政略結婚だからね、国のためだよ
ブレシェント王国はどちらかといえば小国である。
そこそこに栄え、周辺の国ともそれなりに友好的な関係であると言える。
というか、交通の便が良いというのもあって周辺国家がこの国を侵略しようと思えば他の国がすぐさま阻止しようとするようなところであるから平和と言い切るのも微妙なところではあるのだが。
商人などが各国へ移動するのにどうしても通る場所であるので、例えば商人たちから税を搾り取るぜー! みたいなことをすれば商人は敵に回るしついでに交易で色々と被害を被る国も黙っていない。
なので税金に関しては普通の金額である。下手に国の財政が厳しくなったからとて不当にここを上げると間違いなく敵が増えるのは流石に理解できている。
ブレシェント王国を制圧して自国の領地に、と目論んだ国がなかったわけでもないがその場合他の国が阻止するので小国一つを敵にするだけではない。複数の国を相手取る必要が出てしまう。
結果的にブレシェント王国周辺の国は平和的に同盟を結んで抜け駆けは無しな、という感じでまとまってしまった。
ある意味絶妙なパワーバランスで成り立ってるそれを平和と言っていいかは謎だが、裏事情はどうであれ平和である事に変わりはない。
そのブレシェント王国第二王子ヘンリーは、とても憂鬱な気分で執務室の片隅に陣取っていた。
執務室の主である第一王子エドワードはそんなヘンリーをちらりと見ながらも書類を捌く手は止めていない。
ヘンリーも部屋の隅っこに置かれた机の上でちまちまと書類を片付けてはいるものの、エドワードと比べると四倍くらい遅かった。
やる気がないというわけではない。書類に関しては確かにエドワードと比べると遅いにも程があるが、間違いはないので後からやり直しを要求される事はないだろう。というか兄が尋常じゃないだけだ。だって何かもう手の残像が見える。実は腕が四本あるとか言われても信じてしまいそうな勢い。
「どうしたヘンリー、いつにも増して辛気臭い顔をして」
書類から一切目を逸らさず作業をしたままでエドワードが声をかける。
声を掛けられたヘンリーは一度手を止めて兄を見たが、兄がこちらを見ているわけではないと理解した時点で書類に視線を戻した。
「憂鬱にもなりますよ兄上。今日はだってその、お茶会があるでしょう?」
「あぁ、婚約者殿か」
あまりにもあっさりと言われているが、それが余計に憂鬱さに拍車をかける。
「二人きりのお茶会であればいいんです。けど今日は、友人たちも参加するらしくて……」
「……そうか」
ヘンリーの言葉がどういう事を意味しているのかを早々に察したエドワードが心中お察しします、みたいな顔をしたがそれでも視線は書類に向いたままだ。だからこそヘンリーはそれに気付かなかった。
ヘンリーの婚約者であるシンシア・ターンメル公爵令嬢は、非の打ちどころのない女性だ。
外見も中身も優れている。それ故に社交界での人気が高く、この国の貴族令嬢ほとんどから憧れの人、みたいな認識をされている存在だ。
こんな完璧な人はいない――そう囁かれるくらいに素晴らしい令嬢なのである。
実際上には上がいる、というわけではないが、エドワードの婚約者の方が色んな意味で凄いのでこの国の貴族令嬢の頂点に立つとまでは言われていないが、それでもヘンリーからすると充分に過ぎた婚約者だ。
将来的にこの国はエドワードが王となる。
ヘンリーはエドワードと比べれば天才と凡人くらいの差があると理解しているし、そんな優れた兄を差し置いて自分が王になど思い上がった事を考えた事もない。どちらかといえば将来的には兄の手伝いができればいいなと思っているくらいだ。
シンシアと結婚すればヘンリーは公爵家に婿入りする。それは別に構わない。下手に王家にずっといたままではいらぬ争いの火種が生まれるかもしれないし、それが兄の邪魔となるのはヘンリーも望んではいないのだから。
けれども、今のヘンリーにとってシンシアという存在は重荷だった。
素晴らしい女性であるのは確かだ。
身分を笠に着て周囲に威張り散らすような貴族も中にはいるが、シンシアはそういった事をしない。けれども、それでも。
優秀な彼女の隣に自分がいると考えるとどうしたって自分は平凡であると思い知らされるし、努力したところで兄の隣はおろかシンシアの隣に並び立つのも難しいと思えてしまう。
エドワードからすればヘンリーは決して凡庸などではなく、勤勉で向上心向学心に溢れ努力を怠らない自慢の弟なのだが、ヘンリーはどうやらそれを誇るものでもないと思っているようだ。謙虚すぎる。
実際ヘンリーの周囲にいるのがハイスペックな連中ばかりなのでそれと比べれば自分なんて……という思考に陥っているだけなのだが、生憎とそこまではエドワードも理解が及ばなかった。
素晴らしい人間には周囲からの称賛など日常茶飯事だ。
だからこそ、ヘンリーは余計に憂鬱なのである。
シンシアが素晴らしい事はヘンリーも認めている。こんな素晴らしい令嬢と自分が婚約など、本当にいいのだろうかと何度だって思った。
けれども、シンシアの結婚相手は別に自分じゃなくてもいいんじゃないか、とよく思うのだ。
例えば、有り得ない話ではあるが。
エドワードがあまり優秀ではなかったならば。
その場合は将来どちらが王になるかで揉めたと思う。
血筋的にはどちらも同じ母なので、正妃だの側妃だのといった問題は存在しない。
であれば能力的にどちらが王として優れているかで選ぶ事になるわけだ。この国では必ずしも第一子が跡継ぎになるわけではないので。
例えば母が異なり身分の関係で後ろ盾が必要である、という事でヘンリーの婚約者にシンシアが選ばれたというのであればまだわからないでもないのだ。
