光が葵を照らすとき*其の二
三年前、夕花姫に宿った命は無事にこの世へ生まれ出で、生まれた初夏の日、庭に咲いていた花にちなんで〝撫子〟の幼名を与えられた。十五歳で母となった夕花姫は、左大臣邸へ温かく迎え入れられたこともあってか、年齢以上の聡明さを遺憾なく発揮し、女主として西の対を立派に取り仕切っている。最近では、嫡男の事実上の正妻として、左大臣の北の方から邸全体の家事について、少しずつ学んでいるらしい。
そうして夕花姫――母が忙しくしていれば、暇になるのが二歳を過ぎた小さな姫君、撫子で。西の対の女房は、東の対と違って少数というわけではないはず(元からいた暁付きに加え、引っ越しに合わせて夕花に付いていた右近たちも移動している)なのに、いつの間にか姿を消しているのだ。
もっとも、撫子姫の行き先が、彼女を見つけて保護し次第「こちらにいます」の一筆を届けるので、実のところ左大臣家で小さな姫の大冒険が問題視されたことは一度もないのだが。
「世の中、絶対はあり得ない。行き先が確定するまでは〝どこか〟だ。いい加減、西の対を出るときは誰かへ行き先を告げる習慣をつけさせないと」
「私が言えた話ではないけれど、そこで『勝手に外へ出ないように』でなく『外出するなら行き先を言うように』と教えねばとなる辺り、暁もよく葵に染まっているね」
「そこは今更だ。あの警戒心の強い夕花をほぼ一日で陥落させた葵だぞ。我が妹ながら、影響力が凄まじい」
「我が妻は、間違っても平凡な女人ではないから、当然だけど」
「光は結局、惚気へ繋げるんだよなぁ」
光に慣れきった暁はさくっと笑って、ぐるりと桐壺を見渡した。
「桐壺の女房たちも結局は、今でも桐壺のお方のことが忘れられないんだろうな。光の世話役として雇われた者以外、意識はずっと亡きお方の女房のままなのだろう。だから光を見て、『桐壺のお方に似てきた』と涙ぐむんだ。主が帰ってきたようで、嬉しいのかもしれない」
「気持ちは分からなくもないけどね。母上を慕う女房たちだから、父上も気に入って後宮に留め置いているのだろうし。今となっては、母上をともに懐かしめるのなんて、ここの女房たちくらいだ」
「桐壺のお方が主上からご寵愛を受けていた当時、俺はまだ子どもだったが、父上と母上が宮中のことをお話しされていたのを、よく聞いていたぞ。桐壺のお方は極めて美しいだけでなく、心映えも非常に優れておられ、一度でも親しくお話しすれば、誰でも彼女を好きになったと。お父君が早逝さえされなければ、きっといずれは女御となられ、名実ともに主上の一の妃として、内裏を善く取り纏められただろうにと嘆いておられた」
「母上をそのように評価してくださる公卿など、今となっては左府くらいだよ。誰も彼も、口を開けば『楊貴妃の如く、その魅力で主上を誑かし、国を乱した毒婦』扱いだ」
「特に宮中じゃ、どこに右府殿と弘徽殿の方の目と耳があるか分からんからな。本心はどうあれ、保身のためにもそう言うしかない」
「だから余計に、女房たちは私を見て、懐かしく思うのだろうね。桐壺の外ではおいそれと、母上の名すら出せないから。分かるけれど……似ていても、私は母上じゃない。涙ぐまれても、反応に困る」
「そりゃそうだ」
軽く頷いた暁とともに、惟光も「ごもっともにございます」と頷いている。大弐とともに光の側へ上がった惟光は、数少ない〝桐壺更衣を知らない従者〟に数えられ、それもあって桐壺での光の世話を一任していた。……最近ますます母と似てきたらしい光の側に桐壺の女房たちを呼ぶと、まず涙を流して蹲ってしまうため、用事を頼むどころではなくなるのだ。
