表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

32/65

光が葵を照らすとき*其の三


 夕花を迎え入れた当時のことを思い出し、光は知らず、笑顔になる。


「暁にとって、夕花姫が愛情を注ぐ唯一の妻であると世間に広く知らしめると同時に、政略や付き合い上結婚はしたけど、お互いに当時とは状況が変わって、続けることにさほどの旨味がない関係を清算できる――なんだったか、『一粒で二度美味しい』策だと言っていたね」

「ついでに、ここまですれば、関係を清算しない妻も身分が下だからと夕花を見下しはしないだろう、とも言っていたぞ」

「なんだ。だったら、一粒で三度美味しい策じゃないか。たった一つの手紙で、全ての片が付く」

「やったことは、葵が考えた雛形を俺が自分の言葉へ直した手紙にして、それを量産して、妻たちのところへ届けただけだからな」

「暁の妻は数が多い。その誰もが、位の高い家の姫だ。良い家には、大勢の女房が仕えている」

「大勢の女房がいれば……軽はずみでお喋りな女房も、一定数、紛れ込んでいる。つまり、手紙さえ送ればあとは向こうが勝手に、世間へ話を広めてくれる――」


「ウチにも軽はずみな子はいるけれど、それぞれの対屋でしっかりと彼女たちの手綱を握っているからね。そういうことを気にしないお家にこんな手紙が届いたら、翌週には京中の噂になってるわ」――そう言って笑った葵は、実に悪い顔をしていた。基本的には善人寄りの葵だが、人の内面がよく見えているからか、こういった謀略を扱わせたら天下一品である。

 世間では〝蔵人少将の妻問い〟と言われているこの事件、作戦段階での呼び名は〝向こうに決定権を渡した婚姻破棄〟だった。考案者の葵は、何やらぶつぶつ、「婚約破棄モノの王子たちだって、こうすれば別にヒロインの地雷を踏まず、ざまぁされずに平和な解消ができるのよ。大抵のヒロインは、破棄される前から相手と別れたがってるんだし」と、また光の知らない言語を交えて言っていたが。


「結果的には、葵の読みどおり進んだよね。男女が別れるときは、男が無言で通わなくなるのが当たり前な中、暁は自分の心情を真摯に打ち明けて詫び、『心の伴わないこれまで通りの仲』か『別れ』かを、妻の方に選んでもらったわけだから。これほど誠実なことはないと、女人たちが拍手喝采するのも頷けるし、何かと心変わりしやすい男の側にもそれほどの不都合はない」

「俺と同じことをしても、さほどの手間ではないからな。むしろ、『別れるときはこうすれば揉めないのか、参考になった!』と何人かに感謝されたぞ?」

「その話を聞かされた葵が、『その程度のことを考える頭もない殿方と連れ添っている、妻の方々がお気の毒ね』と引いていたなぁ……」


 いずれにせよ、葵発案の策は目論見どおり広く世間へ知られ、誰からともなく〝蔵人少将の妻問い〟と呼ばれるようになった。本来とは真逆の意味ではあるが、結婚か離婚かの違いなだけで「妻に問う」ていることに変わりはないから、ということらしい。


「四の君を含め、別れを選ばなかった妻たちは、俺の心変わりを恨む歌こそ寄越したが、これまで同様の待遇に不満は言えない。夕花に嫌がらせをしたくとも、左大臣邸じゃ手も足も出せない。――本当に何もかも、葵の掌の上だった」

「そうだねぇ。……そうだ、四の君といえば、ちょっと思ったのだけれど」

「なんだ?」

「さっき言ってた、四の君が君と別れなかった理由について。もちろん本人の考えもあるだろうけれど、右府にも何か思惑がある可能性はないかな?」

「思惑、なぁ」


 腕を組んで、うーんと唸る暁。彼は右大臣家の婿だが、左大臣家の嫡子でもある。婿入り婚では基本、総領姫と結婚した婿が家の権力を継いでいくものだが、葵と結婚した光にその気はないし、暁が結婚したのは総領姫でもないしで、左大臣家のあれこれを継ぐのは暁だろうと思われた。暁本人もそのつもりでいるため、婿入り先の右大臣家のことには、政敵注視以上の関心を抱いていない。


