家政婦の仕事
菜々緒は安い日焼け止めを塗り、虫よけスプレーをかけると、ボロアパートの二階にある部屋からでて、海のそばにある蓮の豪邸に向かった。
蓮のもとで働き始めて、二週間が過ぎた。
彼は本当に家にいるときしか、菜々緒を呼ばない。
屋敷は広いのに入れる場所と入れない場所があり、当然のように入れない部屋にはすべて鍵がかかっている。
「めっちゃ、防犯意識高いな。どおりで私のような素性のしれない奴を雇うはずだよね」
今日は庭での草むしりを蓮に命じられた。
晴天で気温は30度。
よい雇い主である。
菜々緒は当然のように長袖を着ている。日焼け防止というより、日差しで肌が痛くなるのだ。
長時間外にいると真っ赤になって水膨れになるのだ。早い話が火傷である。
炎天下の中、菜々緒は百均で買った麦わら帽子をかぶり、もくもくで庭で作業した。
せっせと菜々緒が雑草を抜いていると、鏑木哲也が声をかけてくる。
「菜々緒ちゃん! 麦茶のまない? 熱中症になっちゃうよ」
確かにこのままでは熱中症になる。
(まあ、その麦茶、私が作ったんだけどね)
心の中では思っても、菜々緒は決して口にしない。
時給二千円はとてもありがたいのだ。
最初は、キッチンには入るなと言われていたが、今では麦茶を作らされて、水回りの掃除までさせられている。
蓮は妙に水回りの清潔さにこだわる男で、徹底的に掃除をさせられる。
こうして蓮から頼まれることは、日々増えていく。
そして、今の菜々緒は、この家政婦のバイトで命を繋いでいるのだ。
(よかった。来月も家賃払えそう)
一年前はたった二万円の家賃すら払うのが大変になるとは思ってもみなかった。
(人って落ちるのは早いよね)
勝手口からダイニングキッチンに入ると、雇い主の蓮も哲也もリビングにいた。
ちなみに哲也は蓮の幼馴染でマネージャーだそうだ。
哲也はだらしなくソファに横になっていたが、蓮はぴんと背すじを伸ばし座っている。
いつ見ても一部の隙も無い。
(自分の家の中なのに、なんか生きてて疲れそうな人ね)
菜々緒はグラス二つと水筒に氷を入れ、冷やした麦茶を注ぐ、二人分の麦茶をダイニングテーブルに運んだ。
「あれ、菜々緒ちゃんも一緒に飲まないの?」
哲也は最初から、このフランクな話し方だ。
「はい、私は使用人なので、外で飲みます」
「え? ちょっと休んだ方がいいじゃない」
「温度差で夏バテするのが嫌なんです」
菜々緒はきっぱりと断る。
「あ、そう。ねえ、菜々緒ちゃんって体育会系だね。あ! もしかして男に興味がないとか?」
哲也は菜々緒が、蓮に興味がないのが不思議らしい。
それくらい蓮はモテるようだ。
だが、菜々緒は二次元にしか興味がない。
そのためだけに、超イケメンの出てくるラノベが書きたいのだ。
ちなみに菜々緒が賞をとったのはパワハラを描いた作品で、暑苦しいおやじばかりが登場する話だった。
おじさんたちの群像劇だ。やたら、審査員の評価は高かったが、全く売れなかった。
「鏑木さん、それセクハラですよ」
「ええ? こんなんゲイノー界普通だよ? ってかゲイノー界にセクハラないから」
(ああ、これ普通の企業じゃコンプラ的にやばい人。芸能界ってこういう倫理観が壊れたタイプ多いのかな。まあ、ブラック企業にもいるけど)
「私は臨時で雇われている家政婦ですから、芸能界とは関係ありません」
いい加減、鏑木の相手が面倒になった。
蓮は無口なようで、鏑木は暇だと菜々緒に声をかけてくる。
が、今日の菜々緒は雇い主の橘に聞きたいことがあった。
「橘さん、私の雇用期間っていつまでですか? 突然、首になっても困るんで、いつくらいに家政婦さんが決まりそうか、だいたいでいいので教えてください。それと二週間前とは言いませんが、出来れば一週間前には解雇通告してください」