「宮中じゃ未だに、桐壺のお方を大っぴらには庇えないからなぁ。毒婦扱いされている主の名誉回復ができないのもあって、女房たちも鬱憤が溜まっているんだろう。泣くくらい、許してやれ」
「許しているさ。特に文句はつけていないもの。……あちらも何というか、執念深いよね」
「右府殿と、弘徽殿の方だろう? 右府殿はともかく、弘徽殿の方は、主上のお心を奪われたことが、よほど腹に据えかねたのだろうな。その父親の右府殿は、単に権勢欲旺盛なだけだが」
「……最近、兄上が心配になってきたよ。右府は兄上のことを、自身が実権を得るための手駒くらいにしか思っていないだろう。どの帝も、外戚臣下との実質的な力関係は変わらないけれど、だからこそ、それぞれの臣下の意識で政はがらりと変わる。右府は権勢を得ることばかりに執心していて、肝心の〝権勢を得て、何をしたいか〟の考えが見えない。あれでは、良い政などできないよ」
「見えない……というか。そもそも考えてないんだろうな、あれは」
「宮中の要たる公卿が、それではとても困るのだけどね」
嫡子である暁はもちろん、婿入りした光も、左大臣から殿上人としての薫陶を受けている。宮中での振る舞い方や、政に対する姿勢は、左大臣から学んだところがとても大きい。光の場合、左大臣と、父帝と、あとは何故か葵――か。
「それで言うなら……」
「どうした?」
「すっかり忘れていたけれど、暁とて右大臣家の人間と言えなくもないだろう? 君は、あちらの四の君の夫なのだから」
「そんなもん、言われるまで俺すら忘れてたわ。一応、毎月決まった日に通ってはいるが、ほぼ子どものためだぞ、あんなん。結婚当初に比べれば向こうも丸くはなったが、未だに夕花のことを良く思ってないのは透けて見えてるからな。機会があればどうにか夕花を排除してやろうと狙ってる女の傍で、どうやってくつろげと?」
「向こうからすれば、暁の方が不実なのかもしれないが……」
結婚した順番そのものは、四の君の方が先である。彼女の側から見れば、夕花姫との件の方が浮気であろう。
ただ。葵もそうだが、暁もまた、世間並の公達ではない。左大臣家嫡流の非凡さは、彼にもしっかり継がれている。
果たして彼は、一切の悪びれなく、肩をすくめた。
「そもそも俺は、右大臣家との縁談を望んだことはない。父上もそれほど考えてはいなかったが、あちらが俺の婿入りを強く望んできたのと、当時の宮中の勢力均衡を考え、政略の一つとして受けざるを得なかったんだ。あちらには悪いが、最初から気持ちがないことは伝えていたしな。夫婦として付き合う中で情が湧けば良いと思ってはいたが、四の君と俺じゃ、考え方の根本から違い過ぎてどうしようもなかった」
「暁の方はそう思っていても、〝妻問い〟で別れなかったということは、あちらの気持ちは違うんじゃないのかい?」
「どうだろうな……情ゆえというより、夫に捨てられた妻となりたくないだけではと、俺は考えているが。葵曰く、俺は他人の心の機微に疎いらしいから、何とも言えん」
「そうだねぇ。世間の人は当時、〝蔵人少将の妻問い〟に拍手喝采だったが……まさか発案者が君じゃないとは、誰も想像だにしていないだろう」
「俺をよく知ってる数人から、光君の入れ知恵だろうとは言われたぞ?」
「私でもないんだよね、それが」
暁がそれまでの妻全員に男女の情を抱かず、政略婚の義務として通っていたことは、家族とごく少数の親しい人だけが知っていたことだ。何も知らない外野からすれば、暁は歳の割に通い先が多い、多情な男と見えていたことだろう。
そんな状態のまま、夕花姫を左大臣邸へ迎え入れたところで、世間からは「親のない境遇の女を気に入ったから、自分の邸に抱え込んだのだろう」と思われるのがオチだと助言したのは――もちろん、聡明なる光の愛妻、葵である。




