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夕顔救出作戦*其の三


 主人の会話に割り込む形となった右近が、女房らしく平伏する。見るからにしっかり者といった風情の右近は、理由なくそのようなことはしないだろう。

 ひとまず、彼女に視線を向け、話を聞く態度を示すと。


「恐れながら、申し上げます。蔵人少将様は、こちらへ足繁くお通いになり、お方様へ優しいお言葉を掛けてはくださいますが――夫として頼りにするようにとも、妻として頼りにしているとも、仰ったことがございません」

「……えぇ?」

「やめなさい、右近」

「いいえ、お方様。こちらの姫君様は、きっと、お方様のお力になってくださいます」

「そのような……どこの世界に、兄君への陰口を快く聞いてくださる姫君がいらっしゃると言うの」

「ですが……お方様が、少将様のお心を信じきれず、お苦しみなのは確かではありませんか」

「右近!」


 思いもかけず、強い制止の声が夕花から飛んだ。平伏する右近に向き直り、夕花は厳しい表情で口を開く。


「黙りなさい。それ以上は許しません」

「しかし、お方様……」

「私が暁様のくださるお心に何を思おうと、それは私の問題で、暁様のせいではないのよ。ましてや、無関係の葵様に背負わせるようなことでは決してない。――あなたの気持ちは嬉しいけれど、道理を違えてはいけません」

「はい。……出過ぎた真似をいたしました」


 平伏したまま、右近はさらに深く頭を下げる。側近の女房の姿を確認してから、夕花も葵へ深々と礼を執った。


「女房が、大変な失礼を申しました。お許しくださいとは申せませんが、女房の責は、主の責。お咎めは、どうぞ私に」

「いえ、そんな……」


(これは……まさに、鉄の理性)


『原作』の『夕顔』は十九歳で登場するため、今の夕花とは違う部分も多いだろう。しかし……それを加味しても、『頭中将』と『光源氏』の、女性を見る目のなさがすごい。この女人のどこが、〝ともすれば悪い男にあっさり騙されそうなほど素直で、恨みごとは吐かず慎ましやかで、もの知らずでおっとりした女〟だというのか。感情に振り回された言動をしないという点ではその通りなのだろうけれど、それは彼女が素直で物知らずだからではなく、どこまでも理性の人ゆえだ。


(そういえば……『頭中将』と違ってお兄様は、「夕花を愚かと思ったことはない」と仰っていたわね)


 暁は『原作』と違い、軽薄な遊び人ではなく、宮中で堅物扱いされるほど女性に興味がない。やっていることは正反対だが、彼の本質が情緒をあまり介さない人間なのは『原作』も同じなのだろうな、と葵は踏んでいる。『頭中将』は噂になった女人を必ず口説くマメな色好みだったが、逆に言えば、特別な一人がいなかったとも読み解けるではないか。女性に一切の興味を示さない暁と、手当たり次第誰でもオッケーな『頭中将』は、誰かを特別に想う繊細な情の持ち合わせがないという点で、実は共通しているのだ。

 ただ一つ、今世の暁が『原作』と大きく異なるのは――葵という異分子中の異分子が身近にいたことで、〝女にもそれぞれ意思があり、それは男の身勝手で踏み躙って良いものではない。遊び感覚で好きでもない女性を口説いてモノにし、己の良いように扱おうとする男性は、どれほど身分が優れていようと最低だ〟という、現代的価値観が吹き込まれた一点に尽きる。暁がその価値観を持っていたから、『原作』の遊び人コースを進まなかったし、妻は政略で通う相手に限定され、情緒がなかったからこそ、全員を平等に扱って不平不満を起こさないミラクルを成し遂げた。