けれども実際はエドワードが将来の王であるし、エドワードの婚約者はシンシア以上に優れている令嬢である。それはシンシアも認めている――というか、むしろシンシアが憧れている令嬢がエドワードの婚約者だ。
将来の王と王妃に何の不安もない。あの人たちが次なる王となるのであれば、この国は安泰だ。ヘンリーはそう思っているし、国民だってそう思っている。
だからこそ、余計にヘンリーは思うのだ。
僕がシンシア嬢と結婚する必要性はあるんだろうか、と。
エドワードの婚約者であり将来の王妃であるソニアはシンシア憧れの君だ。
彼女の家柄も王家に嫁ぐにあたり何の問題もなく、国内の貴族たちの結束が危ういとかそういう話も今はない。
むしろソニアの家は貴族たちの中でも発言力が大きく、それでいて野心的なわけでもないのでこの国は大きく発展する事がなくとも間違いなく平和を維持し続けられる。
周辺国家との関係は限りなく均衡状態を保ったままであるのはヘンリーにもわかっているのだ。下手にどこかに肩入れしてそれを崩すような事をするよりは現状を維持したまま結束を固めていく方向でやっていった方がいいだろう。
だからこそ、国内の貴族たちの結束を固めるために、とかいう理由もないのだ。
であれば、別にヘンリーが公爵家に婿入りする必要が果たしてあるのだろうか、という疑問が浮かんでしまうわけで。
その疑問が浮かぶのはシンシアに不満があるからというわけではない。どちらかといえばシンシアが不満に思う側だと思う。
彼女くらいの令嬢であれば、それこそ他国の王族に嫁ぐ事だってできるのだから。
国内で、こんなパッとしない第二王子を婿に入れるよりは同じく政略結婚するにしても他国の王族とかのがマシなのでは、とどうしてもヘンリーは考えてしまうのだ。
シンシアは美人で、ヘンリーの実は初恋の存在でもあった。
だからこそ、この結婚は本来ならば喜ばしいはずなのに。
結婚の事を考えるとヘンリーはますます憂鬱になるのだ。
「悪気がないのはわかってるんです」
ぽつり、と呟く。
シンシアと二人だけの時は何も問題がないのだ。
ただ、時折開かれる友人たちを含めた茶会がヘンリーにはとても憂鬱な代物だった。
茶会そのものは嫌いじゃない。
女性ばかりであると気後れするが、シンシアもそれを理解しているのかヘンリーの友人にも声をかけているので男女の比率は大体同じくらいだ。
女性同士の茶会とはまた違った情報が入手できることもあってか、シンシアの友人たちにも好評らしく、またヘンリーの友人たちも男性同士の時では集まらないような情報を得ているので、概ねどちらからも好評なのだ。
周辺の護衛をする騎士や使用人たちもいるのでいかがわしい何かが行われるような事もない、とても健全な茶会である。
だがしかし。
ヘンリーにとってはその友人たち含めた茶会がとんでもなく憂鬱なのだ。
それはもうシンシアが称賛される。それは別に構わない。彼女は外見も能力もどこをとっても素晴らしく、そりゃあ褒め称えられるのが当然だろうなと思える程なのだから。
彼女の友人たちもヘンリーの友人たちもこぞって彼女を褒め称える。そしてシンシアも己の優秀さを理解しているのだろう。その称賛を当たり前のように受け取っている。
けれど。
その後の流れは決まってこうだ。
こんなに素晴らしいシンシア様とご結婚なされるなんて、ヘンリー様も幸せですわね。
シンシア様ならきっと幸せになれますわ。
ヘンリーなら勿論彼女を幸せにするさ。
幸せにできないなんてあるはずないだろ。
恐らく悪気はないと思う。
ただ、言葉の端々にシンシアが幸せになるのは当然で、そのためにヘンリーは努力しなければならないし、シンシアを幸せにできないなどあってはならない事なのだ、と暗に言われているような気分になってくるのだ。
まるでお前の価値はシンシアの幸せのためだけにある、と言われているようで。
最初の頃はそれを穿ちすぎだと思っていたし、今でも自分の被害妄想ではと思っているけれど、それでもどうしてもその思いが拭いきれない。
そんな友人たちにシンシアはにこりと微笑んでこう言うのだ。
「勿論、ヘンリー様はわたくしを必ず幸せにしてくださいますわ」
――と。
友人たちはその言葉にそうですよね、当然ですよねと楽しそうに笑うのだ。
悪気はない、それはわかっている。
けれど、ヘンリーは自分の事をそう優れた男だと思っていない。優れているのは精々血筋くらいなものだ。
だからこそ必ず幸せにしてくれる、というその言葉は。
信頼されているのだろう。
だがしかし同時にとても重たく感じてしまった。
「兄上、幸せとは何でしょうか」
「うん? また随分と抽象的な事を聞くなぁ。そんなものは人それぞれだろう。
国の情勢が不安定よりは安定して平和な方が勿論いいが、平和な国で暮らしているから必ずしも幸せかとなればそうでもないだろう。
衣食住整っていても不幸だと思う者はいる。不自由しない生活を送っていても満ち足りないと思う者もいる。
逆に不幸のどん底にいるようにしか見えなくても幸せだと胸を張る者もいる。
ヘンリー、お前の幸せは、お前にしかわからないものだと思うぞ」
「……それも、そうですよね」
ヘンリーとてわかってはいた。
こんなことを聞かれたって、ヘンリーがエドワードの立場であればきっともっと困っただろう。
幸せってなんだろう。
何をすればシンシアは幸せなんだろう。
シンシアが幸せであったとして、その時僕は幸せなんだろうか。
自分がたとえ幸せじゃなくても、シンシアの事は幸せにしないときっと皆が許さないんだろうな。
そんな風にぼんやりと考える。
きっと幸せになる。幸せにしてくれる。そうじゃなかったら許されませんよ。
そんな風に言われたことを思い出す。
許されないって誰に?
