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少年の追憶*其の三




 そして、二年後。光は、自身の想いを明確な言葉にしなかったことを、心の底から後悔することとなる。


「……これで、〝偽紫〟の出番も終わり、ね」


 光の亡き母、桐壺更衣と瓜二つだという、藤壺女御が入内したのだという世間話をした、あの日。

 どこか遠くを――ここではない〝どこか〟を見つめてそう呟いた葵からは、これまで彼女が見せたことのない、複雑な感情が漏れ出ていた。喜びとも哀しみともつかない、様々ないろの感情が。

 それは、これまで頼れる年長者の振る舞いしか見せてこなかった彼女が唯一、光に預けた〝葵自身〟の心であり――。


「――葵?」


 去り際の最後まで、綺麗な微笑みを崩さなかった彼女が残した、たった一つの〝手がかり〟となったのである。




 あの日から、幾日待っても、葵の姿が桐壺の庭に現れることはなく。

 葵を探して庭を彷徨う日が百を超えた頃、光はついに、待つのをやめた。


(葵のことを何も知らないと……葵が後宮に通うのを辞めてしまえば、私たちの繋がりは切れてしまうと、わかっていたのに。彼女がくれる優しい時間に甘えて、私自身が二人の仲を続ける努力を、何もしてこなかった。そんな体たらくだったから、もう葵は、私のことなど嫌いになってしまったのかもしれないけれど。それでも、私はどうしたって、葵と生きることを諦められない)


 希望は、あった。あの日――最後の日に、彼女がくれた〝偽紫〟の心。そこに喜びしかなければ、光と心底離れたかったのだと絶望するしかないが、あのときの彼女からは確かに、この時間を惜しみ、離れ難く思う心が感じられたのだ。もしもあの時間が、光だけでなく、葵にとっても大切なものであってくれたなら……何年かかろうとも絶対に彼女を探し出し、その手を取ってみせる。

 そう決意し、惟光をはじめとする信頼できる者に葵のことを打ち明け、方々を探して。女人が一人で出歩けるということは、やはりそう身分が高いわけではないだろうと、主に中流層、桐壺の女房たちの縁者を中心に捜索の手を広げたけれど、葵らしき姫の話は一向に聞こえてこなかった。

 そうこうしているうちに、季節は巡り――。


「光。近々、そなたの元服の儀を執り行おうと考えている」


 ある日、父帝に呼び出されて告げられた内容に、そういえばそんな時期か、と他人事のような感想を抱いた。皇族男子の元服は、概ね十二歳前後に行われるのが慣わしである。昨年、二つ年上の兄宮も元服していた。

 とはいえ、光は葵が居なくなったことで世俗の全てへの関心を失い、この二年の間に起きた叔父東宮の早すぎる薨去(こうきょ)も、それに伴う兄宮の東宮宣下も、殊の外立派だったと評判の兄東宮の元服も、「そんなこともあったなぁ」程度にしか捉えていないが。兄東宮の後ろ盾である右大臣と弘徽殿女御は光を目の敵にしているらしいが、邪魔するつもりは微塵もないので放っておいてほしい。

 光の興味関心の十割は葵で占められており、葵以外の世俗事は全て些事だ。亡き母の忘れ形見なのだからと光を盛り立てようとしてくれている父帝には申し訳ないけれど、権勢を得ることに興味はないし、誰が国の舵取りをしようがどうでも良い――。


「それで、だな。元服に合わせ、添臥役が左大臣家の大君と決まった。これも縁だろう、そのまま姫君を娶り、左府を後見としてはどうだろうか」


 ……どうでも良いと思っているところに、これである。右大臣側から決して良く思われていない自分を守るための父帝の心遣いだと、さすがにこの歳になれば光も推察できるけれど、残念ながら光は、自己保身で顔も知らない姫君と結婚するつもりはない。

