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夕顔の花は咲く*其の二


 逸れた話を戻すべく、こほん、と楓が咳払いを一つ落として。


「……えぇと、失礼いたしました。話を元に戻しますと、姫様の仰る〝満年齢〟で数えた場合、光様のご年齢は十二歳となり、お誕生日が来たら十三歳となられるわけですね」

「えぇ。光の誕生日は確か、冬の初めだったと記憶しているわ。来月にはもう光が十三歳になって、その年齢中に『玉鬘』が生まれるのだとしたら……産月にもよるけれど、ご懐妊されている可能性は高いでしょう」

「『玉鬘』が、お生まれになる姫君のお名前ですか?」

「作中でそう例えられていたってだけ。こちらと同じく、あちらの平安時代でも、みだりに他人の名を口にしたりはしないから。登場人物は基本、呼び名とか〝そう称されていた〟みたいな描かれ方よ」


 そう説明してから、ふと思い出す。


「そういえば……かの姫君は、手紙のやり取りの中で『撫子』とも喩えられていたわ。母の『夕顔』が父の『頭中将』に宛てた、手紙の中で」

「『撫子』ですか。素朴でありふれた花ではありますが」

「えぇ。わたしが〝葵〟と名付けられたのが〝葵祭〟にちなんでいるように、ひょっとしたら姫君も、〝撫子〟が咲く頃に生まれたのかもしれない。〝撫子〟の開花時期はえぇと――初夏から秋ね」

「姫様の見立てが正しいとするなら……」

「やはり、もうご懐妊しておいでだと思う。まだお腹は目立っていないかもしれないけれど、つわりとか、睡眠時間とか、明らかに常とは違う症状が出ている頃よ」

「お詳しいですね……」

「身近に四回、妊娠出産を経験した女性がいたら、嫌でも詳しくなるわ。まさかこの知識が活かされる日が来るとは思わなかったけど」


 はぁ、と息を吐き出して、葵はしばし、宙を睨む。


「いずれにしても……初恋に浮かれたがゆえとはいえ、あまりに好き勝手なさっているお兄様には、きちんとお話しないとね。我々家族のためにも――何より、お相手のためにも」


〝概ね平安時代〟なこの世界は、前世以上に親ガチャがシビアだ。葵は幸い、親ガチャにだけはトップクラスで恵まれたが、中途半端な貴族階級に生まれてしまったら最後、親の出世が子どもの人生にかなり直接的な響き方をする。特に女は悲惨で、場所をあまり選ばず働きに出られる下流の貴族はまだマシだが、働くにしても場所を選ぶ(主に宮中、次いで親王家、公卿家上位でギリギリ許容範囲となる)中流貴族の女性は、親が元気な間に結婚相手なり働き口なりを確保してもらわない限り、零落暮らし一直線。真面目に、どこかの公達に見初められる奇跡を待つくらいしか、生きる手立てがない。

『原作』の『夕顔』も、そこそこの身分の父親が早逝して途方に暮れていたところを、『頭中将』が見つけて通うようになったという話だった。おっとりした気質で、放置していても文句一つ言わないからと〝都合の良い女〟にしていたら、手痛い結末が待っていたという思い出話が、かの有名な『雨夜の品定め』にて当人の口から語られる。

 兄の暁は、『原作』の『頭中将』のように適当な真似はしないだろう。しかし――。


「ただ男の情けに縋るしか、生きる手段がない……そんな女性の心細さも感じ取らず、恋に浮かれて頭がおめでたくなっているのなら、わたしにも考えがあるわ」


 葵の呟きを聞いた楓が、とても楽しげに「お手並み拝見いたします、姫様」と煽ってくれた。



   ■ ■ ■ ■ ■



 葵が福寿丸、隆暁経由で兄へ託けた文は、何のことはない、「至急話したいことがあるので、今日の仕事が終わり次第、東の対まで来て欲しい」という伝達であった。葵は無駄なことをしないと知っている暁だから、簡潔な文から、絶対に引かない気配を感じ取ったことだろう。待つこと数刻、今度は反対ルートで「承知した」という兄の返事が届く。この程度のやり取り、現代日本ならメッセアプリで事足りるのにと思うにつけ、スマホが恋しくなるのは致し方ないだろう。転生して何度目かの「スマホが欲しい。無理でもせめて携帯電話が欲しい」という欲求と戦っているうちに、太陽が西へ傾く頃合いとなった。


