六条邸にて*其の三
自身の転生チート(正しい意味で〝ずる〟である)が周囲から好意的かつ大仰に受け入れられている状況は、葵にとって大変座りの悪いモノだが、かといって安易に訂正できるわけでもない。
仕方なく、内心だけでため息と言葉を吐いておく。
(実際は、前世で一度インプットしたことはいつでも思い出せる、単なる記憶チートでしかないんだけれど)
それはそれで充分な特殊能力だが、話に聞く『異能』と同種の力かと問われると、どうも違うのではというのが葵の分析だ。先の東宮の〝神通力〟にしろ、和風ファンタジー的な陰陽術や妖怪あれこれにしろ、基本はこの〝世界〟の中で完結している。前世という、こことは別の世界の条理を持ち込める葵は、いわば『異能』からも逸脱した、この〝世界〟の異分子に近い。
(あくまでも、前世の〝私〟がインプットした記憶に限られるから、覚えてる分野に偏りだってあるしねぇ)
ハマったコンテンツの関連知識などを読み漁る系オタクだったこともあり、そこそこ幅広い分野の入門知識はあるけれど、深く知ろうとすればするほど「そんなことまで調べてない」壁にぶつかること数知れず。基本は文系だった前世の業もあり、理工学系への造詣は特に薄い。原始の世界でゼロから科学文明を築くマンガにハマり、奥付けにあった参考文献や監修者の書籍を一通り読んだ前世の自分のおかげで、かろうじて皮一枚繋がった。
「わたしの〝知恵〟など、本当に大したものでは……」
「謙遜が過ぎるわ、葵。あなたの〝知恵〟がくれた助言がなければ、私は桔梗を、これほど大事に育てられたとは思わないもの。確かに、あなたの〝知恵〟は万能ではないのかもしれないけれど、少なくとも子育てにおいて、あなたほどの妙者はいないでしょう」
「それは……この世界の子育ての常識と、わたしの得た〝知恵〟が大きく乖離していたがゆえの、いわば偶然の産物のようなものですし」
椿は特に、葵が持つ〝子育てへの造詣の深さ〟を評価してくれているが、これとて葵の前世が必要に迫られて得た知識だから、褒められるのは正直微妙だ。その道のプロフェッショナルなら胸も張れようが、〝彼女〟程度の知識、平成後期から令和の子育て経験者なら誰でも持っているだろうし。
――まぁ〝彼女〟の場合、母としてではなく(前世は未婚アラサーのまま死んだ)、歳の離れた弟妹たちを育てる中で得た知識ではあるが。姉だった〝彼女〟が弟妹子育ての中心だったことだけは、現代日本において珍しい方に分類されるけれど、その中で得た知識そのものは別に珍しくもなんともない。普通に本屋で売ってる子育て本やネットの集合知により、誰でも入手できる。
「偶然でもなんでも、そのおかげでわたくしは助けられたのよ。あなたの助言がなければ、わたくしは桔梗の子育てを乳母任せにしてしまっていたでしょうから」
「今の世では、それが通常ですものね。わたしとて、普段北の対に住んでいる母とは疎遠ですし」
「えぇ。でも、それでは親子の絆は育たない。母として桔梗との関係を築きたいのであれば、わたくしの方から関わらねばと教えてくれたのは、あなたよ」
「余計なお世話かとも、思ったのですけれど。椿様はあれほど桔梗様を大切にお思いでいらしたのに、世の慣わしで離れて暮らし、その思いが桔梗様ご本人に伝わらぬのは、双方にとって良くないと感じたまでですわ」
「我が娘とはいえ、あれほど幼い子と接した経験がなかったから最初は戸惑ったわ。そのときも、葵の仲立ちに救われたわね」
「幼い子は特に、人としてまだまだ未熟なことも多く、大人では理解が難しい行動を取ることもありますからね。とはいえ、本人たちにも幼いなりの理由はあるので、そこさえ汲み取れたら理解は不可能じゃありませんから」
「わたくしも桔梗と接する中で日々精進しているけれど、それでも未だに、幼子の理解度ではあなたに敵わないものね」
(……そりゃあ、こればっかりは経験値が違いすぎますし)
さすがに声には出せず、内心でそっと呟いておく。乳母をはじめとした女房たちと協力しながら桔梗一人を育てている椿と、高校生の頃からほぼワンオペで歳の離れた弟妹四人を育てた葵の前世では、〝子育て〟の質も層の厚さも何もかもが違う。末の妹の頃になると、一番最初に一番苦労して育てた弟が頼れる存在に成長し、何かと助けてくれたので、絶望しかないワンオペからは脱出できたが。
しかし、そうやって〝子育て〟に苦労した経験があったからこそ、光とも桔梗とも違和感なく接して仲良くなれたのだから、世の中なにが幸いするか分からないものだ。昔取った杵柄は人生をよく助けるが、葵の場合は前世も〝昔〟にしっかり含まれるらしい。