シンシアを慕う全ての人に、だろうか。
たとえ自分が精一杯幸せにしようとしても、それが彼女の思う幸せでなければ。
そしてそれを表に出された時点で。
周囲のヘンリーを見る目は一体どうなってしまうのだろう。
ヘンリーは最近ずっとこんな事ばかり考えていた。
考えたところで答なんてわかるはずもない。
二人きりのお茶会などでシンシアと話をする時に、シンシアの幸せは何、と聞いてみた事もあるけれど、彼女は「まぁっ、ヘンリー様ったら。うふふっ」と楽しそうに笑いはしたけど結局肝心の答は教えてくれなかった。
どれだけ考えても答えがわからないし、直接尋ねても教えてはもらえなかった。
これでわかれと言われても、流石に無理がある。
おかげで最近はシンシアと二人きりのお茶会も実は何気に苦痛すら感じるようになってきた。
友人たちがいない分穏やかに話ができるけれど、何というかここ最近はシンシアが自分の事を幸せにできるかどうかを見定められている感じがするのだ。
常に何かのテストを受けているような気持ちになる。
「……はぁ、何かもう何もかもがイヤだなぁ……」
半ば無意識にヘンリーはそう呟いていた。
とはいえこれは政略結婚だ。自分の意思だけでやっぱやめた! とはならない。
「……すみません兄上。そろそろ時間なので失礼させていただきます」
「あぁ、あまり気負わず行くといい」
エドワードはその言葉が気休めにもならない事を知っていた。けれども、それ以外にかける言葉がなかったのだ。
ゆら、とどこか不安定な足取りで執務室を後にしたヘンリーを見送って、さてどうしたものかなと独り言ちる。
シンシアとの婚約が決まった時はまだヘンリーはああじゃなかった。
可愛い弟だ。兄は兄なりに弟を可愛がっていた。
そして弟の初恋がシンシアで、今も彼女の事を好きなままであるというのも知っている。
だからこそ、ヘンリーの婚約話が出た時にエドワードはそれとなく父に進言したのだ。シンシアの事を。
エドワードは婚約者であるソニア経由でシンシアの好きな相手がヘンリーである事を知っていた。
だからこそ、政略結婚でありながらも同時に恋愛結婚になるし、それなら末永くお互いがお互いを想い合っていくだろう事はほぼ確実。
単なる政略結婚の場合はまずお互い歩み寄るところからスタートしなければならないが、この二人ならそんなものは初めからなかったとばかりに距離を縮めるだろうと思っていたのに。
もしかしたら早まっただろうか……とエドワードは思い始めていた。
このままでは、ヘンリーが色々と思い詰めて自分から潰れてしまうのでは……そう思えてしまう。
今日のお茶会から戻ってきたら、話を聞いておこう。エドワードはそこはかとない不安を覚えながらもそう決意した。
――最近のヘンリー様はどこか陰がある。
そう噂されていたけれど、そんなものは単なる噂だとばかり思っていたのに。
数日前に二人きりで会った時はそんな感じはしなかった。
だからこそ、今日もきっといつものように……と思っていたのに。
ヘンリーは本来物静かな方だ。馬に乗り剣を振るうよりは書庫で書物に目を通している方が似合っている。そんな人だ。
穏やかで、陽だまりのように優しいその人はしかし確かに噂通りどこか陰を滲ませていた。どこか儚さを含んだその様子に、シンシアは具合が悪いのかしら……? と心配して、だからこそ告げた。
「ヘンリー様? もし御加減がよろしくないのでしたら、今日はもう戻られますか?」
このお茶会は基本的に情報交換の場というよりは、お互いの交友関係を深めるものだ。シンシアの友人である貴族令嬢の数名は他国へ嫁ぐらしいのでシンシアとヘンリーが結婚した後は中々簡単に会えなくなってしまうが、それでも情報のやりとりはできる。
現状平和な国ではあるが、それだってずっと続くかはわからない。交易などで他国とのやりとりをする際、必ずと言っていい程この国を通るからこそ、ここは交通の要となっているけれど。
もし別のルートが開拓されたり、はたまた新たな交通機関が開発されたら。
その時はこの国の価値がガクッと下がる可能性もあるのだ。
いざという時のために、各国の情報を得られる機会は多くしておいて間違いは無いだろうし、エドワードが王に即位した時、同じ世代を担う彼ら彼女らの結束が強ければ少なくとも内側から崩される可能性は減る。
シンシアの影響力はそう大きなものではないと思っているが、けれどソニアもまた同じようにあれこれ手を回しているのを知っている。だからこそシンシアはソニアのやろうとしている事をほんの少しでも手伝えればそれで問題はない。
シンシアの友人たちも、ヘンリーの友人、更に将来の側近となるべくして存在している者たちも、この国の将来を考えればこうして交流の場を持つのは悪い事ではないと思っている。
とはいえ、体調が優れないのに無理をしてまで参加せよ、とは思っていないのだ。
シンシアは勿論として、シンシアの友人である令嬢たちもヘンリーの友人たちも、ヘンリーの事を案じている。
もし具合が悪いのなら、この後に予定があってもなくても、せめてこの茶会が終わるまでの間の時間だけでも休んでもらえれば……と思っていた。
けれどヘンリーは大丈夫、とにこりと微笑んでこたえた。
大丈夫、って言ってるけど、正直あまり大丈夫そうに見えないな……というのがヘンリーの友人であるエルウッドの嘘偽りのない感想である。エルウッドは最近の国内外の情勢を思い返してみたが、特に不穏な何かがあるでもないはずだ。それらしい噂も特になかったと記憶している。
王家だけで先に知っている情報である可能性も高いが、であればもっと上手く隠すはずだ。ヘンリーはパッとしないように見せてその実かなりの曲者なのだから。
確かに第一王子エドワードと比べれば能力的には劣るだろう。けれども、彼はそれすら武器にしている節がある。油断して舐めてかかれば痛い目を見るのは間違いなく相手側。穏やかで優しいというのが第二王子の評判として真っ先にあがるけれど、決して優しいだけの奴じゃないのはエルウッドだけではなく、ヘンリーの友人として近くにいる者たち全員の認識である。
エルウッドはそっとヘンリーに近づいて、
「なぁ、あんま無理すんなよ?」
そりゃあ、王族だしそう簡単に弱音を吐けるような環境じゃないだろうけど、と小さく呟く。
エルウッドの言葉にヘンリーは微苦笑を浮かべて、本当に大丈夫、と言っているが本当かどうかまではエルウッドにもわからなかった。
ヘンリーはこういうのを取り繕うのだけはやたらと上手いので。
けど、とも思う。
仮に本当は具合がよくなかったとしても、婚約者だけではない。それ以外の者たちまでいる中で弱った姿は見せないだろうなと。
「本当か? シンシア様の前だからってカッコつけてるだけじゃないよな?」
だから、というわけではないがエルウッドはどこかおどけたようにそう言って肩をすくめてみせた。
「シンシア様の幸せのためにはヘンリー様の存在は必要不可欠なんだから、体調管理には気を付けてくれよ?」
「あら、やだわ、もう……」
エルウッドの口調からその場を少しでも和ませようというのが感じ取れて、シンシアは照れたようにはにかむ。
あまりそういう事を言われると嬉しいけれど恥ずかしい……そう思ってしまって、シンシアはそっと扇で口元を隠すようにして笑う。
シンシアにとってヘンリーは初恋で、憧れの君でもあった。
幼い頃のシンシアは今と比べてかなり物覚えが悪く、令嬢として必要なあれこれを覚えるのをかなり苦労していたのだ。こんなんじゃ公爵家令嬢としてやっていけないのではないか、幼いながらにそう思った事は何度だってあった。できない自分が悔しくて、必死に努力したけれど思ったような結果にならなくて。
どうしてこんなにできないの?
