少年の追憶*其の二
光にとって、葵は歳上の幼友だちであり、姉にも近い存在であり……変な話だが、母のように慕う相手でもあった。帝の子として複数の乳母が付いてはいたが、昔から葵には、どれだけ甘えても許されるような、独特の抱擁感があったのだ。それは、あくまでも仕事として光に付き従う立場の乳母たちでは決して醸し出せない、〝母の愛〟に似た何かだったのだろう。
そんな彼女を〝異性〟として意識した最初の瞬間も、鮮やかな思い出として、光の中で輝いている。
「え……葵、なのか?」
「えぇ。――なんだか随分と久しぶりに思えるわね、光」
珍しく、葵が数日続けて、庭に現れないことがあった。これまでもないわけではなかったが、「家の用事で、明日から数日は来られないと思う」と予め告げてくれていたのに、今回は前置きがなかったから、余計に長く感じられて。
ましてや――。
「どう、かしら? 自分でも、まだ慣れないのだけど……変じゃない?」
先日までの、振り分け髪に束髪だった髪型が、鬢批を終えた成人女性のものになり。
纏う装束も、女童のものから、小袿姿となっている。
――出逢った頃から美しかったが、大人の姿となり、さらに垢抜けた美麗さを纏った幼馴染が、そこにいた。
「……い、だ」
「光?」
「きれい、だ。葵……とても、きれい」
「そ、そっか。ありがとう」
あなたみたいに綺麗な顔の子に褒められると照れるわね、などと言って視線を外して顔を逸らす様も、どことなく優美で洗練されている。これまで意識したことはなかったが、成人姿となった葵は、光の側に控える女房たちとは比べようもなく、父帝の女御たちと見比べても遜色ないほど、高貴な気配が漂っていた。
(このひとは……誰だ)
初めて、葵の素性に対する疑問がよぎった。気付いたときにはすぐ近くにいて、嬉しいときも悲しいときも寄り添ってくれた、優しいひと。帝の子である光に気後れすることなく物事を教え、人として間違いがないよう導いてくれた、聡明なひと。
けれど、葵はいつも、後宮にいるわけではない。出逢って割とすぐの頃、「わたしは内裏に仕えているわけではないから、会える時間は限られているの。光が遊べる時間を教えてくれたら、それに合わせて会いに来るわ」と伝えられた。「内裏にもこっそり入り込んでいるから、できたらわたしのことは秘密にしておいて」とも。
内裏に仕えているわけでなく、これほどの頻度で通えているのなら、自由に出歩ける身軽な身分の者であるはずだ。しかし、それにしては、目の前の彼女が纏う空気は高貴が過ぎる。
(あなたは、誰で……どうして、私と一緒に、いてくれるの)
瞬間、湧き上がったのは、強烈な焦燥感と飢餓感だった。自分は葵のことを名前以外何一つ知らなくて……裳着を迎える年齢だったことすら今知ったほど何も知らなくて、この関係は、葵の厚意一つで成り立っているのだと、このときようやく理解したのだ。
知らない。知りたい。葵のことを、誰より深く。
葵と過ごすこの時間が、何よりも大切だから。いとおしく、思うから。
葵を――目の前のこのひとを、失いたくない。
孤独だった光の前に現れた、友であり、姉であり、母ですらあった――夢のごとく、あまりにも光にとって都合の良すぎる少女。
けれど、彼女は夢の存在ではない。成長もすれば、成人もして。この先も彼女自身の人生を歩み続ける、光とはまったく別の、生きた女性なのだ。
その、彼女自身の人生に……今の光は、関われない。
(いや、だ――!)
