夕顔の花は咲く*其の一
「ああぁ、やはりお耳に入りましたか……」
翌朝、出仕する光を見送ったその足で、葵は福寿丸を呼び、事の詳細を尋ねた。最初の方はどうにかこうにか誤魔化そうと努力していた福寿丸だが、葵の話運びにほどなく陥落し、階の下で頭を抱えている。
「では、お兄様に意中の方がいらっしゃるのは、間違いないのね?」
「えぇ、それは、なんと言いますか……」
「間違い、ないのね?」
「はい、ございません」
歳の頃は暁とそう変わりなく見える牛飼童の福寿丸だが、その気質はいたって穏やかで、何より忠義心に篤く誠実なところを、葵は高く評価している。八歳の頃からほぼ毎日、葵を乗せて左大臣邸と内裏を牛車で行き来しながら、彼はついぞ、世間の誰にも違和感を抱かせず、その事実を外部へ漏らすこともしなかった。ひとたび噂が立てば即ゲームオーバーなSNS社会ほど秘密保持は難しくないけれど、それでも八歳から十四歳までの六年間は、邸の主人にすら悟られない徹底ぶり。福寿丸が、父左大臣ではなく暁を自身の主人と定め、暁の命を何より優先していたからこそ、成し得たことだろう。
そんな福寿丸が、葵に対しては、どうやら秘めた恋だったらしい暁の所業を割とあっさりゲロっているが。これは、葵のカマ掛けを含めて誘導尋問が上手くいったというよりは。
「いえね……私もですが隆暁殿も、せめて彼方の方について、姫様にはご相談されておくよう、申し上げていたのです。お相手の方の身分を思えば世間に秘めてとなるのも理解はできますが、姫様はさようなことを理由に、男と女の仲に関して無粋は申されないでしょう、と」
「わたしは言わないし、身分だけが理由なら、お父様とお母様も多くは仰らないと思うわ。主上と桐壺様の恋に、お二人は終始、同情的でいらしたそうだもの」
「そうですよね。私どももそう申し上げたのですが、暁様は『いずれ時期を見て』とのらりくらり、仰るばかりで」
やはり、暁がそこまで強く口止めしていないのと、福寿丸自身、葵に隠し立てしていることが心苦しかったから、ということらしい。暁側との情報共有のため、こまめに西の対と行き来はしてくれているものの、福寿丸が日常的に詰めているのは東の対だ。葵が平安の姫にしてはぶっちぎりで外出回数が多い分、車を操る福寿丸と過ごす時間も長く、お互いに気心も知れていれば気質も理解し合っている。そんな福寿丸からすれば、「姫様にまで隠そうとする意味が分からない」という気持ちだったのだろう。
……まぁ、今の話を福寿丸から聞いて、一つ思いついたことがあるとすれば。
「たぶん、だけどね。お兄様、別にわたしに話すのが嫌とか、家族まで警戒してたとか、そんな疑心暗鬼に囚われてたわけじゃなくて……単純に、話す時間が惜しかったんじゃないかしら」
「……時間が、惜しかった?」
「ウチまで帰ってきて、寝殿に全員を呼び集めて説明するの、結構な手間よ。お父様はお忙しいから、時間を合わせるのだって面倒でしょう。そんな暇があるなら、数刻でも長く意中の方と過ごしたい……って、なってるんじゃないかしら、今のお兄様は」
「まさかそんな、仮にも左大臣様のご子息ですよ!? 結婚なんて大事を……」
「初婚だとか、正妻にしようとか、そこまで考えていらっしゃるなら、きちんと体裁を整えられたと思うけれど。気持ちは通っていないにせよ〝北の方〟は既にいらっしゃるし、ただ密かに結婚して通うだけなら、ね。家と情報共有しなければならないほどの大事でもないわ」
「それか……初恋に舞い上がりすぎて、そういう細かいことが頭から抜けていらっしゃるか、ですね」
実は控えてくれていた楓が、ぽつりと鋭い指摘を落とした。正直なところ、暁が本気で好きになった相手を家族に紹介しないような人だとは、葵も考えていない。おそらく、いずれ紹介しようと思ってはいるけれど、それより今は二人で過ごす時間が惜しくて、〝左大臣嫡子の結婚は政略的に大事〟という事柄がすっぽ抜けている、という葵と楓の推測が、最も正解に近い気がする。
