、見つけて?」
「――!!」
光に求められて嬉しい、触れられた肌が熱く火照って気持ち良い、この気持ち良さをもっともっと感じていたい――。
この感情だけが、葵の〝今〟だ。
――性急で深い、食べられているかのような口付けに応えながら、葵はいつしか、回した腕にぎゅっと力を込めていた。
次回、視点が変わります。




