夕顔救出作戦*其の四
過ぎ去った日々を懐かしむ眼差しをしながら、それでも悲しいほど理性的に、夕花は過去を事実として話す。
「両親は何とか、生きているうちに、私の宮仕えへの道を拓きたかったようです。父は三位でしたが、これ以上の出世を望める家柄ではありませんでしたから……宮中の、どこかの殿舎にお仕えする女房となれればと」
「堅実なご両親でいらしたのですね」
「はい。宮仕えの際、不足のないようにと、この身分にしては不相応な教養を身につける機会も与えてもらいました。お陰様で、葵様のような真に高貴なお方とも、どうにか礼を失さずお話できております」
「夕花様の礼儀作法は完璧ですわ。明日から宮中へ上がられても、問題なく働けますよ」
「そう仰って頂けて、両親も草葉の陰で喜んでいることでしょう」
ふ、と一瞬だけ瞳を翳らせて。
次の瞬間、夕花はもう、鋼の理性で微笑む。
「両親が遺してくれたものが、教えが、どうにかここまで、私を生かしてくれました。情に惑わされず、常に理で以て物事を見ることで、近寄ってくる殿方の思惑も見通すことができました。――でも、」
微笑んだまま……夕花の瞳に、涙が浮かんで。
「見えなかったのです。暁様だけは、裏表なく、ただ真心一つで、私と接してくださった。何の損得も考えず、思惑もなく。好きだと、愛しいと、まっすぐな言葉で私に想いを告げて、これから先も共にと、望んでくださった。妻は他にいても、真に愛するのは私だけだと……」
つう――と一筋、涙が夕花の頬を滑り落ちる。
「最初は、恐れ多く思いました。次は、何と浅はかな方かと。一挙一動全てが進退を左右する、殿上人にあるまじき振る舞いと、お伝えもいたしました」
「……我が兄ながら、否定できませんね」
家内をしっかり切り盛りできている夕花だから大事にならなかっただけで、お喋り制御不能な女房を抱えている家でそれをしたら一発アウトである。いくら恋に浮かれていても、あの兄ならばそこは最低限確認したはず……と信じたいが、この家でのポンコツぶりを見るに、信じ切れないのが悲しいところだ。
「それでも……どれほど申し上げても、暁様は変わらないのです。互いの身の上など関係ない、ただ俺がそなたを好きなのだと、愛しているのだと真心のみで囁かれて、心揺らされぬ女がおりましょうか」
「夕花様……」
「それに暁様は、言葉で、その姿勢で想いを伝えてくださってはいても、私の許可なしには触れようとも、夜を共に過ごそうともなさいませんでした。常に私の心を尊重して、私が嫌がることはしないと、お気遣いくださって……この方だけは、真実〝私〟を愛してくださっていると、信じることができたのです」
静かな声で語る夕花は、葵より歳下ではあるけれど、男女の複雑な機微を知っているという点では、間違いなく葵の〝先輩〟だ。彼女の瞳には、男性から一途に愛される喜びと、それゆえの不安と、そして。
「信じて……心を傾けるほど、怖くなりました。このまま、暁様のことを深く、お慕いしてしまったら――この想いを、制御できなくなってしまうと」
鉄壁の理性を凌駕するほどの情に溺れることへの、紛れもない恐怖があった。常に理を重んじ、理を以て周囲の世界を見つめてきた夕花は、その理が通じないほどの激情を経験したことがないのだろう。暁は意識せず、その禁断の扉へ手をかけてしまったのだ。
「先ほど右近が申しましたように、妻として確たる立場ではない不安も、もちろんあります。ですが、私の身分と家の力を考えれば、恋人としてすら不相応なことは承知しているのです。承知しているのに……それでも、暁様の妻でいたいと、妻としてお役に立ちたいと、願う心がある。それが、何より、恐ろしい」
「……愛するひとの力になりたいと願うのは、当たり前のことではありませんか?」
「できないと、分かっているのに?」
「分かっていても、です。理からは外れていても、それでも諦め切れない気持ちがある。それもまた、ひとの常だと……わたしは、思います」