――意味深に笑った葵に何を思ったか、椿も面白そうに微笑んで、すくっと立ち上がる。
「さて。そんな頼れる理解者のあなたをあまり独り占めしてしまっては、桔梗に恨まれてしまうわ。そろそろ、あの子の部屋へ行きましょうか」
「椿様自ら、ご案内頂けるのですか?」
「もちろんよ。良かったら、ついでに邸の中も見て回る? あなたも夫を持って、室礼などにも気を配らねばならない立場になったでしょうし、参考になれば嬉しいわ」
「我が家の室礼に関しては、わたしが何か言うより先に父が張り切って取り仕切るので、今のところ楽をさせてもらっておりますけれど。こちらのお邸はとても明るい雰囲気で、見ているだけでも楽しい気持ちになりますので、見せて頂けるのであれば嬉しいです」
「まぁ、左府様ったら。今をときめく源氏の君を婿君に迎えられたのが、嬉しくて仕方がないのね」
くすくす笑って先導する椿に、今のところ寂しさの陰は感じられない。源氏の君――光のことも、葵の夫として以上の興味はないようだ。
「椿様は……御息所様でいらっしゃる以上、新たに婚姻なさることは難しくとも、恋人などをお持ちになるつもりはないのですか?」
歩きつつ、世間話のテンションで、軽く探りを入れてみる。『原作』で『光君』が『六条御息所』の元へ通うようになった経緯は不明だが、椿がこういう性質である以上、彼女に恋をするつもりがなければ、そもそも言い寄られたとて受け入れはしなかっただろうから。
少し警戒して椿の返事を待つ葵に返ってきたのは――。
「あなたらしくもない問いね、葵」
呆れたような、椿の笑み。目をぱちくりとさせると、声を上げて笑われた。
「子の育ちにおいて、母親の精神状態は大きな影響を与えると、わたくしに教えてくれたのは葵でしょう。宮様との結婚生活の中で、恋が幸せで穏やかなばかりのものでないことは、重々知っているつもりよ。――桔梗が一人前の女人になって、わたくしの手を離れるまで、あの子の育ちにとって悪影響となりかねない道に走るつもりはないわ」
「そ、う……なの、ですね」
「わたくしが六条へ移ったと、耳ざとく聞きつけた何人かから恋文が送られてきたけれど、女房に命じて全て返しているし。そもそも、夫を亡くしてまだ間もない上、幼い娘を育てている女に迫ろうという時点で、ろくな公達ではないわ」
「それは、本当にそうです。兄や夫の話を聞くにつけ、わたしなどでも名を聞くほど評判の殿方も、蓋を開けてみれば嫌がる女人に無理やり迫ったり、契りを結んだ相手をろくに構うことなく打ち捨てたりと、マトモな方がおりませんもの」
「本当にね。ところが、そういう方ほど、世間では恋の妙手としてもてはやされているのよ。わたくしのところへ来た恋文のうち何通かとて、顔も良くて口説き上手と後宮でも人気で、恋人になりたいと若い女房たちが噂している公達からのものだったしねぇ」
「あらあら。椿様に恋文などと浮かれた振る舞いをされている時点で、噂ではもてはやされていても、真っ当な気遣いのできる方ではございませんね」
葵の相槌に、前を歩く椿もうんうん頷いている。六条は椿と桔梗の邸で、仕えているのも女房ばかりの女の園だ。男性が居ないからこその容赦ない批評に、室内で控えている女房たちがくすくすと遠慮なく忍び笑いを漏らしているのが聞こえ、葵は心底、ほっとした。
――大丈夫だ。『原作』と違い、ここには人の心を〝呪い〟へと追い詰める、暗い気配は存在しない。
『六条御息所』が『葵の上』を呪うまで、『原作』時間であと十年ほどあるので、油断はできないけれど。邸の空気をこのまま維持できれば、仮に椿が精神的に追い込まれるようなことがあったとしても、桔梗が、女房たちが、彼女の力となってくれるだろう。
そして当然、葵も。椿に何かあれば、必ずできる限りのことをする。『源氏物語』云々は関係なく、目の前にいる椿が大好きで、大切なお友だちだから。
「椿様のお話を伺う限り、世間で恋の達人とされているような、顔が良くて口の上手い殿方は、却って信用なりませんわね。そういう方々は結局、女人を口説いてその気にさせるのが楽しいだけで、心の底から相手を愛おしく思っているわけではないのでしょう。女の方も遊び程度の気持ちなら問題ありませんが、本気になるだけ馬鹿馬鹿しい、軽薄な男ということです――」
明るい日差しの中、女たちの軽やかな笑い声が、六条邸にこだまする――。