お父様もお母様もこれくらいの事、もっと早くに覚えてできてたって皆が言うの。
わたくし、お父様でもお母様でもないけど、でもその娘で。なのにできなくて。なんで? どうして?
幼いながらに焦りばかりが降り積もっていく日々の中、父が気晴らしに、と仕事に行くついでになんて言って城へ連れていってくれて、中を案内してもらったのだ。
けれども中庭で父に用があった他の大人が声をかけてきて、その間シンシアは一人になってしまった。
本当はあちこち動いて見て回りたかったけれど、迷子になったらどうしようという思いがあって動けなかったのだ。
木陰でそっとしゃがみ込んで、じっと父が戻ってくるのを待つ。
たった一人で待っている間にどんどん不安になって、ついぼろぼろと涙を零して泣いてしまったのだ。とはいえ流石に大声を上げて泣けば誰かがすっ飛んでくるかもしれない。事件かと思われて騒ぎになるかもしれないというのはシンシアにも理解できている。だからこそ声を押し殺すようにくすんくすんと泣いていたところに。
「どうしたの?」
彼は、現れたのである。
まさか誰かに声をかけられるとは思わなかったシンシアがぽかんとしていると、シンシアとそう年の変わらない男の子はハンカチを取り出してシンシアに渡した。
何がなんだかわからないうちに受け取ってしまって、シンシアは半ば無意識にハンカチで涙を拭いていた。
そうして気付けばぽつぽつと会話をするようになってしまって、シンシアは今の自分の何もできない駄目っぷりを愚痴る形となってしまっていたのだ。
一通り話を聞いた彼は、シンシアを慰めてくれた。
今はできなくともいずれできるようになる、なんてありきたりな言葉もかけてもらったけれど、その時のシンシアはすとんとその言葉を受け入れる事ができてしまった。
何も知らないくせに、という思いもあるが、何も知らないからこそその言葉に含みも何もないと感じ取れて、ただ普通にシンシアの事を応援してその努力を認めてくれたのだと思うと、先程とは違う意味で何だか無性に泣きたくなった。
だってたまに口さがない使用人がシンシアの事を出来が悪いだなんて陰で言っていたから。
使用人にまで無能だと思われているのに。
そんなシンシアに彼はただ素直にその努力を称えたのだ。
結果がすぐに出る事なんて実のところ滅多にないんだよ、なんて言われて。
それじゃあ結果が出るまで頑張ればいいの? なんて今思えば若干脳筋な返しをしてしまったように思う。
そこまでやれば流石に出るよ、と言われてしまえば当時はまだまだ単純だったシンシアはそうなのね、とあっさり納得してしまって。そして何だか俄然とやる気がわいてきたのだ。
今ならできる気がする! そんな思いに満ちていた。
丁度その頃に父が戻って来て、男の子は父がこちらに辿り着く前にそれじゃあね、なんて言うだけ言ってさっさと立ち去ってしまって。
けれども、この時シンシアの中で彼は紛れもなくシンシアにとっての運命の王子様であったのだ。
実際本当に王子であったというのを知ったのは少し先の話だけれど、彼が励ましてくれたから、頑張ろうと思えて、そしてその努力は今実っている。
あの時彼と出会わなければ、もしかしたら今でも落ちこぼれのシンシアのままだったかもしれない。ソニアに憧れを抱きつつも、彼女に近づこうなど烏滸がましいと思ってただただ遠くから眺めるだけの、地味で目立たない公爵家に相応しくない娘のままだったかもしれないのだ。
そんな彼――ヘンリーと婚約の話が出た時はまさしく天にも昇る気持ちであった。夢じゃないかと疑って、現実だと確認してはあまりの嬉しさに心臓の鼓動が早まって、このまま死ぬんじゃないかと思ったくらいだ。
あまりの嬉しさに神に一体何度感謝したかもわからない。
毎日が薔薇色で世界が輝いて見えて、まるで天使が祝福してくれるかのように途端に日々が煌めいて。まるで生きたまま天国にきてしまったかのよう。
シンシアはあまりにも浮かれてヘンリーに呆れられないようにと常に精一杯平常心を保ち続けていたのである。
一部の友人にはシンシアの初恋がヘンリーである事などとっくに知られていたし、だからこそ婚約の話が出た時には笑顔でお祝いされた。
あまりにもヘンリー様にときめきすぎてみっともない姿を外で晒さないようにね、晒すならせめて二人きりの時に小出しにするのよ、なんていうちょっとどうかななんていうアドバイスもされたくらいだ。
そう、シンシアはとても幸せで、だからこそ周囲の言葉も祝福として受け取っていた。
それを、ヘンリーがどう受け取っていたかなんて気付きもせずに。
「幸せ、か……けれども結局は政略結婚。国のためのものだよ」
暗い影を落とすようなヘンリーの発言も、だからこそこの時のシンシアは気付けなかった。そして周囲も。
「国のためであっても二人が夫婦となるのであれば、素晴らしい事じゃないか」
ヘンリーの友人の一人がそんな風に言う。
周囲もそうだそうだと頷いていた。
二人が夫婦になって、そうして家を盛り立てて、王家を支えていくのであれば。
シンシアの想い人がヘンリーである事をこの場にいる者たちはほとんどが知っていた。だからこそ、彼女の想いが叶って、それが更に国のためにもなるのであればとても喜ばしい事だと疑ってすらいない。
結局この日の茶会もシンシアを褒め称える言葉が並び、ヘンリーはそれをただ受け流すように聞いていただけであった。
周囲に悪気は一切ない。
何故ならシンシアがヘンリーを想っているのは既に周知の事実であり、だからこそ、ヘンリーのために努力を重ねてきた彼女を持ち上げるのは、それだけお前が凄いやつだからなんだぞ、という意味も友人たちは含めていたつもりだったので。
