少年の追憶*其の一
――あの日、あの箱庭で彼女と巡り逢ったあの瞬間、彼の宿命は大きく動き出した――
まだ日の上らない夜明け前、一番鳥が鳴くより早くに左大臣邸を去り、父帝が用意してくれた亡き祖母の邸にして母の里でもある二条邸へと帰ってきた光は、寝直す時間も惜しいとばかりに黒色の袍を用意させ、宮中へ参内する準備を整えていた。
「張り切っておいでですね、若様」
帰ってからこっち、あれはどこだ、これはあるかと光に振り回されていた惟光に、ようやく準備が一息ついたと判断されたか、苦笑気味に声を掛けられる。今になってようやく喉の渇きを覚え、惟光に白湯を頼むと、「そう思って、女房に申しつけておきましたよ」とできる男の返事をされた。光より二つほど歳上で、物心つく前から一緒に育ってきた乳兄弟の惟光は、肉親の情に薄い光にとって、兄であり親友であり、もっとも心許せる従者でもある。
「昨夜、内裏をご出発されるまでは、この世の終わりのごとく青ざめておいででしたから、姫君のお心を掴む算段すらつかないのかと、心配しておりましたが。そのご様子ですと、万事滞りなくお済みのようで」
「あぁ。葵は私の話を聞いて、『これまで一度も嫌ったことなどない』と最高の返答をくれた。あれほどの愚行を許してくれるとは、やはり彼女こそ私の運命、唯一無二の女神に違いない」
「添臥の儀の進行を妨げられるのは、選ばれた姫君にとって最大の侮辱と聞きますからね。誠心誠意謝ったとて許されるかは半々のところ、『嫌っていない』とお優しいお言葉をくださるとは、さすが左大臣家の姫君は懐深くていらっしゃいます」
「葵の懐が深いことは、出逢った頃から知っていたが。二年離れていても、彼女の美徳は翳ることを知らず、ますます磨かれているな」
「まさか公卿家の姫君が、ご両親の預かり知らぬところで外出し、後宮の庭に紛れ込んでいるなど、若様のお話を聞いても俄かには信じられませんでしたが……本当に、件の姫君でいらしたので?」
「間違いない。私が、葵を見間違えるものか」
出逢ってから今まで、どれほど彼女に救われ、支えられてきたことか。
改めて惟光に話しながら、光の意識はしばし、思い出を回遊する――。
* * * * *
出逢いの瞬間は衝撃で、はっきりと覚えている。
むしろ、光の記憶は葵との出逢いから始まっていた。
「……そなたは、だれだ?」
母を亡くし、祖母と過ごした二条邸を離れ、宮中へと呼び戻されて。
桐壺の女房たちは、母の忘れ形見である自分を見ては涙ぐむばかりで居心地悪く、そっと庭に降り、寂しさに耐え切れず泣くばかりだったある日――彼女は不意に、現れた。
隠れ泣いていた植え込みがガサガサ揺れたかと思った瞬間、目の前に飛び込んできたのは、輝くほどに美しい少女。思わず涙も引っ込み、馬鹿みたいに誰何して。
「わたし……わたしは、葵。あなたは?」
「われは、光という」
互いの名を交換し合った瞬間、世界が確かに色を変えたのを、光は今でも思い出せる。
庭で陰気臭く泣いている幼子など、今から思えば、優雅さの欠片もないちっぽけな存在だっただろう。葵の素性を知った今なら尚更、彼女ほどの身分の娘が構うような相手ではなかったと断言できる。
「良かったら、一緒に遊びましょう?」
それでも――それなのに、彼女は光を見捨てなかった。明るく笑って、光に手を差し伸べてくれたのだ。
名前しか知らない、歳上の少女。あの頃の光からすれば随分と大人びて見えたが、女童姿だったことといい、当時はまだ十にも届かない歳だっただろう。左大臣家の、本来なら邸の奥で幾重にも守られて育つはずの姫君が、どうやって家を抜け出し後宮の庭まで紛れ込めたのか、それは今でも分からない。
分からないが……葵と過ごした時間が夢幻でなかったこともまた、確かだった。
