夕顔の花は咲く*其の四
想像していた以上にやらかしていた兄へ、マジでもうちょい相手の気持ちを考えろとプンスコしている葵。
その隣で会話の流れを黙って追っていた光が、そっと脇息越しに楓を見た。
「こういうときの葵は、乳母より怖いよね」
「理詰めで粛々とお説教されますからねぇ。しかも、逃げ道という逃げ道を塞いで、隙がありません。お仕えしている立場の乳母より、容赦がないのは確かです」
「私には母の記憶がないけれど、左大臣の北の方はこんな感じなの?」
「いいえ、まさか。北の方様は、典型的なおっとり皇女様がそのまま成長なされたような女人でいらっしゃいますよ」
「そうなんだ。葵って初めて逢った頃からこんな風だったから、どんなしっかりした人に育てられたらこんな女人になるんだろうって思ってたよ」
そりゃ、光と初めて会ったときは、既に中身アラサーだったからね――。
野次馬たちの感想戦には内心だけで突っ込んで、葵はやや表情を緩め、暁を見つめる。――当初の予定どおり暁と一対一だったら、こんな風に気が逸れてうっかり和むこともなかっただろうから、その点では光を連れてきた暁の着眼点はなかなかに的確だ。
「今のお話で、お兄様がやらかしたことについては、ご理解頂けたかと思いますが」
「……あぁ」
「やらかしてしまったものは、仕方がありません。反省して、これからのことを考えましょう」
「……これから」
しょぼくれた暁が、葵の言葉に自我を取り戻し、ゆっくり顔を上げる。……実年齢は上の暁も、中身アラサーの葵にとっては幼い頃から成長を見守ってきた弟のようなものだ。特に今の暁は、前世で死に別れた頃の一番上の弟と歳が近いこともあり、ついつい姉目線で話をしてしまう。
「まず、肝心のお兄様が、夕花様とどうなりたいか。そこをはっきりさせましょうか」
「そんなこと、決まっている。夕花を正式な妻として迎え、世間に憚ることなく、丁重に扱いたい。できることならこの邸に迎え入れ、社会的な地位はどうあれ、俺が最も重んじる妻だとはっきりさせたい」
「では、そのお兄様のお気持ちを、夕花様にお伝えせねばなりませんね。お伝えして、邸を移っても良いと、夕花様に思って頂かねば」
「そう、だな。……そう、なのだが」
そこでふと、暁が言葉を切り、何かを思案する顔になる。じっと言葉を待っていると、事前情報ゼロで聞き役に徹している光が焦れたのか、少し身を乗り出した。
「どうしたの、暁? 何か、気になることでも?」
「あぁ、いや……最近の夕花は、体調が優れないことも多いし、気分の晴れない日が続いているようだから、話すにしても機を伺うのが難しいな、と」
「――体調が優れない? 具体的には、どのように?」
光に便乗する形で、葵も身を乗り出す。本人は無自覚だろうが、上手くパスを回してくれたものだ。気働きの利く光は、こういうときにとても頼れる夫である。
葵の質問に、暁はもう一度、考えて。
「少し前から、何か悪いものにでも当たったのか、気分が悪くて食事が進まない様子でな。食べ物を悪くする季節でもあるまいし、心配で……何度か祈祷には来てもらったんだが、効果はなさそうだった」
「他には?」
「あとはそうだな、そろそろ寒い季節だというのに、小袿が薄いままなのも気にかかる。衣を仕立てられる充分な金子は渡しているから、冬用の生地が手に入らないということもなかろうに」
「……まだ、あります?」
「先ほどもちらと言ったが、体調だけでなく、気分の優れない日も多いようだ。『あなたの役に立てない』と嘆く日も多いし、ちょっとしたことでも気分が上がったり下がったりするらしい。本人もどうしてか分からないようで、『祈祷でも祓えない物の怪の仕業でしょうか』と嘆いていた」
「…………お兄様」
額を手で抑え、肺から深々と息を吐き出す。……この兄は、本当に。詳しくは知らないが、通う先で一人二人、子どもを作っているはずなのだが。本気で思い至っていない辺り、いくら義務とはいえ、どれだけ身重の妻に興味がなかったかよく分かる。
「お兄様。そのご不調、祈祷ではどうにもなりません。……お分かりになりませんか?」
「分かるわけないだろう。そなた、今の話で見当がついたのか?」
「これほど代表的な症状を目の当たりにして、気付かれないお兄様が心配ですわ。――おそらくですが、夕花様はご懐妊されておいでです」
葵が告げると、暁は再び目を極限まで丸くし――葵の横で、光がうんうん頷いていた。
「だよね。話を聞いて、私もそうじゃないかと思ったよ」
「光も分かった?」
「うん。後宮の女御方が身籠られたときと、似たような状態だと思えたからね。暁と契りを交わしたのが夏頃なら、時期も合う」
「そっか。後宮はまさに、その手の専門家が集ってる場所だものね。――そう思えば、夕花様のお邸に、出産とか、赤子を取り上げた経験のある、年嵩の女房は居なかったのですか?」
前世が現代日本人の葵はなかなか馴染めないが、〝概ね平安時代〟なこの世界において、女性の妊娠出産は医療分野に数えられていない。産婦人科なんてものはもちろんないし、助産師なんて職業もない。前世世界で〝産婆〟の概念が生まれるのも平安以降の話であるから、歴史どおりとも言えるけれど。
そんな世界の妊娠出産で頼りになるのは、経験を得た先達であり、多角的にその事象に関わったことのある玄人である。実際、歴史を紐解けば、〝産婆〟という呼び名こそないものの、〝赤子の取り上げならばこの人〟と名を知られた女房がどの時代にも居たらしい。そういった人たちが次の世代へ妊娠出産のイロハを伝え、やがては職業としての〝産婆〟へ繋がっていったのだろう……と、これは葵の勝手な想像だが。
――とにかくこの時代、若い女人が主人の邸なら、乳母世代の、妊娠出産に詳しそうな女房が一人二人いても、不思議ではないはずなのだ。
「いや……あの邸はそもそも、仕えている者の数も少ない。夕花が持っている荘園からの収入も豊かとは言えないし、必要最低限の人数しか置いていないのだと思うよ。出産経験があって頼りになるといえば乳母だろうけど、夕花が小さい頃亡くなっているそうで、彼女が最も頼りにしているのは乳姉妹の右近という女房だ」
「それは、夕花様におかれては、ますます心細いことでしょうね」
現代日本に生きたアラサー女子の魂こそ宿していても、この〝概ね平安時代〟では、葵とて年相応の経験しかない。日常のフォローは楓が過不足なくしてくれるけれど、やはり物慣れた、親世代である野萩の存在は大きいと思う。穏やかで鷹揚な気質の野萩は、葵が平安貴族の女性として相当に型破りでも、大騒ぎせずおっとりと見守ってくれている。実はかなり常識外れな左大臣邸の東の対が、ごく普通の貴族家のように取り繕えているのは、野萩の安定感あってこそなのだ。
そういった存在すら、夕花に居ないのなら。――早く動くに、越したことはない。




