六条邸にて*其の二
「……おかあさま? 葵さまが、おいでなの?」
椿と話していた最中、不意に、奥から可愛らしい声が聞こえてきた。「あらあら」と椿が振り返ると同時に御簾が揺れ、乳母に抱かれた幼女がやってくる。
先の東宮と椿との間にできた娘――『源氏物語』において、やがて『伊勢斎宮』となり、最終的に『秋好中宮』と呼ばれるようになる皇女だ。父である先の東宮によって与えられた幼名を、桔梗という。
「こんにちは、桔梗様。お邪魔しております」
「いらっしゃいませ、葵さま。おかあさまといっしょに、葵さまがあそびに来てくださる日を、心まちにしておりました」
「まぁ。少しご無沙汰している間に、ご挨拶がお上手になりましたね」
乳母に降ろされてすぐ、とてとて近づいてきた愛らしい姫を、にっこり笑って膝の上へ抱き上げる。ませた挨拶ができるようになった彼女の髪を撫でて微笑むと、桔梗は周囲まで明るくするような、満面の笑顔を見せてくれた。
「でしょう? おかあさまに、おしえていただきましたの。わたしも葵さまのように、りっぱな女人になりたいと申しましたら、『まずはあいさつから覚えなさい』と」
「それはとても良いことです、桔梗様。わたしが立派な女人かはともかく、桔梗様のお母様はまさに、並びようもなく優れたお方ですから。お母様の導きに従えば、きっとご立派になれましょう」
「はい。おかあさまと葵さま、お二人のおしえを学んでまいります! そうだ、これも……」
そう言って、袂から真新しい人形を取り出した桔梗は、女房たちに教わってお人形の衣を縫ったのだと、誇らしげに話す。確かに拙い縫い目だが、初めて針を持った四歳児が、真っ直ぐに縫えているだけ大したものだ。心の底から感心して「お上手です、桔梗様」と返せば、桔梗は膝の上で嬉しそうに頬を上気させ、斜め前に座っていた椿に感嘆の目を向けられた。
「相変わらず、幼子の相手をさせたら天下一品ね。あなたがもう少し下の身分であれば間違いなく、敏腕乳母として方々から引っ張りだこだったことでしょう」
「わたしにとっては、当たり前のことをしているだけなのですけれど……」
「少なくとも今の世において、あなたの幼子への対応は〝当たり前〟じゃないわね。わたくしは、あなたの助言に従って育てた桔梗が、これほど優れて成長するのを目の当たりにしているから、それが〝正しい〟と思えるけれど。子育てに疎い殿方が聞いても、一笑に付すだけよ」
膝の上の桔梗は、まだまだ話したいことがありそうな雰囲気だが、母と葵の話が始まったのを見て、賢く口を閉じている。葵は少し笑って、「桔梗様、後でたくさん遊びましょうね」と声を掛け、寄ってきた乳母に預けた。抱き上げられ、「では、あちらでおまちしております」と頭を下げる様も、周囲の大人の姿をよく見ているのだなぁと微笑ましい。
――そうして、去っていく桔梗を見送ってから、葵は少し苦笑した。
「子育てに正しいも間違いもありませんよ、椿様。わたしはただ、幼い子どもが健全に育つに必要な事柄を〝知っている〟だけですから」
「いつ聞いても特殊な力ね、あなたの『異能』は。その力で、いったい何処の知恵を覗いているのかしら」
何処というか、単なる前世の知識だが。その辺を細かく説明すると話がどんどんややこしくなるし、下手な相手に知られたら最後、悪用されかねないのも予想がつくので、葵は未だに前世のことは楓以外に話していない。
「逆にわたしは、それほど大袈裟にこの知識を捉えられることに驚きましたわ。実家では当たり前に披露していることですし、両親も兄も、知識の内容に驚きこそすれ、普通に受け入れてくれていますから」
「それは、あなたのお父様が左府様で、お母様が主上の妹宮様でいらっしゃるからよ。お二人とも『異能』のことはよくご存知で、『異能』持ちにとって力を封じられることに勝る苦痛はないと、理解しておいでだから」
「わたしは教えられませんでしたが……」
「みだりに教えられることでもないからね。わたくしとて、きちんと教わったのは嫁いだあとで、それも夫となった先の東宮様が分かり易い『異能』をお持ちだったからこそだし」
この〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟な世界における、最大の〝違和感〟が『異能』だ。前世の記憶が蘇ってからも、ここが『源氏物語』の世界なのだという先入観が先に立ち、さりげなく散りばめられている和風ファンタジーな世界観については、触れることのないまま過ごしてきた。八歳からは基本、左大臣邸と内裏の往復しかして来なかったせいで、そういうものに触れる機会が皆無だったともいう。
「はじめて、先の東宮様の『異能』を目の当たりにしたときは、大層驚きました……」
「わたくしもよ。あの方の〝神通力〟が見通せるものは、群を抜いていたから」
椿の話し相手として梨壺へ上がるようになってしばらく、たまたま政務の間に戻ってきた先の東宮に、「これは、また特異な魂の姫君もいたものだね」と初対面で言われた衝撃を、葵は今でもはっきりと覚えている。
「奇妙な縁だが、椿にとって悪いものではない。むしろ、とても良いものだ。あなたの勇気に、感謝するよ」――そう言って穏やかに笑った彼は、確かに並でない気配を纏っていた。そこで葵は初めて、この世界には人智を超えた『異能』なる力があること、妖や物の怪は単なる気の迷いでなく本当に存在すること、力を宿した神使や僧侶の加持祈祷はプラセボ効果でない確かな効き目があることなどを知ったのだ。
ちなみに、その話の中で必然的に葵の〝魂〟にも触れられ、まさか前世の記憶持ちですとは言えず、家族に告げた内容と同じ、〝身の回りの物事に触れたとき、不意に未知の知恵が浮かぶことがある〟というふんわりした説明をする羽目になった。それも『異能』の一種で、それからは葵がたまに変なことを口走っても、その力ゆえと解釈されるようになって、諸々やりやすくなり結果オーライであったが。
「先の東宮様のお力と比べますと、わたしの知恵など物の数にも入らぬと、いつも思います」
「それはまた、別の話よ。あの方は、この世の全てを見通せていたけれど、神々の知恵まで覗けはしなかったもの。この世のものではない、未知の〝知〟を得られるあなたの『異能』もまた、貴重で特別なものだわ」
椿と、梨壺にいた頃から彼女に仕えている側近女房たちの中で、葵の『異能』は〝神々がその時々で必要な知恵を授けている〟――要するに、ちょっと変わった〝神託〟のようなものと、捉えられているらしい。葵が前世知識や原作知識を遠回しに告げるのを『託宣』呼びする暁の言動からすると、家族の認識も似たり寄ったりなのだろう。




