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六条邸にて*其の一


「葵、結婚おめでとう。あなたが人妻となるなんて、時の流れは早いものね」

「ありがとうございます、椿(つばき)様。まさか結婚する日が来るなんてと、わたし自身が一番驚いておりますわ」

「……そこに驚く意味が、個人的には分からないけれど。あなたの身分で夫を持たない選択なんてあるの?」

「それは、ホラ。自分で言うのもアレですが、わたし、普通じゃないので」

「そんなことを言い出したら、世の『異能』持ちは全員結婚できないわよ」


 光と結婚して、そろそろ一月が経とうかという頃。何かと慌しかった身辺もようやく落ち着き、結婚前と大きく乖離しない日常が戻ってきたのを見計らって、本日、葵はこっそり邸を抜け出し、とあるお宅を訪ねていた。


「色々と慌ただしさが重なり、お引越しのお手伝いが中途半端になってしまいましたが……見たところ、六条での暮らしにも馴染まれているようで、何よりです」

「一宮様の東宮宣下から元服、それが落ち着いたと思ったら、源氏の君の元服とあなたとの婚姻だものね。あなたも随分と、忙しなかったことでしょう」

「左大臣家に生まれつくとはこういうことかと、しみじみ実感いたしました」

「分かるわ。――わたくしも、先の東宮様への輿入れが決まった当時は、似たような思いに駆られたものよ」


 先の東宮――今上帝が即位した当時、東宮に立てられた、腹違いの弟宮のことだ。葵の母である桜にとっても、異腹の弟に当たる。時勢を見て、そんな彼の妃に選ばれたうちの一人が、目の前の彼女、椿であった。

 先の東宮とは仲睦まじく、入内して間もなく娘をもうけ……先の東宮の薨去に伴って後宮を下がり、六条にある邸に住まう彼女を、世の人々は〝六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)〟と呼ぶ。

 そう。彼女こそ、『源氏物語』において『葵の上』を呪い殺す張本人、『六条御息所』に当たる人物なのだ。


「源氏の君は、いっそ不吉なほどお美しく、何事においてもできぬことはない、文武両道の完璧なお方と聞くわ。表向きの評判だけなら、あなたの夫として不足はないように思えるけれど……実際のところは、どうなの?」

「不吉というより、見た人を気後れさせる類の美形ではありますね。送られてくる歌も洒落ていますし、お話しした感じ、漢学への造形も深いように思います。〝武〟の領分は見たことがないので分かりませんが、〝文〟が優れておいでなのは確かかと」

「夫としては、どう? ……訪ねてもらっておきながらこんなことを言うべきではないと分かっているけれど、妻の昼間の外出に気付かぬ程度には、家を空けているのでしょう?」

「仕方ありませんよ。主上は源氏の君を殊の外大事にされていて、成人された彼が宮中で居心地良く過ごせるよう、何かと気遣っておいでなのです。光君のため、主上が催される宴席に、まさか当人が出席しないわけには参りませんもの」


 光の父帝が親馬鹿ぶりを遺憾なく発揮し、空気を読まずに新婚ホヤホヤの息子を宮中へ引き留めまくるのは『原作』まんまの展開なので、葵に思うところはない。――むしろ『原作』と違い、こっちの光が宮中での宴後、どれだけ遅くなろうと左大臣邸に帰ってきて葵の隣で寝ることに戸惑っている。今のところ、彼が宮中に泊まり込むのは、宿直(とのい)の当番のときだけだ。

 それでも、宴がある日に遅くなるのは変わらないため、彼の大体の帰宅時間を把握できれば、こうして外出もできるわけだが。


「それなら、源氏の君は今のところ、あなたにとって良い夫なのね?」

「そう……ですね。えぇ、大切にして頂いております」

「はっきりしない言い方ね、もう。あなたのそういう、自分事となると途端に興味が薄くなるところが、わたくしとても心配だわ」

「そのような……椿様にはいつも、過分なほどのお心遣いを頂いて、ありがたい限りです」

「当たり前でしょう。あなたがどれだけ、わたくしたちを助けてくれたと思っているの?」


 朗らかに笑う椿に、今のところ、『原作』のような憂いは見当たらない。葵は内心そっと、安堵の息をつく。


 ――二年前、藤壺女御の入内を機に光から離れた葵は、呪殺ルート回避のため、大きな賭けに打って出た。悪役令嬢モノあるあるの破滅フラグ回避策、〝死亡の直接原因となる相手と仲良くして、死亡フラグをへし折っちゃおう大作戦〟を決行したのだ。〝直接原因をひたすら避けまくる〟と並ぶ、二大王道手段の片割れである。『源氏物語』における『葵の上』と『六条御息所』の直接接触はゼロに近い(葵祭での車争いを除く)ため〝ひたすら避ける〟はそもそも無意味で、取れる作戦が〝仲良くする〟一択だったと言った方が正しいか。