 そして――。


「暁様が、私を心から愛しく想い、大切にしてくださっていることは、承知しているのです。あの誠実なお方の真心を疑うなど、それこそ罰が当たります」


『原作』の『夕顔』が『頭中将』を最後まで信じ切れなかった展開とは対照的に、出逢ってからの長くはない時間の中で、用心深い鋼の理性の持ち主である夕花の心すら、溶かした。目の前の少女は、兄が自分を好いていることを、疑っていない。兄の心を信じて、ある程度、男に従順なだけではない姿も見せているのだろう。でなければ、兄の口から「愚かと思ったことはない」という言葉は出まい。

 ……ただ。


「どうか、そのように思い詰めないでください、夕花様。何かご不安なことがあるのかと、お尋ねしたのはわたしです。――右近も、頭を上げてちょうだい」

「葵様……」

「謝らねばならないのは、わたしの方ですわ。我が兄――暁が、夕花様とこちらの皆のお心を惑わせてしまったようで、本当に申し訳ありません」


 兄の心を、疑っていないのと――心の底から信頼して己を託せるのかは、また別の話なのだ。

 帰ったらマジでもう一回お説教せねば、と決意しつつ頭を下げる葵の前で、夕花の焦った声がする。


「お止めください、葵様! 高貴な方が、私のような者に下げる頭を持ってはなりません!」

「いいえ、夕花様。兄に情緒や気働きを教育しきれなかったのは、わたしの不徳の致すところですもの」

「……葵様が暁様を教育なさるのですか?」

「普通逆なのは承知しておりますが、何しろ兄の気の利かなさは、二つの歳の差をものともしないほど壊滅的なもので。両親も努力はしていましたが、何かと忙しい身で、兄にばかり構ってはいられません。必然的に、行き来の多いわたしが口うるさくなりました」

「な、なるほど……いえ、だとしても、暁様のことに、葵様が責任を感じられることはありません。これは私と暁様、二人の問題ですから」

「……夕花様はまこと、理性的なお方ですこと」


 演技でなく感嘆の息を漏らしつつ、頭を上げる。

 葵の言葉を聞いた夕花は……寂しそうに、微笑んでいた。


「理性を保たねば、と常に思ってはいるのですわ。乳母を亡くし、母を亡くし、父を亡くし……この歳で、頼れる年長者を軒並み喪った家の主となって、情に振り回されては生きてゆけませんから」

「……さようでしたの」

「父が遺した荘園はごく僅かですが、若い女が継いだことをどこからか嗅ぎつけて、それすら奪おうと近付いてくる輩は、後を絶ちませんでしたのよ。言葉巧みに私を口説いて、信用させて、荘園の権利書や、酷いときはこの家の地券まで出させようとするのです」

「なんてこと」


 珍しくない話とはいえ、実際の被害者から聞くと、最低な男たちに社会的制裁を下したくなる。葵の表情から憤りが感じられたからか、夕花は少しだけ表情を明るくさせた。


「ご安心を。もちろん、そんな輩を信じはしませんでしたわ」

「えぇ。ご聡明な夕花様なら、そうでしょうとも」

「聡明など。ただ……どうしようもなく臆病で、疑り深い、卑怯者だっただけです」

「ご自分のことを、そのように仰らないでくださいな」

「本当のことですわ。私の母は、父と出逢うまで、男性に様々な苦労をかけさせられたそうでして、よく私に申していましたの。『大して知りもしない女を、定型文で口説いてくる男に、ろくな奴はいない。世の中、基本的にそんな男しかいないから、信用しないように』と」

「正しい教えだと思いますわ」

「荘園目当てに口説いて来る者たちを見るに、そうだったのでしょうね。『お前は、殿と私の良いところを受け継いで、身分不相応な美しさを宿してしまったから、特に気をつけなさい』と言い含められて……両親が健在の間は、ろくに庭へも出られませんでした」


 過ぎし日を懐かしむ夕花の瞳は、哀しいほどに凪いでいた。懐かしみはしても、その時間がもう二度と戻ってこないことを、理性的な彼女は重々に理解している。どうしようもないことに心を揺らして嘆くほど、無力な姫君ではいられなかったのだ。


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