夕顔の花は咲く*其の三
葵に詰められている暁を、心なしか楽しんでいる楓と、ワクワクが抑え切れていない光が野次馬感満載の風情で眺めている。そんな二人の視線に晒されつつ、暁は何度か瞬きをして。
「何故……とは?」
「何故、新しい恋人ができたことを、隠していらしたのです?」
「それは当然、世間に知られると障りが多いからだが」
「障りとは?」
「……あちらの四の君を含め、俺の通う先は、身分も意識も一際高貴な女人が多い。通い先が複数あることに本心は納得しておらず、左大臣家の嫡子ゆえ義務で通っているのだと言い聞かせて、どうにか矛を収めている。そんな人たちに、私が自ら望んで通う先があるなどと知れたら、障りがあるだろう」
「えぇ、それは分かります。世間に対して秘めるのは、当然のことと思いますわ」
一つ大きく頷いてから、葵は「しかし、」と暁の瞳を射抜く。
「今のお話ならば、尚更に。お兄様が家族に秘する理由が分かりません。お父様もお母様も、もちろんわたしも、お兄様が本気で愛して大切にしていらっしゃるお方を邪険にするわけがないと、お兄様ならばお分かりでしょう?」
「もちろん、分かっている」
「ならば、相手の方をお守りするためにも、家族には話を通しておくべきでは?」
「それは……!」
言葉を探し、視線を彷徨かせ、結局妥当な言い訳が浮かんでこなかったのだろう。暁はがくりと肩を落とした。
「……夕花は、身分が低いんだ」
「お相手の方は、夕花様と仰るのですね?」
「夕顔の花が咲く頃に生まれたから〝夕花〟なのだと、以前話していた。身分が低いとはいっても、父君は数年前に亡くなった三位の中将だから、望めば宮仕えも叶う身分ではあるが」
「お母上様は?」
「父君より少し前に亡くなっている。若くして両親を亡くした夕花は、後ろ盾もなく、寄る辺のない身の上だ。……端的に言えば、左大臣家の嫡子が妻とするような、政略的理由がない」
「ゆえに、反対されるだろうと?」
「どうしてもと望めば受け入れられはするだろうが、良い顔はされないと思った。――何より、夕花が自身の身の上を気にしている」
「そうなのですか?」
「あぁ」
短く頷く暁の瞳には、これまで見たことのない、複雑な色の感情が見え隠れしていた。光が言っていたとおり、これは間違いなく、恋に溺れた男の色だ。
「初めて逢ったのは、長雨の頃だった。雨が強く降る日に、出先で牛の調子が悪くなってな。近くの家に頼んで、しばらく休ませてもらったんだ」
「では、そちらが……?」
「あぁ、夕花の家だった。俺があまり大仰な外出をしないせいで、まさか左大臣家の人間だとは思わなかったみたいでな。夕花自ら応対に出てくれて、御簾越しに取り留めもない話をして……その時間がずっと続いてほしいと、そう思ったんだ」
世の中、恋に落ちるきっかけとは、得てしてそういうものなのかもしれない。
「情けない話だが、俺はこれまで、恋というものをしたことがなかった。左大臣家の嫡子ともなれば、結婚は義務で発生する。結婚してしまえば、相手との間に生まれるものは家族の情なのだろうと……友人たちや物語から知る〝恋〟というものは、きっと俺のような人間には無縁のものだろうと、そう思ってきた」
「これまでのお兄様は、そんな感じでしたね」
「だが、夕花と知り合ってからは、寝ても覚めても彼女のことばかり考える。何を置いても会いたくなって、最初は寄せてもらった礼に、次はこの前これが足りないという話を聞いたから、しまいには通りがかって気になったからと、通う頻度は次第に増えて……いつもの、妻のもとへ通う日にまで、『ここにいるのがあのひとだったら』と想うようになって、ようやく気付いた。――これが、恋かと」
「遅いと呆れるべきか、お兄様にしては頑張りましたねとお声掛けするべきか、悩ましいところです」
