第2話 わたしはやっていない
翌朝早く、『雑草』は、朝食の給仕を言いつけられ、食堂に立っていた。
中庭を見渡す場所に、食堂はあった。
大きなガラス窓から明るい光が差し込んでいる。
たっぷりとしたカーテンはすでに巻き上げられ、新鮮な花が花瓶に生けられていた。
食堂に据えられているのは、8人ほどが座って食事を取れる、長いダイニングテーブル。
そこにニニスとビアンカの2人が座っている。
ニニスとビアンカの前には、すでに果物のプレートと、卵料理とソーセージ、ジャガイモの付け合わせを載せたプレートが置かれていた。
ワゴンの上には、温かな野菜のポタージュの入ったフタ付きのボウルと、冷めないように清潔なフキンに包まれ、カゴに入れられたパンが見える。
温かな料理の匂いに、めまいがするようだ。
少女のお腹が小さく、くう、と音を立てた。
それでも、少女はレードルを握ると、こぼさないように気をつけながら、ポタージュをスープ皿によそった。
無事に2人にポタージュを出すと、ビアンカが口を開いた。
「パンをちょうだい、『雑草』」
「かしこまりました、お嬢様」
少女はトングで丸みのあるパンをつかむと、ビアンカの前にあるパン皿に注意深く載せる。
ビアンカは満足そうにパンを手に取り、そして。
ぽとり、と無造作に床に落とした。
少女は驚いて目を見開いてビアンカを見つめた。
ビアンカは少女を見ることもなく言った。
「早く片付けなさい、『雑草』。つまみ食いをしたら許さないわよ」
「は、はい、ただいま……」
少女は慌てて床に膝を着いて、パンに手を伸ばした。
つかもうとして、一瞬、手が震える。
昨日の食事は、夜に食べた固いパンと、薄いスープだけだった。
今朝は何も食べていない。
(このパンを今、ポケットに入れられたら……!!)
少女が床の上のパンをじっと見つめていると、いつの間にか食堂に入ってきたメイドの手で、パンはすぐに取り上げられ、これみよがしにゴミ箱へと捨てられた。
呆然として床から顔を上げた少女に、ビアンカは不満そうに首を振ってみせる。
「グズグズしないでよ、『雑草』。本当にあんたは役に立たないんだから」
少女はうなだれた。謝罪の言葉を言うしかない。
「……申し訳ございません、お嬢様」
目が潤み、見つめていた床がぼやけて見える。
鼻の奥がつん、として、声が震える。
それでも、少女は言った。
それだけが、彼女ができることだからーー。
* * *
いつものようにニニスの部屋を掃除して、それから屋敷内の掃除に取り掛かっている時に、少女は家政婦長に呼ばれた。
「ビアンカお嬢様がお呼びよ。今日は奥様のお部屋に商人を呼んでいるから、お手伝いをしてあげて」
「かしこまりました」
少女は掃除道具を片付けて、ニニスの部屋に向かう。
ニニスとビアンカは月に何度か、出入りの商人を屋敷に呼んで買い物をするが、その手伝いは必ずしも楽なものではなかった。
(試着のお手伝いをしたり、買ったものを整理したり、それ自体は難しくないのだけれど)
少女はそっとため息をつく。
ノックをしてニニスの部屋に入ると、テーブルの上からソファの上まで、所狭しと広げられた小物と、色とりどりの果物のように色鮮やかな宝石が並んでいた。
「『雑草』、呼ばれるまで、あんたは壁際に立ってなさい。邪魔をしたら許さないわよ」
少女の方を振り向きもせず、ビアンカが言い放った。
「はい、お嬢様」
少女はそろりと移動して、言われたとおり、壁の前に立つ。
ニニスのお気に入りの商人が、次々に煌びやかな宝飾品をテーブルの上に広げていく。
(……わたしが悔しがると思って、ビアンカはわざと部屋に呼んだのね)
買い物を見せつける必要なんてないのに、と少女は思った。
豪華な宝石も、可愛らしいバッグも、少女には何の意味もないのだから。
そんなものよりも。
(お腹がすいたなぁ。あのパン、食べられたら、よかったのに……)
少女が考えているのは、朝食の席での、床に落とされたパンだった。
いつも空腹を抱えている少女には、床に落ちたパンの方が、宝石よりよほど大切なのだった。
その時、それまで商人と話し込んでいたニニスが、すっと立ち上がると、ずらりと並べられた宝飾品の中から、赤い宝石の付いた小さなブローチを取った。
