年が明けて*其の四
「そ、っか。そうね」
自分でも気づいていなかった〝自分〟を光の言葉によって見つけ、葵は心のどこががほの温かくなるのを感じる。
「うん?」
「自分の好きなことなんて、改めて考えたことなかったけど。……好きなのね、わたし。こうやって、色々なものを作ること」
「……私は、見ていてそう感じたよ?」
「えぇ。――きっと、あなたがそれだけ、わたしをよく見てくれているのよね」
男女の間に芽生えるものは――繋ぐものは、恋情だけではない。友情や、家族に抱くに近い親愛の情もまた、かけがえのない〝絆〟だ。
たとえ光が、葵のことを〝女〟として好きではなくても。二人が築いてきた関係が、消えてなくなるわけじゃない。
この結婚生活がどうなるか、それは光の気持ち次第だろうけど。どんな結論になったとしても、光と二人なら、互いを尊重する関係を続けていけるはず。
今のところ、椿とも良好な関係を続けることで気配を根絶できている『葵の上』の呪殺ルートフラグだけは、対処法が思い浮かばないだけに怖いが、それでも。
「どんな形であれ、わたしを大切にしてくれる、その心だけは嘘じゃない……」
「――葵?」
俯いて考えごとをしている間に、光はじりじりと、距離を詰めていたらしい。声を掛けられ顔を上げると、まっすぐ見えたところに光の唇がある。
結婚から、四年。あどけない少年だった彼も、こうして軽々葵を見下ろせるほどに背が伸び、日々、大人の男へと成長しているのだ。
降ってきた口づけを、当然のように受け止めて――嬉しいのに、泣きたくなる。
「……ねぇ。何を、考えているの?」
数度、角度を変えて触れ合った唇が離れたところで、静かな問いが落ちてくる。
ゆっくり、ゆっくりと微笑んで。葵は、視線をしっかり、光と交わらせた。
「……ここのところ、あなたがわたしに言いたかったことを、考えていたの」
「私が、葵に?」
「ずっと、何か言いたいことがあって、切り出し方を迷っていたでしょう?」
「迷っていた、というほどではないけれど……話したいことというか、相談したいことはあったね」
「……そう」
光の眼差しに、後ろめたさはない。もとより、この婚姻が政略的なものと理解し、自分たちには男女の関係すらもないと誰より承知の光にとって、葵以外の誰かを好きになることに、禁忌も何もないのだろう。実に平安らしい価値観だ。
「光は、どうしたい?」
「ん? どうって……私の気持ちは、決まっているけど」
「気持ちが決まっていても、決まっているからこそ、この先どうするかは悩むところでしょう?」
「悩むかなぁ……?」
「えぇ。――相手の方に操を立てて、わたしと別れるのか。それとも、わたしとはこのままの関係を続けつつ、密かに……」
「待って」
「わたしとしては、あなたの気持ちが最優先かな、と思うけど。もし別れるなら、結婚生活が解消されても左大臣家があなたを後見する理由を、お父様も交えて考えないと――」
「――待って、葵」
ぐ、と両手で腕を掴まれる。強めの語気で言葉を遮られ、思わず見上げた先には。
「別れるって、何の話? 葵は私と、別れたいの?」
これまで見たことのない、怖いくらいに真剣な眼差しをした、光がいた。
「光?」
「答えて、葵。葵は、私と別れたいと思ってるの?」
「私? 私は取り立てて、あなたと別れたいなんて、考えたこともないわよ?」
「なら、何故?」
「何が?」
「何故、突然、あなたの口から、『別れる』なんて、言葉が出るの?」
「そ、それは……」
言葉を一つ一つ切って、一問一答形式で質問してくる光が怖い。もしかしなくとも、自分は今、詰められているのか。
「ここのところのあなたが、その……」
「私が?」
「物言いたげにわたしを見つめたり、何か考えていることが多かったから、ね?」
「うん、その自覚はあるよ。それがどうして『別れる』なんて話に繋がるの?」
「だから、えっと……他に好きなひとができて、そのひとと結ばれたいけど……一応は妻なわたしに何て説明しようか悩んでた、とか、か、なぁ……と」