「知り合って、早い段階で俺の素性は明かしていたから、夕花に想いを告げたときは驚かれた。驚かれて、『私など、とても釣り合いません』と拒絶されて……だが、どうしても夕花が良かったから、ひたすら想いを伝えてな。夏の盛りの頃、ようやく受け入れてもらえたんだ」
「それは、おめでとうございます。……ございました」
兄の初恋の成就は、妹として素直に喜ばしい。
だが、違う。本題はそこではないのだ。
「それで、夕花様が、ご自身の身の上を気にしていらっしゃるというのは?」
「恋仲になってから、『私は、あなた様の妻として、できることが何一つない』と折りに触れ言うんだ。『他の妻の方々は、ご実家の財力であなた様を支え、後ろ盾となっておいでなのに。できることなどない私が、これほど気にかけて頂いて申し訳ない』って」
「……お兄様は、それに対して、なんと?」
「『俺には財力なんて有り余るほどあるから気にするな、むしろ俺がそなたを支える』と励ましているが?」
「――ちっ、がうんだよなぁ!!」
兄が恋人――夕花を紹介せず、家族にすら秘めていた理由は分かった。
分かったが、違う。気遣うべきポイントが盛大にずれている。
目の前で、ほぼ前触れなく爆発した葵に対し、飛び上がって反射的にぴっと座り直した暁へ、葵は膝でにじり寄った。
「あのですね、お兄様。お兄様も恋をして大人になられたのですから、この辺で一つ、情緒というものを理解する努力をなさってください」
「じょ、情緒?」
「夕花様がご自身の財力のなさ、家の力のなさを嘆いておいでなのは『それさえあれば、堂々とあなたの妻として胸を張れるのに』という願望の裏返しです。言い換えれば、本心ではお兄様の正式な妻になりたいし、お兄様を支えられる場所に居たいと願っていらっしゃるということでもあります」
「!! そ、そうか。そうなるのか」
「そこで嬉しそうにしない! そう願っておいでの夕花様に対し、お兄様がなさったことはなんですか!」
「え? ――あっ」
「お気付きですね? 夕花様は妻としてお兄様のお役に立ちたいとお思いなのに、その返答が『気にするな、俺が支えるから』では、暗に〝お前の支えなんていらない〟と拒絶したも同じなのですよ」
「あっ……」
目を極限まで丸くした暁は、ようやく自分のしでかしたことに合点がいったらしい。その表情のまま、固まっている。
「しかも、身分も高くなく家に力もなく、財力とて僅かな夕花様を、お兄様は世間に秘め、家族にまで秘していらっしゃる。それでは夕花様が、ご自身の立場に不安を抱かれても無理はありません。世間に知られていないということは、余計な攻撃の対象にこそなりませんが、同時に同情や共感といった盾も存在しないということ。お兄様が今日明日、急に気持ちを無くして夕花様を捨てても、誰にも見咎められないわけですから」
「そんなことはしない!!」
「お兄様のそのお気持ちを、夕花様はどのように信じれば良いのです? 世の中、女性を抱いて愛するのはあなただけだと睦言を囁いたその足で、別の女性の元へ通う色好み男の話など、噂話だけでも掃いて捨てるほどありふれているではありませんか。確かな形もないまま、ただ言葉だけで繋ぎ止められるほど、女人は愚かではありません」
「夕花が愚かだなどと、思ったことはない……!」
「思うだけでは意味がないのです。人の内心など、どれほど近しい存在であっても完璧に伝わりはしない。ゆえに行動して、自身の言葉と思いに相違がないことを伝えねば、真の意味で他者の信頼を得ることは叶いません。――はっきり申し上げますが、今のお兄様は、夕花様がご自身の身分を気にしておいでなのを良いことに、世間に秘めた恋人として都合よく、いつ捨てても構わない女として軽く扱っている、わたしが最も嫌悪するタイプの男に見えてますよ」
葵の激怒を真正面から受けた暁は、とうとう返す言葉を失ったようで、唇を引き結び、深く俯いてしまった。