「……抜けていらっしゃるなら、教えて差し上げねばならないわ」
「そうですね」
「――福寿丸。お兄様宛に手紙を書くから、隆暁へ託けてもらえるかしら?」
「はっ、はい!」
葵が声を飛ばしている間に、全てを理解している楓が文机を持ってきてくれる。目線で礼を言い、葵は白の料紙にさらさらと、簡潔に文章を書きつけた。現代の叡智を結集して作った左大臣邸特産の墨は、乾きが抜群に早い。書く側から乾いた文を確認して手早く折り、控えていた楓に渡す。
「こちらを福寿丸へ」
「かしこまりました」
平安時代の常識をあまり気にしない葵だが、唯一、〝上流貴族の女人は、近しい家族や側仕えの女房以外に素顔を晒さない〟という一点だけは、割としっかり守っている。もちろん、しきたりそのものを重んじているわけではなく、秘密の外出がデフォルト化している身として、外で万一、ばったり知り合いと会った際、〝姫〟としての葵を知らない相手であればどうにか誤魔化せるからだ。今現在、〝姫〟の葵の姿を知る人物は、両親と兄、野萩と楓、福寿丸と隆暁、六条の椿、そして光――と、全員合わせても、両手の指で数え切れる程度。『原作』の『葵の上』が大勢の女房に傅かれていた様を思えば、なんとも平安の姫らしくない姿だが、これはこれで悪くない。
手紙を受け取った福寿丸が、「では、すぐに届けて参ります」と駆け去った背中を見送って――葵は楓と、向き合った。
「お話を伺ったときは信じられませんでしたが、まさか本当に、光様と姫様の推測が大当たりとは」
「わたしの予想は『アーカイブ』あってのズルだから。この場合、称賛されるべきは光の慧眼だけよ」
「光様の慧眼はもちろんですが、そこで即座に相手の方の現状まで予測できるのは、姫様のお力あってこそかと」
「でも、わたしだって光に言われなきゃ気付かなかったわ。昨夜も話の途中でやっと『あれ?』って思えたし。……光のあの出来の良さは、さすが主人公よね」
「まぁ……出来過ぎな方ではございますね」
葵の言葉に軽く苦笑して、楓は居住まいを改めた。
「ところで……本当なのですか? お相手の方のお腹に、暁様のお子がいらっしゃるというのは」
「『原作』の通り、ことが運んでいたらね。光と件の姫君の年齢差は、十三歳だったから。ということは、光が十三歳の歳に生まれていないと、計算が合わないわ」
「姫様のお歳の数え方は、時折混乱いたしますが……えぇと、〝満年齢〟というものでしたか?」
「えぇ、そうよ」
〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟なこの世界、歳の数え方は当然ながら〝数え年〟だ。生まれたときに一歳、その後は正月の度に一つずつ年齢が増えていくこの数え方は、前世で弟妹四人を育て上げた葵にそぐわないことこの上なかった。〝数え年〟は分かり易いけれど、年の瀬に生まれた赤子は、生まれてまだ一月経っていないうちに二歳と数えられてしまう。生後数週間の赤ちゃんを二歳とするのはさすがに感覚がついていかなくて、ついでに子どもの発育をきちんと捉える上でも、葵は脳内と楓との会話でのみ、周囲の人々の年齢を慣れ親しんだ〝満年齢〟で数えていた。
「生まれたときは〝零歳〟で、季節が一巡し、お生まれになった日が来たら一つ歳を取って〝一歳〟となる……独創的な考え方です」
「わたしの前世では、これが普通だったの。これなら、子どもの育ちをある程度標準化して見られるから」
「まず、〝零〟という数字の概念がございませんから、こちらでは」
「あちらでも、平安時代なら既に入ってきていた概念のはずだけど……数字を専門に扱う方や、偉い学者様だけが知っていて、一般には普及していないものだったのかもしれないわね」
「その可能性は、大いにありそうです」
楓と二人、うんうん頷いてからハッとする。……話が大幅に逸れた。