「考えられるとすれば、俺を通じて父上のお考えを探れないか、とか。あとはそうだな……光、お前の動静をいち早く察知するため、もあるかもしれん」

「左府はともかく、私かい? 何故?」

「右府殿にとっちゃ、お前はずっと目の上の瘤だぞ。主上が最も愛する女性が産んだ、最愛の息子で、しかも二つ年上の東宮より、見た目も能力も、何もかもが優れている。右府殿がどれだけ桐壺の方を貶めようと、実際にこれほど優れている光を目の当たりにすれば、いつ、誰が『光君こそ帝の器に相応しい』と言い出すか知れない。だから、光と近しい私を婿として近くに置き、その様子を探りたいというのは……うん、ありえる話だな」


 呆れてものも言えないとは、まさにこのことだ。光は思わず惟光と視線を合わせ、深々とため息を吐いてしまう。


「私にその気がないのは、もう大前提になるけれど。それ以前に、私の母の身分からして、帝位につけるはずがないのは周知の事実だろう。しかも、私はとうの昔に臣下へ降っているんだ。誰が何を言ったところで――それこそ天地がひっくり返っても、そんなことは起こるはずがない」

「そうかな? 天地をひっくり返せる地位におられるお方が、光を惜しむ筆頭である以上、右府殿の懸念も全くの絵空事ではないぞ」

「……父上か」


 父帝を、為政者としても一人の人間としてもよく知る光からすれば、それでも右大臣の懸念は起こり得ない。……いや、誤解されやすい〝帝〟であることは、間違いないのだが。


「父上は、確かに自分も周囲も溺れさせかねないほどの情の深さをお持ちだけれど、それを政に持ち込まないだけの冷静さもまた、兼ね備えていらっしゃる。私をどれだけ愛しておいででも、だからといって無理筋を通そうとはなさらないよ」

「実際、そうなんだけどな。そうは拝察できないのが問題なだけで」

「そこは……うん、否定できないね」


 父はとても情の深い人で、かつ、それを一切隠さない直情型なところがある。だから、伝え聞くほどに人目も憚らず母を愛して、それが周囲の反感を買った。母更衣の悲劇はまさに、情が人を溺死させた典型例と言える。

 しかし同時に、父は帝として、国を統べる者としては、極めて冷静で理知的だ。ゆえに、どれほど母更衣を愛そうと、彼女の父が既に亡くなった大納言でしかない以上、慣例を捻じ曲げてまで彼女の位を上げることはしなかった。光についても同じで、母が更衣という身分である以上、どれほど惜しんでも帝位につくことはないと、最初から割り切っている。彼が悩んだのはあくまでも、親王位を与えるか臣下に降すかであって、光に東宮の位を与えることは、希望として胸の内を過ぎったとしても現実的ではないと判断していただろう。

 そんな風に、実のところ父帝は、溺れるほど深い情の持ち主でありながら、それを一切為政の場には持ち込まない。いっそ厳格にも思えるほど、〝公〟と〝私〟が分かれている人なのだけれども。


「私を愛してくださるのはありがたいが、あまりにもあからさま過ぎるんだよね。釣り合いが取れるよう、他の兄弟たちにも同様の待遇をしてくだされば良いのだが……」

「〝私〟の部分では、昔と変わらず情が先行なさるからな。〝公〟の視点で見れば光を臣下へ降したのは正しかったと確信しつつ、一番愛する息子に帝位を継がせたかったのも情から来る本心ではあるから、そうできなかった現実を嘆かれる。最愛の息子を臣下へ降さねばならなかったことは無念で、降された息子が不憫で、それゆえ必要以上の待遇を与えられる。それが周囲から見れば、『主上は未だに源氏の君を帝位に……』と思われることについては、残念ながら大して気を払われていない」

「帝として為されていることを落ち着いて見れば、一目瞭然なのだけれどね。……まぁ、帝という立場に〝私〟の面はあってないようなものだから、何をしても穿った見方をされるのはある意味当然で、そこを注意して振る舞われないのは、数少ない父上の困ったところだよ」


 何しろ、されている当人が「とても優遇されている」としみじみ自覚するほどの特別扱いなのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