 当時は東宮妃だった六条御息所――椿と、主に兄のコネを使って接触。運の良いことに、その頃の椿が女房とは違う、対等な立場に近い存在の話し相手を求めていたこともあり、東宮妃の話し相手として後宮の梨壺へ呼ばれるようになった。こういうとき、今上帝の姪で左大臣の娘という肩書は強い。

 そうして、実際に顔を合わせてみれば――。


「あなたがいてくれたから、わたくしは、あの息の詰まる後宮でも、笑って過ごせたのよ。わたくしもだけれど、宮様も、あなたにはとても感謝していらしたのだから」


 高貴な姫君に相応しい品格を持ちながら、他者への心配りを忘れない気立ての良さがあり、信頼した相手へは惜しみなく情を注ぐ――椿は、とても魅力的な女性だった。人柄だけでなく、宮中の様子や世の中広くに目配りを欠かさず、理知的に物事を客観視する姿勢は、さすが東宮妃に選ばれただけのことはあると尊敬せずにいられない。


「もったいないことです。わたしこそ、宮様や椿様には、多くのことを教わりました。あの頃、椿様のお話し相手として選ばれた幸運を、未だに噛み締めておりますわ」

「そう言ってもらえるほどのことをした記憶はないけれど。宮様はともかくわたくしは、あの頃、とにかく余裕がなかったから」

「入内後、それほどの間なく身籠られたことで、椿様にかかった期待は並大抵ではなかったと聞き及んでおりますし……結果的に姫君だったとはいえ、東宮様のお子を早々とご出産されたことで、次こそ皇子をと周囲に思われたのでしょう? そのような環境下で余裕を保つのは、いっそ何も考えないくらいの図太さがないと無理です」

「今だからこそ、そう思えるけどねぇ」

「渦中の当事者となりますと、なかなか難しいですよね」


 当時を振り返り、椿と二人でうんうん頷き合う。そんなこんなで東宮妃だった椿が鬱一歩手前まで追い詰められ、気分転換のためにと密かに話し相手が募集され、その情報が暁経由で飛び込んできて、渡りに船とばかりに立候補したのだ。

 呪殺ルート回避のためという、いわば下心満載で始まった関係だったが、ほどなく椿の人柄に惚れ込んだ葵は、いつしか未来云々は関係なく、ただ椿に会うため、梨壺へ通うようになった。ちなみに、非公開とはいえ公募に則った正規のお役目だったので、この件は兄だけでなく両親も知っている。東宮の座所である梨壺と光が暮らしていた桐壺は目と鼻の先だが、梨壺に通っていた葵は左大臣家の姫としてきちんと遇され、几帳で囲まれ姿が見えないよう配慮されていたため、すれ違ったとしても光に気づかれることはなかっただろう。


「とはいえ、主上のお子と婚姻を結んだ以上、これからはあなたこそ〝渦中の人〟となるのだけれど。無理はしていない?」

「今のところ、特に大変なことはありませんわ。椿様と違い、わたしは婿となった源氏の君をお迎えする立場ですから、結婚前と大きく生活形態を崩さず済んでおりますし」

「それでも、ほぼ初対面の相手と新しい関係を築いていくのに、気疲れしないはずないもの。葵は他人を気遣いすぎるところがあるし、くれぐれも頑張りすぎないようにね」


 椿の温かい言葉に、葵は微笑んで頭を下げた。――出会った頃から、互いの状況は大きく変わったのに、椿のこういうところは変わらない。

 梨壺に通い、椿と仲良くなり、先の東宮とも顔見知りになり……彼が早逝することは原作知識で知っていたため、どうにか回避できないかと力を尽くしてみたけれど、『アーカイブ』があるだけで医者でも何でもない葵にできることは限られていた。結局、死に際の苦痛を和らげる程度のことしかできず、今上帝の一宮が新たな東宮となるのに合わせ、後宮を下がることになった椿に寄り添って。

 それすらも……葵の周辺が慌ただしくなるにつれ、半端なまま終わってしまったのだ。

 不義理を詫びる文しか出せなくなった葵を、自身も辛い中、椿は変わらず気遣ってくれる。


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