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兄への疑惑*其の一


 ――葵と光が結婚してから、早いもので、あっという間に十ヶ月が過ぎようとしていた。


「ただいま、葵」

「お帰りなさい、光」


 今日も変わらず、宮中での管楽の集いとやらに呼ばれた光は、そこそこ遅い時間に帰ってきた。『原作』知識により知ってはいたが、週の半分以上が宴、なんちゃらの集いシリーズ、プラス宿直で宮中に留め置かれている光を見ていると、今上帝は左大臣家を尊重したいのか邪険にしたいのか、よく分からない。『原作』と違い、光がどれほど遅くなっても左大臣邸へ帰ってきてくれるから、まだ父左大臣の面目は立っているけれど。


「そういう意味では、ありがたいけどね……」

「何の話?」

「忙しい中でもあなたが我が家を尊重して、こんな風に毎日帰って来てくれるから、とてもありがたいな、って。宮中での催し物の後に、こうして帰って来るのは大変でしょう?」

「時間は確かに遅くなるけれど、私自身が大変ということはないよ。仕事が終わってすぐに帰るか、催しの後に帰るかの違いだけだから。むしろ、遅くまで待たねばならない葵に負担をかけてしまっているね」

「あなた、遅くなる日は必ず、何時頃帰るか予め教えてくれるから、わたしだって負担なんてないわ。教えてくれた時間からズレる時は、すぐ文をくれるし」

「迎える側も、通う側も、相手の予定を知っているのといないのとでは随分違うと、他ならないあなたが教えてくれたから」

「……確かに」


 光と会うため後宮へ通っていた頃は、見つかるとまずい事情しかなかったこともあり、互いの予定をこまめに擦り合わせる工程は必須だった。左大臣家の姫としてお稽古事などをこなさねばならなかった葵も、帝の子としてのカリキュラムが詰め詰めだった光も、実は忙しい身の上だったのだ。〝概ね平安時代〟なこの世界が、基本的に夜明けから正午過ぎの稼働時間であったため、主に会うのは午後の時間帯だったが、日によっては午後も予定が入っていたりして、慣れてないうちはどちらかが数時間、庭で待ちぼうけなんて展開が普通にあった。

 報告、連絡、相談――現代日本社会で大切と叫ばれている〝ほうれんそう〟は、現代でなくても大事であることの証左である。基本スペックの高い光は、過去に覚えた教訓を、こうして今でも実践してくれている。


 ――それはとてもありがたいが、葵の懸念はそこではなく。


「遅くなるのが大変じゃない、なんてことはないでしょう? 夜が遅いと、翌日の朝までの時間が短くて、ゆっくり休めないわ」

「まったく眠くない朝ばかりだ、とは確かに言えないけれど。宴だって毎日じゃないし、早く帰れる日は家でゆっくりできるから、さほど気にすることでもないよ」

「えぇ。早く帰れる日は、ぜひうちで休んで欲しいと思うのよ? けれど、宴で遅くなった日まで、わざわざ無理して帰ってこなくても。……せっかく主上から、桐壺を与えられているのだから」


 というか、『原作』の『光君』はそうしていたのだ。彼の場合、愛する『藤壺女御』のいる宮中から離れ難かった、というのが宮中泊まりの主な動機にはなるが。

 しかし、彼の恋愛事情はさて置くにしても、ここまで宮中での催しが頻繁だと、睡眠時間が短くなるという物理的理由から、翌朝即出勤できる 内裏に泊まるのは理に適っていると思う。現代リーマンだって、終業後の飲み会で終電を逃し、会社近くのネカフェに泊まることはままあるではないか(コンプライアンス重視の令和日本において、終電逃すまで社員を解放しない飲み会を開く会社は普通にブラックだから、ままあっては本来困るが)。

 ――と、単純に光の体調が心配で、葵はそう提案してみたのだが。


「宮中にあなたはいないのに、仕事以外で宮中に泊まる意味が分からないな」


 心配されている当人は、本気でよく分かっていないらしく、怪訝な顔で返された。……葵が変に現代的な価値観を吹き込んでしまったせいか、光は、結婚したら第一に優先すべきは妻だと、素直に信じ込んでいるらしい。齢十二にしてスパダリ街道を爆進しているが、本人的にはそれで良いのか。何度かそれとなく尋ねてみたけれど、いつも「私にとって、葵以上に優先すべきことなどないよ」としか返ってこないため、ひとまず様子見を続けている。


「そう。……なら、明日も早いし、すぐに休む?」

「そうだね、そうしようか」


 仕事着である黒の袍を脱ぎ、楽な単衣姿になって、光は御帳台へと向かう。彼が脱いだ袍が皺にならないよう形を整えて衝立に軽くかけ、灯りを消してから、葵も御帳台へ入った。……こういった身の回りのあれこれは本来女房の仕事だが、葵付きの女房が実質二名なのと、基本の価値観が現代日本人の葵に「時間外労働ダメ、ゼッタイ!」の精神が根付いていることが相俟って、光が遅い日の世話は葵担当だ。


「ありがとう、葵。全部任せてしまってごめんね」

「その気持ちがあれば充分よ。光がどうしても家事を覚えたいのなら、そのうち暇を見つけて教えるから」

「うん」


 身の回りのあれこれに関しては、結婚してすぐの頃、「女房がいないのなら、私もできることをするよ」と光も手伝おうとしたことがあったが、試しにお願いしたところ、ちょっと擁護できないレベルの不器用さんだったのだ。文武両道でできないことはないと評判の〝光君〟も、家事関連の腕前はイマイチらしい。『源氏物語』が描かれた当時の社会風習を思えば、労働などは下の身分の者がすることで、あくせく働くのは却ってはしたないとされていたわけだから、一流の風流人設定の〝光君〟に家事能力が備わっていないのは、むしろ当然なのだろうけれど。

 余談ながら、この〝概ね平安時代〟な世界でも、〝あくせく働くのは却ってはしたない〟という価値観に変わりはない。にも拘らず、葵が動くことを邸の誰も咎めないのは、『アーカイブ』関連で葵が飛ばす指示を理解できる人間が皆無だったからである。当時の葵がなるべく早く行動の自由を勝ち取りたかったのもあり、平安人にも理解できる言い回しを考えるより、実際に見本を示して分かってもらう手っ取り早さを重視した。そうして葵が生み出すものの有用性を認めてもらう度、行動制限は緩くなり、今ではありがたいことに、ほぼ何も言われなくなって――。


「姫様、それはさすがに左大臣家の姫君として許されません」と唯一突っ込んでくれるのが、事情を全て知る楓のみという、愉快な逆転現象が起きている。


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