いきさつ*其の二
この、〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟な世界で、葵が前世を思い出したのは四歳の頃。異世界テンプレあるあるな、『高熱出して死線を彷徨った後、奇跡的に回復して目覚めたら、前世の記憶と人格が蘇ってました』パターンである。現代日本で生きて死んだアラサー女性が平安女児の肉体に宿ったわけだが、幸いにして葵の前世は広く浅くのオタクで、異世界転生知識も平安知識も一通りは網羅していたため、最初の混乱から抜け出すのは割と早かった。
しかしながら彼女の場合、本当の混乱と絶望はその先にあって。目覚めてしばらく、平安貴族の中でも最上流、藤原左大臣家の姫として蝶よ花よと傅かれて過ごす中、女房たちの噂話から察してしまったのだ。
――あれ? ここってもしかして、超有名古典『源氏物語』の世界では?
……と。
ホンモノの四歳児であれば、いくら〝葵〟の元スペックが優秀だったとしても、噂話の全てを理解するのは不可能だったろう。しかし、前世の記憶を取り戻した葵であれば、〝主上〟の〝桐壺の方〟へのご寵愛、〝桐壺の方〟が産んだ〝二宮様〟を〝弘徽殿様〟と〝右府様〟が〝一宮様〟の障害となるのではと警戒している、なんて噂話を聞けば、「これって『源氏物語』の冒頭じゃね?」程度の推測は容易に立てられる。
そして。
――左大臣家に生まれた〝葵〟姫って、主人公『光源氏』の最初の妻で呪殺ルートが確定してる、あの『葵の上』では??
大口開けて待ち構えている自身の死期まで、明確に見えてしまったのである。
基本的には前向きで楽天家な葵も、あのときばかりはさすがに絶望し、天を恨んだ。『源氏物語』の『葵の上』といえば、百パーセントの政略結婚で『光源氏』と結ばれ、愛のない結婚生活を強いられ。子どもを授かりようやく夫婦らしい情が芽生えたかと思えば、『光源氏』を愛する女性からの呪いを受け、出産と引き換えに命を落とす――作中でもトップクラスに理不尽な死に方をするキャラクターである。
悪役転生、序盤で死ぬモブ転生など、逆境を跳ね返す転生ファンタジーはありふれているが。メイン舞台がナーロッパだったからか、登場キャラの行動自由度はそこそこ高く、悪役でもモブでも、ある程度は自分の行動を自分で決められた。当たり前だろう、そうでなければ本来のストーリー進行を変えるような真似はできない。
しかし、葵が今いるここは、〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟なのだ。庶民ならいざ知らず、左大臣家の姫として生まれた葵に、未来選択の自由などあるはずもない。極端な話、葵の未来を決めるのは父ですらなく、そのときの社会情勢である。
つまり、葵が〝葵の上〟として生まれてしまった以上、その時点で結構な〝詰み〟なのだ。いくら逆境を跳ね返したくとも、取れる手段があまりに少ない。
まだまだ幼子でありながら、なまじ現代アラサー女性が蘇ってしまっているものだから、残念なことに葵はそこまで早々悟ってしまった。悟って――今世の家族や前世の後悔を思えば、やっぱり〝宿命〟のまま散る未来を、どうしても受け入れられなかった。
――取れる手段が少なくても、全くのゼロじゃないし! 〝葵の上〟が原作で死ぬまでまだ二十年以上ある、諦めるのは早すぎる!
決断してからは早かった。乳姉妹の楓や、同母兄妹の暁を味方に抱き込み、まずは家族を懐柔すべく、行動開始。幸い、これも異世界転生テンプレあるあるで、前世記憶が蘇った葵には〝前世で一度でも読んだことがある本やネット文の内容を詳細に思い出せる〟という記憶チート(葵は『アーカイブ』と呼んでいる)が付随していたため、惜しみなく現代知識無双して。左大臣家の姫である以上の付加価値を周囲に知らしめ、「姫様は特別なお方だから、あまりみだりに行動を制するのは良くない」という風潮を作り――平安貴族家の姫としては異例であろう、〝女房に常日頃から囲まれない〟環境を手に入れたのである。
ちなみに、葵がそうして左大臣家で奮闘している間に、世間では『源氏物語』の通り、〝二宮〟を産んだ〝桐壺更衣〟が三年ほどは耐えたがやがて衰弱して亡くなり、今上帝が忘れ形見の〝二宮〟を宮中で育てると言い出していた。ここまで展開がまんまだと、もはや疑うことすら馬鹿馬鹿しい。
――『源氏物語』の展開云々は置いておくとして、せっかく外へ出ても怪しまれない環境を勝ち取ったんだから、今の宮中の様子でも見に行ってみようか。
八歳になり、〝二宮様〟が宮中に戻ったという噂を聞いた、ある日。ふと思い立った葵は、数少ない協力者たちと綿密に打ち合わせた上で、人生初の外出を決行。行き先はもちろん、〝二宮〟が戻ったという宮中、大内裏の中にある後宮だ。当時、葵の結婚相手としては次の東宮である〝一宮〟が最も有力視されており、葵自身、呪殺ルート回避の一手としては「あり」と考えていたが故の選択でもあった。
そして――出逢ったのだ。
「……そなたは、だれだ?」
「わたし……わたしは、葵。あなたは?」
「われは、光という」
後宮の片隅、手入れを忘れられたように草木が生い茂っていた、その一角――幼子を大人の視界から完全に遮る、小さな小さな箱庭で隠れ泣いていた、男の子。その存在に気がつけたのは、葵もまた、身体だけならば小さい子どもだったからだろう。啜り泣く声がどこかから聞こえ、聞いた以上は放置できないと探した先に、〝彼〟はいた。
「あなた、光というのね。光は、一人?」
「……ひとり、だ。おばばさまは、こちらにはおられぬ。父上はおいそがしく、会いにいってはいけないと言われた」
「そう、なのね。……あのね、わたしも一人なの」
「あおい、も?」
「えぇ。良かったら、一緒に遊びましょう?」
……予感がなかった、わけではない。女房に探されている様子もなく一人きりとはいえ、〝光〟と名乗る、幼いながらも際立った美しさを持つ男児が〝誰〟なのか。この予感に従うならば、彼とは極力関わらぬ方が、きっと将来の生存率は上がる。
けれど、葵は。
「ほんとうか? ほんとうに、われと、あそんでくれるのか?」
親身な愛情を求めて孤独に泣く幼子を。
見ず知らずの女児に「遊ぼう」と誘われて、これほど嬉しそうに瞳を輝かせる目の前の子どもを。
「――えぇ、もちろんよ」
見捨てる、なんてできなかった。