実は近くの百均でアルバイトを募集していたのだ。
時給は下がるが、ここよりもずっと安定している。
(家政婦の時給は魅力だけど、ちょっとこの職場って看過できない問題があるのよね)
執筆がはかどっているときに限って、「風呂を洗え」と蓮から非通知電話がかかてくるし、それが夜中の二時だったり、朝四時だったり、そんな日が週に一、二度はある。
蓮はたいへんな綺麗好きで、朝はシャワーを浴び、夜はどんなに遅くても風呂に入るようだ。
だから菜々緒は深夜は割増料金を請求した。
まさかとは思ったが、蓮が深夜と早朝は時給を三千円にしてくれた。
(同じ人間だって言うのに、顔の皮一枚でずいぶんお金持ちだね。まあ、助かってるけど)
蓮なりのこだわりポイントは、鏡とトイレ、玄関はピカピカに磨いて置くことだ。
そして二階は基本、廊下の掃除だけでいい。
この条件ならば、いくらでも家政婦はいそうだ。
菜々緒は臨時でやとわれたのだで、履歴書すらいらないと言われて出していない。
「ああ、家政婦か? 探していない」
「は? 私は臨時雇いだったのでは?」
「夜中や早朝に呼び出せる家政婦となると難しい」
蓮にとってはそこがポイントだったようだ。
「若い男性を雇ったらどうです? それか、年配の方なら」
「その両方を過去に雇ったことがあるが、不法侵入に盗撮、あげくにSNSに部屋の写真を晒された」
淡々と無表情で答える蓮が怖い。
こんな人が、役者として感情表現ができるのか甚だ疑問だ。
「それはすごいですね」
「結構ニュースになったけど、本当に菜々緒ちゃん知らないんだね。SNSにも興味ないの?」
むしろ感心したように鏑木が言う。
「いっそのこと若い女の子雇えばいいじゃないですか?」
「週刊誌にとられた」
「うわ、その子も気の毒ですね」
菜々緒は心底、その女の子に同情する。それほど蓮が人気があるというのなら、どれほど嫌がらせをされたことだろう。
「いや、その子が週刊誌にあることないことふきこんだんだ。お陰で俺はもう少しで、舞台を降板するところだった」
その時のことを思い出しのか、漣はぶぜんとした表情をする。
「それならホテルの方が安全なのでは? そのほうが楽じゃないですか」
ホテル暮らし、出来るものならしてみたいと菜々緒は思う。
掃除も洗濯もなし、食事もルームサービスがあるし、バーラウンジで飲むのもいい。
「俺はこの家で暮らしたい」
「……さようでございますか。では私は庭での作業に戻ります」
(なんだ、こいつ?)
頑固な家主である。
◇◇
鏑木は庭でせっせと草むしりをする菜々緒を見ながら、口を開く。
「いっそのこと菜々緒ちゃんのこと雇っちゃえば?」
「人となりもわからないのにか? 雇った途端欲を出すかもしれない」
「でも、お前に興味ないじゃん」
それには蓮も頷いた。
「そこは助かっている」
「あのさ、期間を聞いて来たってことは、どこかに就職を考えているかもよ?」
「就職? だいたいあいつは金がなさそうだし、スーツを持っているのか? いつもよれよれのTシャツに、ジーンズに安い運動靴を履いているぞ」
「小汚い恰好でこいと言ったのは蓮だろう? それになんだかんだで、お前が、菜々緒ちゃんのこと呼びつけているから、かれこれ十万ぐらいにはなってるじゃないか?」
「俺は舞台が始まるとしばらく家に戻らないことも多い。だから、月によって変動がある」
「じゃあ、雇えよ。ああいうタイプはまたといないぞ。全く芸能界に興味を示さないなんて珍しすぎるだろ? それに税金対策にもなる」
蓮はしばし考えた。
「月十五万でもいいだろうか?」
「まあ、地方で一般人なら、そんくらいじゃね」
そんな軽いノリのなか、激安給料で菜々緒の雇用が決まった。
しかし、この条件で頷くかどうかは菜々緒しだいだ。