シンシアの友人たちも、ヘンリーの友人たちも、ヘンリーが凡庸な男でない事は理解していたのだ。
ただ、シンシアはヘンリーの内心抱えていたものに気付きこそしなかったが、それでもふと、嫌な予感を感じていたのである。そしてそれは、思わぬ早さで訪れた。
「――婚約を、解消……ですか……!?」
父から告げられたその言葉を、シンシアは信じられない物を見るような気持ちで繰り返した。そんな。一体何故。どうして。わたくしに何か駄目な部分があったとでも……!?
何かの嘘だと言ってほしい……そう思いながらも父を見れば、嘘ではないとばかりに首を横に振られた。
「そんな……一体、どうして……!?」
それはまさにシンシアにとっての青天の霹靂であった。そんな事になるだなんて、これっぽっちも思っていなかった。シンシアにとってこの先の未来は、ヘンリーと結婚し、彼がこの家の婿となり、自分はそれを支えていく。その結果として王家を支える事にも繋がり、国は繁栄していくのだろう。そう信じて疑ってすらいなかった。
国のために結婚して、そしてこの家を繋げ、国を支え、その上で自分たちは幸せになるのだと。
それがこれから先にある未来なのだと。
今までの努力が報われた――そう、信じてすらいたというのに。
それらを全て、無かった事にすると言うのか……!?
シンシアの父とて娘の想いを知らなかったわけではない。
だが、それでもこれは国の決定なのだ。
この国がより繁栄するためのものとして、既に決定されてしまった事だ。事前に話を打診された、とかであればシンシアの父も娘の気持ちを考えて少しばかり抵抗しただろう。幼い頃から恋い焦がれていた相手との婚約だ。政略であったとしても、それでも娘の想いは通じたのだと、父もまた喜ばしい気持ちですらいたというのに。
「シンシア、お前に非があるというわけじゃない。だが、むしろお前は優秀になりすぎてしまったのだ……」
王家から通達された婚約解消の話は、既に決定事項となってしまいシンシアの父が今更何をどう言ったところで覆りはしそうになかった。
この国のために、と言われればシンシアの父とて否とは言えなかった。そうだ、元はといえばシンシアとヘンリーの婚約もまた国のためで、この解消もそうなのだと言われてしまえばどうにもできない。
「優秀に、なりすぎてしまった……?」
意味が分からない、とばかりにシンシアは首を傾げた。だってそうだろう。ヘンリーと共に在るためには優秀でなければならなかった。彼の隣にいるためには、優秀でなければ。ただ見目が良いだけの令嬢では彼の妻となるには到底無謀であったし、何をするにしても中途半端な存在では彼の足を引っ張るだけの存在にしかならない。
ヘンリーの隣にいてもそれが当たり前であると周囲にも認めさせなければ、ヘンリーと婚約を、という話は他の令嬢にもそもそもの可能性が存在していたのだ。そういったライバルたちに負けないように、シンシアは日々研鑽に臨んだというのに。
「シンシア、お前には王家から他の婚約の話が出ている」
「そんな……!? 一体どなたと!?」
シンシアにとってはヘンリー以外の相手など存在するはずもない。だというのに、その王家が今更誰と結婚しろと言うのだ。
「同盟国の一つ、エギオルダ。そちらの王太子との結婚だ」
「……え?」
話だけを聞けば。
第二王子が婿入りするでもなく、こちらがその国の新たな王妃となるのだから、いい話といえばいい話ではある。だがそれはあくまでもそこに存在する人間関係を考慮しなかった場合だ。
「そもそもわたくしは、王妃教育など受けてすらいないというのに……!?」
エドワードがこの国の王となるべき存在で、その妻となるソニアであれば当然王妃教育を受けている。だが、ヘンリーはこの国の王となるわけではない。勿論エドワードに何かがあった場合の代わりとしてであればそうなったかもしれないが、少なくともこの国はそういった不穏な何かがあるでもなく、不慮の事故でもない限りはエドワードが次なる王である事に変わりはないのだ。
公爵家を支えるための勉強はそれこそ沢山したけれど、王妃として、というものはシンシアの中には一切存在していなかった。ヘンリーと共に過ごす未来にそれは必要のないものだったので。
「エギオルダの王太子もまた優秀な人ではあるが、悲しい事に今まで婚約者が存在しなかった。というのも……彼の寵愛を得るために国内の令嬢が競い合いすぎて結果お互いに潰し合う結果となってしまってな。目ぼしい令嬢が存在しなくなってしまったのだ」
「なんですのその……存在が罪みたいな方は」
「そういうわけで他の国から嫁をとるしかなくなってしまったらしくてな。国内で残っている令嬢はあまりにも年がいって行き遅れになってしまった者か、はたまた幼すぎる者しか残っていないらしい。年齢を合わせて平民から嫁をとるわけにもいかぬだろうしな」
「その方に非が本当に無いと?」
「しいて言うなら美しすぎるのが罪だったのではないだろうか
その一件があまりにもあんまりな話過ぎて他の同盟国にも広まったくらいだし」
ちなみに他の国にも婚約の打診はあったのだけれど、色々あって流れ流れた結果がこれだ。
「わたくしが、そちらへ嫁ぐ、と……!?」
「あぁ、向こうからも是非に、との話らしくてな。
同盟国であり、お互い国の結びつきを強化するのにこれ以上ない感じに話がまとまってしまったらしい。故に、この婚約並びに結婚は王命なのだよ……シンシア」
「そんな……」
へなへなと、シンシアははしたないと分かっていながらもその場にへたり込んでしまった。