「葵、久しぶりだな~。元気だったか?」

「ただいま、葵。暁に話があるんだって?」


 メッセ――もとい、文の通り、東の対へと顔を見せた兄。

 が……その隣に、想定外の人物がもう一人。いや、考えてみれば当然なのだけれど。光――葵の夫は、用事がない日は直帰がデフォルトなのだから。ここ十ヶ月間、ほぼ宮中と左大臣邸の往復しかしていない光に、そろそろ実家の二条邸は良いのかと突っ込むべきかもしれない。


「おかえりなさい、光。えぇ、お兄様にお伺いしたいことがあってね。話があるって、お兄様から聞いたの?」

「暁の乳兄弟が文を届けに来たところに、私も居合わせたんだよ。今日は私もそのまま葵のところへ帰るつもりだったから、せっかく同じ場所へ行くのだしと、暁から誘われてね」

「ふぅん、そうなのね」


 光と話しつつ、葵はジト目で暁を見据えた。見据えられた方は、心なしか気まずい表情で、視線を斜め下にずらしている。――確信犯か、この野郎。


「――お兄様? どうやら、知られたら怒られることをなさっている自覚はおありのようですね?」

「何の話だー?」

「まぁ、白々しいこと。わたしから届いた文を、わざわざ光の前で開けて。この〝お話〟の場に光が同席するよう、仕向けたでしょう」

「そうなのかい?」

「そういうことをするのよ、お兄様は。大方、後ろ暗いことがあるときにわたしから文が届いて、それが呼び出しだったものだから、どうにか切り抜けられないか、完全回避は無理でもわたしの怒りを軽減できる策はないか、考えたんじゃない? さすがのわたしも、夫の目の前で兄を叱り飛ばしたりはしないだろう、って」

「そうか。――力不足で済まない、暁」

「降伏宣言が早すぎやしないか、光!?」

「そもそも、葵は理由なく怒ったりしない。葵が怒っているのなら、それは君が悪いんだろう」

「しかも、まさかの葵側!?」

「あらあら、暁様。策士策に溺れるとは、まさにこのことですね?」

「楓まで……ちくしょう、味方なしかよ」

「味方がいると思うこと自体、そもそも間違いなのです」


 葵が居住まいを正したのを合図に、暁も諦めたのか、背筋を伸ばして座り直す。楓も主夫婦の前に控える女房の風情だが、自ら戦力外通告を出した光は、脇息に身体を預けて見物の姿勢だ。瞳に隠しきれない野次馬根性が光っている辺り、大人びて見えてもこういう部分は年相応である。

 夫という名の野次馬は、一旦、視界の隅に追いやって。葵は向き合った暁へ、口を開く。


「そもそも、お兄様は、わたしにどういった後ろ暗さを抱えていらしたのです?」

「それは……新しく、通う先ができたことだが」

「それだけならば、正妻方への後ろめたさはあれど、後ろ暗さまでは感じられないでしょう。お兄様とてもう立派な大人、蔵人少将という不足ないお役目を頂いているのです。京中に通う女人がいらしても、ちっともおかしくありません」

「それを……家族にも、友人たちにも、秘密にしていた。いや、もちろん隆暁や福寿丸たち、西の対の家人は知っていたぞ!?」

「お兄様のご身分で、従者たちにまで通う先を秘密にできませんから、それは当然でしょう。――それはともかく、何故です?」


 葵の淡々とした問答に、暁の背筋がどんどん伸びていく。


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