夕顔の花は咲く*其の五
夕花の事情が粗方見えたことで、これからの方針も自ずと決まってくる。
頭の中で素早く今後の段取りを組み立てつつ、葵は口を開いた。
「お兄様。まずは夕花様のお気持ちを確認して、と申し上げましたが、ご懐妊されているのであれば、話は別です。夕花様の現状からして、今は最も、赤子が流れやすい時期のはず。ひとまずは心穏やかに過ごして頂き、ある程度赤子が胎内で落ち着いた頃を見計らって、お邸を移るお話をするようにいたしましょう。夕花様のお邸にお産慣れした女房が居ないのであれば尚更、ご出産時はこちらの邸で、万全を整えるべきかと存じます」
「そ、そうだな。そうだが……俺がそうだったように、夕花もまさか自分の中にやや子がいるなど、思いもしていないだろう。どう伝えるべきか――」
「こういう話は、又聞きした誰かからより、詳しい人から直接聞いた方が良いのではないかな? 例えばだけど、暁から姫君の話を聞いた葵が、挨拶を兼ねてお邸を訪問して、そこで話を聞いてみるとか」
光からの援護がありがたい。普通、貴族女性はそうホイホイ外出するものではないのに、出会いが出会いだったからか、光の中で葵は〝フットワーク軽い女人〟と受け入れられていて、そこに批判や嫌悪は一ミリもないのだ。自身が異質な存在と自覚しているだけに、これほど理解のある夫を得られたことは、ただただひたすら感謝である。
「お兄様と光が良いなら、私としては夕花様へご挨拶することに異存ないわ」
「暁様のご家族に受け入れられていないというあちらのご懸念も、姫様なら晴らせるでしょうし」
「確かに、葵に任せれば、その辺りは問題ないのだろうけれど……」
暁としては、単純に、妻のことが心配なのだろう。夕花の性格が『原作』の『夕顔』に沿ったものであるなら、『何事にもおっとりしていて、男にあっさり騙されそうなほど素直で、辛いことがあっても恨みごとなど言わず受け入れてしまう』感じの、庇護欲をそそるタイプの女性のはずだ。ついつい過保護になってしまう気持ちも……分からないでは、ないけれど。
「――失礼いたします、姫様。湯殿の準備が整いました」
暁が考えこんだことで沈黙が訪れた部屋に、落ち着いた女人の声が響いた。気づけば、室内を区切っている几帳の横に、楓の母で葵の乳母である野萩が控えている。実質、この東の対の取り纏め役である野萩は、こういった伝達のために足を運ぶことは少ないが。今日は楓がずっと葵に付ききりのため、ここまで来てくれたらしい。
「あれ、野萩? えっ、もうそんな時間?」
「はい、姫様。今日は何やら、込み入ったお話をされているようですが……そろそろ風も冷たくなる時季ゆえ、お湯の時間をずらすことはお勧めしませんよ」
「そうよね。――光」
少し考えて、葵は隣の光へ視線を向ける。
「わたしはもう少し、お兄様とお話ししたいから。良かったら、先にお湯をどうぞ」
「そうだね。せっかく準備が整ったお湯を、冷ましてしまうのも勿体無い。お言葉に甘えて、先にいただくよ」
「ありがとう、助かるわ」
「こちらこそ」
にっこり笑って、光は野萩と共に湯殿へ消えていく。この世界の〝ちょっとした違和感〟の一つに数えられる〝毎日のお風呂習慣〟は、ベースが現代日本人の葵にとってはとてもありがたいが、毎日準備しなければならない邸の人たちにとっては、まぁまぁの負担だろう。無駄にせず済むなら、その方が良いに決まっている。
……まぁもちろん、光を優先的に促したのは、それだけが理由ではないが。
「――お兄様。躊躇われるのも分かりますが、今のうちに夕花様の身辺を整えて、大切になさいませんと。〝そのうち〟と窺うばかりですと、ずるずる機会を逃して、永遠に喪ってしまいかねませんよ」
光が去ってから葵が発した言葉に、暁ははっとした顔を向ける。この〝世界〟の主人公たる光には未だ告げていない、前世で読んだ『原作』知識――〝未来〟の話をされていると、言われる前に察したらしい。みるみるうちに青ざめた暁は、脇息を蹴倒す勢いでにじり寄ってくる。
「――知っているのか、夕花と俺の未来を!?」
「あくまでも、わたしが視た〝未来〟における話ですが。お子が生まれてもなお、お兄様がモタモタしているうちに、夕花様はお兄様との暮らしの展望が見えず、お子様を連れて姿を消し――その先で、またもや悪い男に引っかかり、儚くなられると」
「な……!?」
「〝未来〟の『お兄様』は、今のお兄様とは似ても似つかぬ酷い男ですので、必ずしも視たままになるとは限りませんけれど……夕花様に手を伸ばすのを躊躇されればされるほど、視た〝未来〟へ近づいていくのは間違いないでしょうね」
「そ、そんな……」
「どれほど隠そうとも、恋をすれば常とは様子が変わり、いずれ周囲の人々に勘付かれるものです。お兄様が恋をしているのではと、わたしに話してくれたのは光ですよ?」
「そうなのか!?」
「管弦の集いでのお兄様の様子が、はっきり見て取れるほど〝恋する男〟だったそうです。そうやって色めいていたお兄様に、宮中の女房たちが見惚れていたことも、おそらくお気付きでないでしょう?」
「し、知らない……」
「そういったところから人々の噂となり、いずれは宮中外に広がっていくのです。昨晩の集いは大規模なものだったと聞き及んでおりますし、もしかしたら、光以外にも何かを察した人がいるかもしれません。もしもその人が、口の軽い方だったら……噂が広まるのは、わたしどもが想定する以上に早い可能性だってありますよ」
今はどうにか秘められているが、恋心を秘め続けること自体、そもそも不可能なのだ。かの有名な『恋す蝶 わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思いそめしか』の歌の例もある。『原作』の作者が生きた時代より後の歌だから、『源氏物語』には反映されていないけれど、人々の噂がどうのという記述は随所にあるし、感覚はそう変わらないはず。
そうして、兄の秘めた恋が人々の噂になり、その相手が明らかになったら……兄の妻たちは、きっと黙っていないだろう。そうなってからでは遅いのだ。
「お子様が生まれてからでは、子ができて仕方なく妻として扱うようになったのかと邪推される可能性もございます。疑念を持たれぬためにも、夕花様がご自身の変化に気付いていない今のうち、妻として大切に想っていると行動で示すことは必要だと思いますよ」
「あぁ……そう、だな。躊躇う間にも、夕花との未来が遠ざかるのだとすれば、そんな暇はないのだろう。――葵、手間をかけて済まないが、頼めるか」
「他ならぬお兄様と、お兄様が大切に想われているお方のことですもの。手間でもなければ、謝られることでもございません。――頼まれましたわ、お任せくださいませ」
兄と視線を合わせ、うん、と力強く頷き合う。ここに、話は整った。
――さぁ、〝夕顔救済作戦〟を始めよう。




