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兄への疑惑*其の三


「お兄様は本当に、恋の駆け引きなんか興味はないのよ。光はどうして、そんな風に思ったの?」

「ここのところずっと、様子がおかしいなとは思っていたのだけれど。なにせ暁だから、私も最初は、恋だなんて思わなかった。……けれど」

「けれど?」


 思わぬ話についつい引き込まれ、前のめりになっていたらしく、光と鼻先が触れてしまった。反射で身を引こうとしたが、それより光が葵の背に腕を回す方が早く、結局は同じ距離感のまま、彼の言葉の続きを待つ。

 少し言葉を溜めた光は、思い出したように、ふふっと笑って。


「昨晩の、宴でね。暁は笛を披露して……そのときの様子が、なんとも言えない侘しさに満ちていたんだ。吹き終わった後、しばし宙を仰ぐ様など、いかにもここではない何処かへ想いを馳せているようでね。御簾の内からも感嘆の息が漏れていたが、暁らしくもなく、それにはまるで無頓着だった」

「あの、お兄様が?」

「そう、あの暁が」


 性根は平安貴族らしくない暁だが、一方で彼は、左大臣家嫡子として相当に怜悧(クレバー)な一面もある。自分が根っこの部分で貴族らしくないことを十二分に理解していて、親しくないその他大勢の前では、自身の一挙一動がどのように見えるか、どう捉えられるか、全て計算の上で振る舞っているのだ。暁ほど、親しい相手とそうではない他人からで、食い違う人物像を持つ者もそう居ないだろう。

 広い客観的視点と優れた他者理解能力を持ち、いつだって完璧なセルフコントロールで自己プロデュースに余念のない兄が――宮中の宴なんていう大舞台で、それを、忘れた?


「お兄様が、自分を繕えなくなるほど……自失するほどの〝何か〟を、胸の内に秘めておられる、ということね?」

「そうなるよね。もちろん、人が思い悩む事柄が、恋ばかりとは限らないけれど。私が知る限り、暁の仕事は順調そのものだし、家族仲とて良好だろう? ――そう考えて、最近の暁の様子を振り返ってみれば、どうもおかしいことばかりでね」

「おかしいこと?」

「暁は割と規則的に、月のこの日はこちらの家という風に決めて、なるべく不平等にならないよう、関係を結んだ家へ通っているんだ。そういう几帳面な男だから、義務的な仲であっても、大きな不満は出ていない」

「そうみたいね」

「通う先のない日は、宮中に泊まるか、こちらの西の対へ帰るかしていたそうなんだが……ここ最近、暁が宮中に泊まることは、ほぼなくなっているんだよ」

「……え?」

「葵はさっき、しばらく暁と会っていないと言っていたけれど……ひょっとしたら、こちらにも帰っていないのかもしれないよね」

「えぇー……?」


 側付きの女房が野萩と楓しかいない葵に、邸内の噂話は、ほぼほぼ入ってこない。身の回りの全てを女房任せにしているベイビーな男なら、家に数日帰らないだけで大事件だろうけれど、暁もどちらかといえば、構われ過ぎるのを厭うタイプだ。葵で鍛えられたからか、立派な成人男性となった嫡子が家に帰らない程度で大騒ぎする軟弱メンタルの持ち主は、左大臣邸に存在しない。騒ぎにならないため、必然的に噂にもならず、一応は同じ家に暮らしていても、暁の動向は葵に耳にちらとも聞こえてこなかった。

 今一番、暁の様子に詳しいのは、たぶん光で。その光が言うのなら、兄は本当に、空き時間の消息が不明状態なのかもしれない。


「つまり……お兄様は、誰にも内緒で、密かに何処かへ、お通いということ?」

「私は、そうじゃないかなと思ったんだ。でも、周囲を窺ってみた感じ、誰も暁の異変に気付いていないようだったから。まずは、葵に聞いてみようかなと」

「いや~……申し訳ないけど、わたしも寝耳に水だった」

「それは、驚かせて悪かったね」


(明日にでも、福寿丸に確認してみないと)