そう。他ならぬ、葵がそうだ。
『原作』という摂理を痛いほど識っていてなお、生きる未来を望んでしまう。
(このひとも……きっと『原作』の『夕顔』以上に、お兄様の傍らで、共に生きることを望んでる)
『夕顔』はきっと、最後の最後まで『頭中将』を心から愛することもなければ、信じることもなかった。ただ、彼に裏はなく、夫気取りで何かと援助してくれていたから、それなりに受け入れていただけだ。そこまで執着していなかったから、放っておかれても恨まなかったし、子どもができてなお呑気な彼に、「せめて父親として気にはかけてよ」と釘を刺す程度で。――そのうち、援助されるメリットより、彼の正妻たちに嫌がらせされるデメリットの方が上回ったから、黙って姿を消した。
『光源氏』に振り回されたのも、話を聞けば納得できる。『夕顔』は理性的に男の裏を探るがゆえに、まるで裏なく、ただ通いたくて通っているだけの『光源氏』に弱かったのだ。コイツは誰だ、何を考えてるんだと読み過ぎているうちに、彼の身勝手なヤンチャに巻き込まれて、理不尽な死を遂げた。『夕顔』も呪殺されたようなもので、何もなければ『光源氏』は自宅である二条邸に拐うつもりだったわけだから、庇護者候補としてひとまず受け入れた勘は正しい。
――だが。
(もう、この〝世界〟の二人は違う。お兄様も、夕花様も。互いに手を取り合い、生きる未来を望んでいるのだから)
目の前の夕花は、もう隠すこともなく、静かに涙を流している。身体を震わせる彼女を右近が支え、他の女房が懐紙を渡して。
しばらく、その様子を見守っていると――。
「申し訳ありません、葵様。お見苦しいところを」
「そのようなこと、どうかお気になさらないで。夕花様の理性は大変に素晴らしいですが、時には感情の赴くまま、想いを吐露することも大切です」
「本当に、お恥ずかしい限りですわ。普段は、この程度のことで泣いたりしませんのに。最近、とみに情が揺れやすく、自分でも上手く扱えないのです」
「そういうときもありますよ」
「なんてお優しい……葵様のおかげで、今日は久しぶりに、食も進みそうですわ」
「食?」
誘導したわけではないけれど、ぽろっと溢したキーワードを聞き逃すほど、葵も呑気なわけではない。何かに気付いた風を装い、葵は少し、居住まいを正した。
「夕花様。食がお進みではなかったのですか?」
「え、えぇ。ここのところ、何かと考え込むことが多かったからか、いつも胸が塞がれるような心地がしていて……無理に食べると却って気持ちが悪くなるので、あっさりしたものをほんの少し、つまむ程度に留めておりましたの。身体に良くないと、分かってはいたのですけれど」
「眠れては、いらっしゃいます?」
「はい。考えごとをしながら、いつの間にか眠っております。考え込んで眠れないよりよほど良いので、睡眠で特に困ってはおりません」
「そう仰るということは、以前ですと考え込むと眠れなかった?」
「そういう夜も多かったですね。……あの、何か?」
泣き腫らした目をこちらへ向けてくる夕花は、葵が思った以上に、心を開いてくれたようだ。
葵は少し考えて――実際は考えるフリをして、こちらも黙ってずっと控えてくれていた野萩を振り返る。
「……野萩、どう思う?」
「そうですね。人それぞれ、身体の変化は異なりますので、一概には申し上げられませんが……」
問われた野萩も慣れたもので、出発前にあらかた相談されていたとはおくびにも出さない態度で、少し前ににじり出た。
「夕花様。葵様の乳母の、野萩と申します。――僭越ながら、いくつかお尋ねしてもよろしゅうございますか?」
「は、はい。構いませんが……」
「ありがとうございます。では――」
落ち着いた野萩と、会話が進むにつれ驚きと喜びを露わにする夕花のやり取りを見守りながら、峠を越した達成感を、葵は密かに味わっていた――。