だって、これから先待ち受けているのは、自分が愛した人との結婚であったはずなのに。
それが、何か美形らしいけどそれ以外の情報は全く分からない他国の王族との結婚にすり替わったのだ。しかも王命。逆らえるはずもない。更には向こうへ行けば間違いなく王妃教育が待ち構えている。悠長にしている暇など到底なく、とんでもなく忙しい日々になるのは間違いない。
「ヘンリー様は……? ヘンリー様はどうなるのです?」
王命ともなればもう自分ではどうしようもない。
いっそ駆け落ちでもしてしまおうか、そんな仄暗い考えがよぎったがシンシアにはそれをするだけの度胸はなかった。もっと後先考えないタイプであれば実行したかもわからないが、シンシアはそれを実行した後の事を想像できるだけの頭があった。となれば、到底実行などできようはずもない。
愛する人と共にいたい気持ちは確かにある。けれどもそれは、国の存在を危うくさせてまで、とは思っていないのだ。この国にはヘンリーだけじゃない、他にもシンシアにとって大切な物や人が沢山ある。
ヘンリー一人を選んでそれ以外を捨てる覚悟までは、シンシアには無かったのだ。
「ヘンリー様もまた、新たなお相手が決まっている」
「そんな」
薄々わかってはいたけれど、こうして言葉にされると信じたくないという思いが勝つ。
シンシアは目の前が真っ暗になったような感覚に見舞われたが、別に目が見えなくなったわけでも閉じてしまったわけでもない。すぐに視界は元の状態に戻る。
ヘンリーの隣には自分がいるはずだったのに。
その隣を当たり前のように得る人が既にいる。その事実に何も思わないはずもない。
見知らぬその女に憎悪すら抱いた。だってそこは、本来ならばわたくしの居場所のはずなのに、とまだ諦めきれずにいる。そう簡単に諦められるはずもない。その人の隣にいるために今まで努力してきたというのに、それを奪われたのだ。簡単に諦められるような軽い想いなどではないのだ。
相手次第ではシンシアとて何をしでかすかわかったものじゃない……無理だろうと思ってはいるけれど、それでもそんな思いが胸中を渦巻いていた。
自分の中にこんなにもどす黒い感情があったなんて、と驚きはしたけれど、しかしこれはヘンリーへの想いも同然で、であればこれは当然存在して然るべきものなのだ。今までシンシアが見ぬふりをし続けていただけで。
「ヘンリー様は、この国より離れた海洋国家フィッテオルドへと向かわれる」
「フィッテオルド……同盟国より少し離れたところですわね……」
「あぁ、実は少し前から交易の打診があったのだよ。こちらは周囲の同盟国内での交易が盛んだろう? けれどもそれはほとんどが陸路。海路はそうでもない。
けれども、かの国が同盟に加わり海路からの交易も入れば、この国だけではない。他の国にとっても大いに有益なのだよ」
「それは……」
父の言葉が理解できないわけではない。
確かにそれはそうなのだ。
今までは周辺の国同士での交易が盛んであり、それもあって国は栄えていたようなものだ。けれどもそれ以外の国との交易は、となると同盟国内に比べればやはり劣るもので。
けれどもそこに海洋国家が同盟に入るとなれば。
利益は今まで以上が見込めてしまうし、この国だけではない。周囲の国もまた発展するだろう。
同盟のための……という結びつきでの結婚というのは珍しいものではない。
そして今回そこに丁度いい人物として選ばれたのがヘンリーだった。そういう事だろう。
国内での結びつきは既にかなり強固なものになっている。他の同盟国との結びつきを考えるにしても、下手な事をしてその関係に傾きがでるような真似は避けたかった。
けれども、片や王太子の嫁、片や此度同盟に入る王家との婚姻ともなれば、国内での結びつきよりも確かにそれは優先される。シンシアにもそれはわかっているのだ。
ただ、その当事者になっている、というのだけが受け入れられないだけで。
「お父様……一度、ヘンリー様とお話する事はできますか?」
「それくらいは可能だろう。陛下もそれくらいはお許し下さる」
シンシアの父は決して慰めからそんな言葉を言ったつもりではなかった。シンシアがヘンリーを愛しているのはよくわかっていたし、ヘンリーの初恋がシンシアであるというのも噂としてではあるが聞いていたのだ。だからこそ、という親心もあったが下手に未練を残されても困るというのも本心であった。
確かにヘンリーと結婚すればシンシアは幸せだろう。けれども、ヘンリーと結婚したとして国の利益にはそうならない。全くないわけでもないが、それよりも他国に嫁がせた方が確実にこの国のためになるのだ。
かの国の王太子は優秀な人物であると聞いている。それはエドワードが言っていたし、であればその言葉は大いに信用できるものだ。最初は多少上手くいかなくとも、いずれは――シンシアの父はそう信じるしかない。
――数日後。
シンシアの希望により、ヘンリーと会う事ができたのは思っていたよりは早い方だったと思う。
何せ突然の婚約の解消、いや、どちらかといえば白紙化とでもいうべきか。その後はあまりの速さでお互いの婚約が結ばれてしまったのだから、お互いそれぞれの準備に追われる状態でもあったのだ。下手をすればお互いに会う事なくそれぞれがそれぞれの国へ行く事もあり得たのだから、こうして会えただけでもシンシアにとっては胸がいっぱいになる出来事であった。
「やぁシンシア」
思っていた以上に元気いっぱいのヘンリーに出迎えられて、しかしシンシアは「あれっ?」と思った。