これからも葵と、同じときを過ごしたい。葵が光を見つけて手を伸ばしてくれたように、光だって葵の人生に手を伸ばしたい。
目の前の少女にだけ感じる、胸の内から溢れ出て止まらない、切なくも熱いこの〝想い〟は何なのか――。
頭で理解するより先に、身体が動いていた。
「葵――」
衝動的に、引き寄せて。その艶やかな唇と、己の唇を触れ合わせる。
幼さゆえの、無知ゆえの行動だった。しかし、あのとき感じた衝動を――〝恋情〟を示すには、もっとも適切な本能的行為でもあった。
「な……っ、に、してるの!」
とはいえ、人として、男としては最低のさらに下を割る振る舞いであったこともまた事実。突然の口づけの衝撃から立ち直った葵は、これまで見たことがないほど、激怒していて。
「大人になった葵があまりに綺麗だから……したくなった」
「はぁ!?」
「美しいひとに心惹かれて、同じときを過ごしたいと思ったら、こうして求めるのでしょう?」
「……念の為聞くけど、どこで覚えたの、そんなこと」
「どこって……父上が閨で、女御様にそうしているよ?」
「――クッソ平安時代のユルガバ貞操概念が憎い!!」
感情が昂ると、葵は聞き慣れない言葉を使う。「原作じゃサラッと書かれていたけど、まさか閨の事情まで事細かに知れるほど近くに子ども寝かせてるとか思わないし……!」「これはさすがにアウトだから、どうにかお父様へ知らせて、帝に改めて頂かないと」などぶつぶつ呟いてから、葵は作ったとよく分かる満面の笑みを向けてきた。
「いーい、光。今から大事なことを言うから、よーく覚えてね?」
「あ、あぁ」
「女性に触れるときは、ちゃんと相手の同意を得ること! 嫌がってる相手に、無理やり迫ったりしないこと! これ、人として最低限の礼儀だからね!?」
「そ、そうなのか? だが、後宮で、嫌がっている女房に迫る公達を、これまで何度も見かけたぞ? 『少し強引な方が女は喜ぶ』なんて言っている者もいたが」
「これからは、『わぁ、最低限の礼儀も知らないダメな大人だー』って冷たい目でも向けてあげて? 嫌よ嫌よも好きのうちとかないから、マジで。女性が嫌がってたら、それは大抵の場合、本気で嫌なの」
「な……なるほど」
「人が嫌がることはしちゃいけない、って教えたでしょ? そんなことしたら、嫌われこそすれ、好かれることはないわ。将来、心から好きになって、妻にしたいと思うひとに出逢えても、求婚の仕方を間違えてお相手に嫌われたら、困るのは光よ?」
具体的に、分かりやすく教えられて、腑に落ちると同時に自らの盛大なやらかしを知る。――将来も何も、心から好きになって、妻にしたいと思っている相手は、現在進行形で目の前にいるではないか。
その相手に自分はついさっき、同意なく口づけ、こうして怒らせているわけで。
「す、済まなかった、葵!」
「は?」
「あなたの気持ちも確認せず勝手に触れて、嫌な思いをさせた……!」
「……あー、あぁ、うん、そうね?」
「ごめんなさい、どうか嫌わないで……!」
謝っているうちに、本気で泣きそうになる。葵に嫌われたら、もう二度と会いたくないと思われて通うのを止められたら、光はこの先を生きていける気がしない。見えている世界は色を失い、世の大半のことが、心底どうでもよくなってしまうだろう。
――齢八つにしてそこまで思い詰めたわけだが、その後の自分を振り返れば、あのときの危機感は正しかった。誇張でも何でもなく、葵が居なければ、光は己の生に意味を見出せない。
「……もう、そんな情けない顔をしないの。心配しなくても、さっきのことであなたを嫌ったりしないわ」
「ほ、本当?」
「あなたがどれだけ一般常識に疎いか、わたしはよく知ってるからね。さっきだって悪気があったんじゃなく、お父君の振る舞いから間違って覚えちゃっただけって分かるし」
「あ、あぁ、そうだ!」
「――ただし、あんなことはもう絶対、二度と、しちゃダメよ?」
「もちろん。もう二度としない」
次にするときは、ちゃんと葵の同意を得て、心が通い合った状態でしたいと思う――。
浮かんだ言葉は、伝わったと思い込んで、音にはしなかった。