「――そう」
真正面の光の顔が、真剣過ぎて無表情になっている。『原作』で耳タコなほど美しさを語られている美形の無表情は、真面目に怖いからやめて欲しい。
痛くはないが逃げ出せるほど弱くもない、絶妙な力加減で両腕を拘束されたまま、葵は光と向き合っていた。
「ちなみに、今、その話を聞いた私の顔を見てどう思う?」
「たぶん……結構見当違いなこと考えてた?」
「うん。まず、そこを分かってもらわないとね」
光の反応は、どう控えめに見ても、女友だちから「恋、しちゃってるでしょ?」と図星を突かれた男のものではない。――むしろ。
「そもそも、私は結婚当初から、妻は葵だけだと、あなただけが私の愛しいひとだと、言い続けてきただろう? それでどうして、『他に好きなひとができた』なんて発想になるんだ。――葵は、私の気持ちを、少しも信じてくれていなかったの?」
……身に覚えのない不貞疑惑を掛けられてショックを受ける、優しい旦那様、だ。
「そ、れは……」
悲しそうな光に、返す言葉を失い、視線を彷徨わせてしまう。……この件に関して、彼を納得させる上手な説明ができるとは思えなかった。
だって、どう言えば良いのだ。信じる信じないではなく――信じたいけれど、信じられないのだ、なんて。
人として、夫としては、この上なく信頼しているし、最上級の親愛も抱いている。
けれど……〝男〟として、恋をする相手としては。
(どうしても……『原作』が、頭を過ぎってしまう)
藤壺女御――永遠の〝紫〟を追い求めた、『彼』が。
(もしも、光の言葉を信じて、身も心も預けてしまった、そのあとで。彼が藤壺の方への想いに気付いて、離れていってしまったら……きっとわたしは、男の不実を責める、情けない女に堕ちてしまう)
精神年齢アラサー越えとして、まだまだ子どもの光を責めるなんて、大人気ない真似はしたくないのに。……光が、未だ十代とはとても思えないくらい、人としても夫としても出来過ぎているから。現代の規範に照らし合わせれば、まだまだ庇護が必要な年齢の彼を、ふとした拍子に対等な存在のように見てしまって、その懸念が頭から離れなくなるのだ。
「……こわい、の」
説明できない、とっ散らかった感情が渦巻く中。
零れ落ちたのは、最も素直な本音で――隠したかった、気持ちだった。
「こわい?」
「あなたを、信じられないわけじゃ、ないの。ただ、きっと……わたしは、ずっと、こわいだけなの」
「葵は……何がそんなに、こわいの?」
静かな問いに、葵は。
「……わたしがわたしじゃ、なくなること」
ぽつり、と。
重い真実は胸底にひた隠し、ほんの少しの本音を、告げる。
「葵が、葵じゃ、なくなる……?」
「光が、あの桐壺の庭で顔を合わせた最初のときから、ずっとわたしを歳の近い友人として、大切に思ってくれていたのは知っているつもり。自分で言うのもなんだけど、わたしはマセた子どもだったから――きっと光にとっては、色々と教えてくれてる歳上の、姉みたいな存在でもあったと思う」
「そう、だね。否定はしない」
「あの頃と変わらず、あなたがわたしを好きでいてくれて、本当に嬉しいのよ? こんな風にお互いを思いやれる関係を築けたのは、あなたの努力あってこそだもの」
「……うん」
「でも、ね。だからこそ、思ったの。――幼い頃、姉のようにも思っていた歳上の友人への好意を、年頃になっても変わらず〝恋〟と信じ込むのは、難しいんじゃないか、って」
「〝恋〟と、信じ込む?」
「だって……明け透けなことを言うけれど、結婚当初ならともかく、今のあなたの年齢なら、ごく当然の欲として、女人の肌を求めるでしょう。毎日隣で寝ているわたしにそういう欲を抱かないことで、抱いている好意の種類が違うんだ、ってならない?」
「……あぁ」
葵を掴む腕の力が、ふと緩くなる。すっと葵から視線を外し、俯きがちになりながら、光はゆっくりと呟いた。
「そういう、ことか――」