 苦笑する光に笑みを返しつつ、葵は密かに考える。――口が固く、牛の扱いに長けていると、葵のお忍び専用牛飼童として、表向きは西の対、実際のところは密かに東の対で仕えてくれている福寿丸は、兄の腹心の従者だ。普段は東の対にいても、こまめに西の対と連絡を取り合っている。即ち、暁の現状も把握しているはず。


「あのお兄様が……世の中、思いもよらないことが起こるわね」

「まだ、私が勝手に邪推しているだけだよ。……でも、もしそうだとしたら、これが暁の初恋になるのかな」

「今までのお相手とは、義理と政略で結ばれていた関係だから……そういうことになる、わね」

「そうか。上手くいくと良いけれど」


 話しつつ、そろそろ、光の声が眠そうだ。そっと腕を伸ばして、彼の背中をトントンと叩くと、程なくして寝息が聞こえてきた。集まりの後だし、香りから察するにお酒も振る舞われたようだしで、疲れていたのだろう。……この世界、元服したら一人前としてお酒も解禁になるけれど、現代日本人の感覚だと十二歳でアルコール摂取は健全な成長発達の害にしかならないから、どうにか改めていきたいものだ。

 ――それは、ともかくとして。


(『アーカイブ』――)


 目を閉じ、心の中で、葵は前世の記憶ストックを呼び出した。呼び出して、膨大な量の中から、分かり易い『源氏物語』の解説書と、現代語訳を引っ張り出す。


(『源氏物語』でもかなり後の方の話だから、すぐ出てくるのはぼんやりとした概要程度なんだけど。『玉鬘』って『源氏』と何歳差だっけ!?)


『源氏物語』の中でもかなり優遇されているヒロインの一人、それが『玉鬘』だ。『光源氏』が若い頃に愛した女性の娘だが、彼の娘ではなく、女性が『光源氏』と巡り逢うより前に親しくしていた男性との間に設けた一人娘である。

 その『玉鬘』の母親こそ――『光源氏』が自分本位に愛した結果、非業の死を遂げる犠牲者第一号、『夕顔』。そして、彼女が産み落とした『玉鬘』の父親が、『光源氏』の親友である『頭中将』で。『光源氏』が『夕顔』と出逢った頃、彼女は諸々の事情により『玉鬘』を連れて『頭中将』の元から離れており……要するにあの巻は、現代でいうところのNTRを楽しむ仕様だったわけだが、それはまあ良い。

 重要なのは――『夕顔』は『光源氏』と出逢うより先に『頭中将』と親しくしており、娘を産んでいたという、この一点に尽きる。


(『玉鬘』の年齢、年齢……あった! 『光源氏』が『夕顔』を略奪した当時、おおよそ四歳! 主人公とは概ね十三歳差!!)


『源氏物語』に、主人公を含めた登場人物たちのはっきりした年齢は描かれていない。当時の風習により、何歳でだいたいこんなことをする、という決まりがあったから、数字として表さなくとも問題なかったのだろう。ゆえに、これは後世の研究者たちが、原典を読み込む中で推察した予想に過ぎないが。

 それでも、いくつかの資料が、ほぼ同じ数字を示しているのなら……作者の設定と、大きく乖離はしていないはずだ。


(十三歳差ってことは、『光源氏』が十三歳の頃に『玉鬘』が生まれたわけで。光は今十二歳だから、時期を考えるなら――)


 既に出逢って、恋仲になって。

 なんなら、お腹の中にもう宿っていても、全然不思議じゃないではないか。


(待って、待って。まさか……本当に?)


 だとしたら、のんびりとはしていられない。『夕顔』の悲劇は、『原作』知識を持つ者として、素通りできない案件なのだから。


(明日、福寿丸に確認して……場合によっては、すぐにお兄様を呼び出さないと)


 段取りを考えながら、葵は夢の世界へと旅立っていった。


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