「まぁ、光! 水干の紐が絡まっているわ、どうしたの?」
「女房があんまりうるさいから、きがえのとちゅうでにわへ逃げたんだ……」
「うるさいって?」
「われは早く葵にあいたいから、いそぐように言っているのに、女房たちはいつもおそい」
「それは光が良くないわ。あなたの装束を立派に、きちんと整えるのも、女房たちの仕事なのよ」
「葵は、われと早くあいたくないのか?」
「会いたいし、会いたいと思ってくれているのも嬉しいのよ? でも、自分の気持ちばかり押しつけて、相手の事情を蔑ろにするのは、良くないことなの。あなたの衣装が乱れていたら、あなたのお世話を怠ったと、女房たちが叱られるんだから」
「われが、それでよいと言ってもか?」
「そうよ。あなたのわがままが理由でも、女房たちがきちんと仕事をこなせなかったのは変わらないからね」
「そうなのか。わるいことをしてしまった……」
「今気付けたなら、大丈夫よ。あとでちゃんと謝れる?」
「うむ」
今上帝の寵児、亡き桐壺更衣の忘れ形見と、甘やかされ放題で何をしようが咎められることのない中、唯一葵だけが、悪いことは悪いと、人としての道理を教えてくれて。
「父上は、父上は、本当は私のことがお嫌いなのだ……!」
「光……」
「父上の他のお子は、兄君も、弟たちもみな、親王として遇されているのに。私だけがどうして、帝の子として認められない。何故、氏を与えられたのだ……!!」
誰よりも可愛がってくれていたはずの父帝により、〝源〟の姓を与えられ、臣籍降下を告げられて……幼心に絶望したあの日も、そっと寄り添ってくれた。
そして。
「……ねぇ、光? 皇族であることが、親王であることが、必ずしもあなたにとって、幸福であるとは限らないわ」
「こう、ふく?」
「あなたは、まだ幼い。七つになったばかりだもの。だから主上はきっと、深い事情は理解できないだろうと、説明を省かれただけだと思うの。これは少し複雑で、あなたにとって楽しい話ではないから。……それでも、知りたい?」
周囲の大人が――父帝ですら、難しい話を理解できない子どもとして光を見る中、葵だけが対等な〝人〟として、自らに関わることを知らされないのは理不尽だと、向き合ってくれたのだ。
「知りたい。――教えて、葵」
そうして聞かされた話は、当時の光には確かに難しい内容ではあったけれど、身分低いながらも父帝の愛を一身に受けた母桐壺更衣と、それゆえ起こった悲劇は、光の心に深く刻まれた。父帝は光を愛していないわけではなく、己の愛情ゆえに最愛のひとを喪った過去を、繰り返したくないのだと。
ひとを一途に愛することが……必ずしも、愛するひとを幸せにするとは限らないから。
「母上は、果たして幸せだったのだろうか……」
「それは、亡き桐壺様にしか分からないことよ。わたしの知っている話から分かるのは――桐壺様は、息子のあなたをとても大切に思い、愛していたことくらいかしらね」
「母上が、私を?」
「これでも、伊達に後宮の庭に潜り込んでるわけじゃないの。女房たちが話す思い出とか、色々聞いてるのよ。彼女たちの話によれば、桐壺様は自身がどれほどの恨みを受けようと、あなたにまで類が及ばぬよう、ときにはご自身を盾にしてでも守っていらしたのですって」
「そう、なのか」
「私は桐壺様じゃないから、無責任なことは言えないけれど……我が身を挺してでも守りたいと思えるほど愛せる存在がいたことは、幸せの一つだったんじゃないかしら」
そう言って微笑む葵は、慈愛に満ちて、あまりにも美しかった。軽々しい慰めの言葉じゃなく、彼女の本心がそのまま伝わってきたから、光の亡き母を慕う心は美しい形のまま、思い出とすることができたのだ。
母恋しさゆえの孤独と寂寥感を、あの時の葵の微笑みが、愛情が、綺麗に埋めてくれたのだと――今なら、分かる。