 清涼殿の御簾向こうには、どうやらこの話のために控えているらしい、左大臣の姿が見える。光は父帝に直接返事はせず、すっと御簾の方へ視線を滑らせた。


「左府殿は、どのようにお考えなのですか。左府殿の北の方は確か、父上と同腹の妹宮でいらしたはず。妹宮からお生まれになった姫君ともなれば、さぞかし大切に育てられたことでしょう。私のような者と娶せるなど、姫君の方こそ不本意でいらっしゃるのでは?」


 左大臣家の姫君が、兄東宮の妃として入内を望まれていることくらい、後宮にいれば嫌でも耳に入る。左大臣とて、公卿の頂点にある者として、娘が女御となり、将来の帝となる男児を産む栄華を一度は望んだはず。父帝と同腹の妹宮が産んだ従姉妹姫なら、身分も育ちも申し分ない。何なら、本人も周囲も入内するつもりでいる可能性すらある。

 かなり遠回しではあるが、お断りの意向を述べた光に対し、父帝は難しい顔になり――。


「……いやぁ。それが、ですな」


 御簾の向こうからは、奥歯にものが挟まったようにはっきりしない、左大臣の言葉が返ってきた。


「まず、添臥の件に関しましては、娘も了承しております。宮中の勢力図を鑑みるに、源氏の君の後見には我が家がつくべきだろうとも、申しておりました」

「……は、ぁ」


 随分と理知的な印象の姫君である。公卿家の姫君ともなれば、ある程度宮中の現状は把握しているものだろうけれど、父親相手に堂々と意見を述べるほどとは。


「それで……肝心の、婚姻についてなのですが。結論から申しますと、その、源氏の君次第かと」

「……どういうことです?」

「娘曰く、『このお話が主上のご意向によるものであることも、宮中の勢力均衡を保つためには最良であることも、承知しております。しかし、心の通わぬ婚姻は、長い目で見て不幸しか生みません』――だそうで」


 ……何だろう。目の前の状況を理性的に判断して、その上でなお、当事者の〝心〟を最重要視する、その言動には強い既視感がある。


「つまり、娘の考えとしましては――『源氏の君がわたしをお気に召さないようであれば、婿として我が家へお招き遊ばすことは、どうかお控えくださいませ』と、そういうことでして。あの子がああ断言した以上、婚姻の是非は源氏の君が娘を気にいるか否か、それが全てにございます」

「……東宮へ差し上げようとは?」

「あぁ、それはありません」


 御簾の向こうで、左大臣が右手をぶんぶん振る。


「父親の私が言うのもなんですが、娘は公卿家の姫として、相当に型破りでして。姫君らしい振る舞いは一通り仕込みましたので、表面上を取り繕う分には問題ありませんが、とても奥仕えなどさせられません」

「……そうなのか? そなたいつも、自慢の娘だと鼻高々ではないか」

「私にとっては大の自慢ですが、世間並みかどうかとなりますと、話はまた別です。あまり大きな声では言えませんが、葵はまぁ、色々な意味で外へ出せる娘ではなくて」

「――〝あおい〟?」


 左大臣がぽろりと溢した一言が、光の琴線を強く鳴らした。明らかに様子の変わった息子に父帝が息を呑むのにも構わず、光は身体ごと振り向き、御簾を挟んで正面から左大臣と向き合う。


「〝あおい〟というのが、姫君の名ですか?」

「えぇ、幼名です。生まれたのがちょうど葵祭の頃でしたので、ちなんで〝葵〟と。名付けが良かったのか、一度大きな病を得た他は問題もなく、すくすく育ってくれまして」

「確か、姫君は私より少しお歳が上でしたね?」

「源氏の君とは、四つほど離れております。昔から年齢不相応なところがありましたので、あまり歳の頃を意識したことはありませんが」

「その……話しづらいことかもしれませんが、先ほど左府殿が仰っていた、『公卿家の姫として型破り』とは、具体的にどのような……」

「あぁ……そうですね、どうご説明しましょうか……」


 左大臣が空中に視線を彷徨わせるのを、もどかしく待つ。先ほど覚えた既視感といい、姫君の〝名〟といい、年齢といい――。

 まさか、と思う。そんな奇跡があるのか、とも。

 けれど。もし本当に、天が味方してくれるなら――!


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