思えば彼と最後に出会ったのは友人たちとの茶会の時だ。その時はどこか御加減が悪いのかしら……と思うくらいには沈んだ様子だったというのに、今はそんな様子が微塵も感じられない。シンシアはむしろヘンリーに会った事で「あぁ、やはりわたくしの心を占めているのはヘンリー様だけなのね」とより一層想いが増すばかりだというのに、ヘンリーの様子からはシンシアと同じような感情は一切感じられなかった。
むしろ重圧から解き放たれたかのような清々しさすらある。
実際ヘンリーの胸中は清々しさで満ちていた。
何をどうすれば幸せになるのかわからないシンシアとの結婚は、彼女の事が初恋で今も好きではあるけれど、同時に幸せにできないかもしれない自分、というものを想像してしまって彼女との幸せな未来というものが全く想像できなかった。
彼女のためを思ってした行動であっても彼女のお気に召さなかったら。何かの折に所詮政略結婚ですもの幸せになんてなれるはずがなかったのですわ、なんてヘンリーの知らぬ場所で、それこそ茶会などで言われでもしたら。
そんな想像がヘンリーの意思とは無関係に浮かんでしまって。
シンシアが求めているものがわからない。
それがわかれば、せめて歩み寄るなりその幸せに添えたかもしれないのに。
これから先の人生答のない幸せを探してずっと生きていくというのはヘンリーにとって終わりの見えない地獄であった。
友人たちとの茶会に出ればシンシアが褒め称えられ、そして彼女の幸せの礎となれと言われているような気がして。シンシアの事は今でも好きだ。好きなのだけれど、このまま一緒にいても幸せにはなれないと思ったし、更には彼女の事を好きだという気持ちさえいずれは消滅してしまうのではないかと思ってしまった。
いっそ、彼女の事などどうでもいいものだと割り切ってしまえれば良かった。けれども、それはできなかった。好きという気持ちまで否定したいわけじゃない。しかしこのままでは、その気持ちすら自分自身で台無しにしてしまいそうで。
ヘンリーにとって救いだったのは、政略結婚であるという部分だった。国のため。自分のためじゃない。政略結婚だから、彼女の隣にいる事を許されている。そうでなければシンシアが自分を選ぶはずなんてないのだから。そういった思いがあった。
政略結婚などをしなくても良いのであれば。きっとヘンリーはシンシアへの想いを胸に秘めたまま、恐らく誰かと結婚する事もなく生涯を終えていたかもしれない。
その政略結婚によって自らが苦しむ結果となったというのに、ヘンリーにとってはこの政略結婚という部分が同時に救いでもあったのだ。
国のため。
そういう話であったけれど、これよりもさらに国のためになるのであれば、この婚約を解消する事もヘンリーはすんなりと受け入れる事ができた。そうだ。やはり自分にはシンシアは勿体ない。彼女はもっと、それこそ僕なんかより素敵な人と結婚すべきだ。
そして、そんな相手が現れてしまった。
シンシアがかの国の王太子と結婚すればこの国はますます発展するだろうし、更に自分よりも断然優れた相手だ。ヘンリーはエギオルダの王太子とそれなりに面識がある。
彼なら確実にシンシアを幸せにできる。そう断言できるくらいには、彼の事を信用している。
ヘンリーは自分とあの王太子なら王太子の方が何万倍もいい男だと笑顔で言い切れる自信しかなかった。
外見も中身もそれこそ非の打ちようがない。そしてそれは、同じくシンシアもだ。
そう考えればとてもお似合いである。
ヘンリーの脳内では僕が考えた最強に似合いの夫婦として二人の姿が浮かんでいた。
そしてヘンリー自身もまた今度同盟を新たに組む事になったフィッテオルドの王女と結婚する運びとなったが、そちらについては全く何も心配していなかった。
何せ向こうの国は少し前まで荒れていて、そのせいか文官よりも武官が多いせいで書類仕事が中々捗らないと最初に言われていた。
ヘンリーは王女の配偶者としては勿論、同時に文官の育成を任されている。
勿論彼自身も文官たちをまとめ上げるような立場になるけれど、最初から何を求められて何を望まれているのかがハッキリしている分とてもわかりやすいし、また何をすべきかというのも明確なので計画を立てやすい。
王女自ら戦陣に立つような国であるらしいけれど、自分に武は求められていないらしいのでそうなればのびのびと文官育成に精を出せるというものである。
ヘンリーは自分に才能があるとは思っていないが、それでも自分の得手不得手は理解している。
そしてこういったものは得意であった。
自分の特技が活かせて、尚且つこの政略結婚はお互いの国のためにもなる。シンシアだってそうだ。
お互いに国のために頑張ろう! ととても溌剌としてヘンリーはシンシアに激励を送った。シンシアが少しばかり解せぬ、みたいな顔をしていたような気がするけれどきっと気のせいだ。だってシンシアは完璧な淑女なのだから。そう簡単にヘンリーに感情を読ませるようなわかりやすい顔をするはずがない。
かくしてこの日、一組の男女の初恋は結ばれる事なく散ってしまった。
周囲の友人たちはそれらを悲劇のように捉えていたけれど。けれども二人の婚約も元は政略なのだ。国のためである、という部分を考えれば感情だけで酷いと言う事もできない。
二人の友人たちは生憎とそれらをよく理解できている者たちばかりだったので。
「――と、まぁ、こんなこともあったよね」
「あら実際はそんな顛末だったのですか。それはそれは」
数年後、執務室に届けられた手紙を読みながら、エドワードは己の妻であるソニアに当時の出来事を懐かしむように語っていた。
ソニアもまた二人の恋の行方をひっそりと見守ってはいたのだけれど、ある日より国の利益になると判断され二人の婚約は解消されそれぞれ他国へと嫁いでいった、程度にしか内情を理解できていなかったのだ。