その様子を見ていた少女は、一瞬、ニニスとビアンカの視線が交わって、離れたように、思った。
何か違和感を感じた、次の瞬間だった。
ニニスは無言で少女に近づくと、笑顔で少女の右手にブローチを握らせる。
「何を……?」
少女が困惑してニニスを見上げると、ニニスは、ニヤリと笑った。
赤い紅を差した唇が、ひゅっと弧を描いた。
「『雑草』、何てことをしているの? ブローチを盗むなんて、許されないことよ! さあ、返しなさい!!」
ニニスの大声に、少女の顔が一気に青ざめる。
部屋にいる人々の目が、一斉に少女に向かった。
「あ……」
小さな手に握らされたブローチを、少女は見つめた。
(「申し訳ございません、奥様」、じゃない!」)
さすがの少女にも、ニニスの悪意は明らかだった。
罪を認めては、いけない。
だって、わたしは何もやっていないのだから。
少女の体が震え始めた。
いつか、こんな場面にいたことがあるような気がする。
(怖い、怖い。でも……こ、声を上げなければ、認めたことになってしまう)
少女はじりっと、壁沿いに動いて、ニニスから離れた。
『わたしはやっていません』
ただ、そう言えばいい。
しかし、震える少女の口から、言葉を出すことはできなかった。
少女は絶望した表情をすると、ブローチを放り出すようにしてテーブルに置き、後ろを見ることなく、サロンを飛び出した。
「『雑草』、待ちなさいっ!!!」
怒りに満ちたニニスの声が聞こえた。
それでも、少女は走り続けた。
* * *
回廊を走り抜け、少女は中庭まで来て、ようやく足を止めた。
大きな木があったり、複雑に入り組んだ生垣が作られている中庭には人影はなく、ほんのひとときであっても、少女は1人きりになることができた。
思わず、本音がこぼれる。
「どうしてみんな、ひどいことをするの? わたしが『雑草』だから……?」
ニニスは、少女が宝石を盗んだように見せようとしていた。
「どうしてわたしは『雑草』なの?」
少女は悔しそうに言葉を吐き出す。
みゃーん。
その時少女は、まるで自分の言葉に応えるように鳴いた、小さな声を聞いた。
みゃーん。
みゃーん。
少女が驚いて周囲を見回すと、黒と白の毛並みの子猫を見つけた。
白い髪の下で、少女の目は大きく見開かれている。
(昨夜の、猫……?)
少女は笑顔になると、猫に両手を差し出した。
「おいで」
そう言うと、子猫は、みゃ、と鳴きながら、少女の膝に乗った。
「かわいい」
子猫は膝の上で、身体を伸ばすようにして、少女の顎に頭をこすりつける。
少女は細い指先を伸ばして、柔らかい子猫の体をしっかりと抱きしめる。
少女は自分の頬が緩んで、微笑みを浮かべているのに気がついた。
「まるでお友達のようね?」
少女がそう言うと、猫は肯定するかのように、みゃーんと鳴いた。
その時、背後から、低い声が響いた。
「何なの、その猫は。『雑草』」
恐ろしく不機嫌な様子で、ビアンカがそこに立っていた。
「この泥棒! お母様の宝石を盗んだかと思えば、今度は屋敷に野良猫を引き込む気? 本当にずうずうしい子ね。一体、あんたは何様なのよ? あんたなんか」
ビアンカの青い瞳が『雑草』を睨みつける。
「あんたなんか、『雑草』のくせに」
ビアンカの後ろにニニスが現れた。
「ビアンカ、その猫を始末しなさい。こんな汚らしい猫は、屋敷に置いておけない」
その言葉に、少女はひゅっと息を呑んだ。
(始末……!?)
少女はビアンカの手が、子猫の首を無造作に掴むのを見た。
義母と義妹には、何度も何度も、数え切れないほど、傷付けられてきた。
彼らが自分を憎むのはわかる。
自分は醜いし、気もきかないし、見ているだけでイライラするのだろう。
でも、この子猫は違う。
この子は、何にも悪いことをしていないのに。
少女は自分でも気付かずに、歯を食いしばり、長い前髪の下から、ビアンカを強い視線で睨みつけた。
ふわり、と少女の前髪が揺れ動いた。
「なっ」
ビアンカは、その瞬間、動揺したように見えた。
少女は澄み渡るような、美しい空色の目で、ビアンカを真っ直ぐ見つめている。
「な、何なの、その目は。『雑草』のくせに! 逆らう気なの!?」
ビアンカはそう叫ぶと、猫を掴んだ手に力をこめた。
苦しそうな子猫の鳴き声に、少女は叫んだ。
「や め て!!」
中庭に少女の声が響き渡った。