ソニアはシンシアから時々話を聞いていたけれど、ヘンリーとはあまり話す機会がなかったのでシンシア寄りの情報しか知らなかったと言ってもいい。
ヘンリーもまた兄に何でも話すわけではなかったけれど、それでも兄は下手をすれば当人よりも内情に詳しかった。
「弟の初恋を応援する形で結んだ婚約だったけど、あのままだときっといずれは破綻していただろうからね」
「そのせいでシンシアさんは悲しい想いをしたでしょうに」
「それについては申し訳ないと思っているよ。けれども、私は弟の幸せが大事なんだ」
食えない笑みを浮かべて言うエドワードに、ソニアはまぁ、相手が悪かったとしか言えませんわね……と内心で独り言ちた。
シンシアがヘンリーを好きで好きでたまらないというのはソニアもわかってはいた。
そして友人たちは二人の仲を応援してはいたのだ。
ただ、それをちょっとネガティブ炸裂させたヘンリーが重く受け止め過ぎてしまった。
ヘンリーの内心に気付いてシンシアがせめて何か、彼の心を軽くする事ができていたならば。勿論結果は異なっていただろう。
シンシアが幸せでいるためには、隣にヘンリーがいる事が不可欠なのだと。
もっとわかりやすく伝えていれば、彼はああまでして幸せの定義とやらに悩む事はなかった。
ヘンリーは自分が何かを成し遂げる事でシンシアを幸せにしなければならない、という一種の強迫観念に囚われてしまっていたのだから。
友人たちも、シンシアを持ち上げるような形ではなく、もう少し別の言い方をしていれば或いは。
そうすれば、あの二人は今頃きっと夫婦になって子供の一人くらいは生まれていたかもしれないのだけれど。
悲しいかな実際はそんな未来は訪れなかったのである。
「ま、私から言わせてもらえば初恋なんてのは実るほうが少ないからね。こうなったのはある意味で仕方がなかったのかもしれない」
「あらあら、自らの手で二人を引き裂いておいて? あの二人の結婚先を決めたのが貴方であると知られたら、シンシアさんだけではなく、お二人の友人たちからも恨まれかねませんよ?」
「あぁ、問題ないさ。見てごらん」
そう言ってエドワードは読んでいた手紙をソニアへと渡す。
思わず受け取ってしまったソニアは、言われるままに手紙へと視線を落として――
「あら、まぁ。最初の頃の悲壮感はどこへやら。今ではすっかり幸せみたいですね」
「そうだろう? それにね、こっちも見てみるといい」
今度は別の手紙を渡されて、ソニアはそちらにも目を通した。
「あらあら、ヘンリー様もどうやら向こうで元気いっぱい過ごしていらっしゃるようですね。文面から滲み出ているのがわかりますわ」
「あぁ、弟も幸せそうで私は嬉しい。確かに初恋が実らなかったのは悲しい事かもしれないけれど。でも、今が幸せならその思い出はきっと綺麗なままだ。
下手にあのまま二人をくっつけて思いつめた弟が自殺でもしていたら、きっと思い出すのも苦いものに変わっていたかもしれないのだからね」
「それはそれは……」
ソニアは相槌を打とうとしたものの、すぐに適切な言葉が浮かばなかった。
あのヘンリーがそう簡単に自らの命を手放すだろうか、と思ってしまったのだ。
いや、当時の彼は確かにそれなりに思い詰めていたようだし、あのままの精神状態であったならそうなった可能性がない、とは言い切れない。
今のこの手紙から滲み出ている幸せいっぱいです、みたいな状態のヘンリーなら間違いなく命を自らの手で失わせるような事はしないだろうけれど。
当時の話をエドワードから改めて聞かされて、確かにあの二人はお互いを想い合っていたけれど、だがそこには温度差があったのも、そして周囲も色々と言葉が足りていなかったのも今更ではあるがよく理解できた。
ソニアは直接的にはほとんど関わっていなかったので、当時の事についてはふんわりとした情報しか持ち合わせていなかったのだ。
だからこそ二人の婚約が解消されて、それがさながら思い合う二人を引き裂かれた悲恋のような話になっているのを聞いても特にそれをおかしな話だとは思いもしなかった。
それもまぁ、今二人から届けられた手紙を読めば悲恋なんてありませんでした、となりそうではあるのだが。
初恋が実らなかった傷は確かにあるのだろう。
けれどもシンシアはそれでも前を向いて、王太子と向き合う事を選んだ。いつまでもめそめそしていられる余裕はないし、彼女にはやらなければならない事がそれこそ山とあったのだから。
努力の甲斐あって今では立派な王妃として認められているらしく、そして夫とは最初こそぎくしゃくしていたものの今では愛し愛され幸せいっぱいの日々を送っているのが文面からも窺える。
ヘンリーもまた文官を育てる、という部分で多少の苦労はあったようだけど、随分と充実した日々を過ごしているようだった。
ついでに先日子供が生まれたという一文を見て、王女――今はもう女王と言うべきか――とも上手くやっているらしい。
海洋国家が同盟国に参加した事で、周辺の国も色々と利があったしいくつかの地域は海洋国家を相手にした商売などで発展する事にもなった。少し前までは周辺の同盟国との結びつきもややギリギリな部分があったように思えたが海洋国家が参加した事でそのギリギリ感も大分薄れている。
一組の男女の恋が破れ散ってしまった、と思えば当時であれば悲恋だなんだと言えたかもしれないが、今の状況から見れば――
「なんだかんだ大団円だと思わないか?」
悪びれもせずに言ってのけた夫に、ソニアとしては苦笑を浮かべるしかなかったのである。