39 絆と責任感
「そのような過去が、あったのですね」
景紀から己と冬花の過去について聞かされた宵は、いつも通りの平坦な声音でそう言った。
過去を知らされた驚きも、冬花に流れる妖の血に対する恐れも、その声や表情からは感じられない。昨日、景紀に抱きついて泣いていた少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。
景紀と宵は今、冬花が寝かされている部屋にいた。
冬花は景紀の警護役であり、彼の部屋の近くに彼女は部屋を与えられている。
今朝、宵が目を覚ました時、寝所に景紀の姿はなかった。周囲の部屋を探してみると、この部屋にいたのだ。
どうやら、昨夜、宵が眠るのを確認してからずっと、冬花の傍にいたらしい。景紀の表情からは寝不足の者特有の、倦怠感のようなものを感じさせた。
自分を置いて冬花の傍に居たことに対して、宵は特に嫉妬を覚えなかった。
景紀は自分が眠りにつくまではずっと傍にいてくれたのだし、彼が冬花を大切に思っていることは宵も理解している。
朝早いこともあり、冬花の部屋の周囲は静かであった。
冬花が起き出した時に寒くないようにと、景紀は部屋に火鉢を持ち込んでいた。
そうした主従の思いやりを、宵は微笑ましく思う。
「しかし、お話を聞くと、今の冬花様と昔の冬花様とでは、随分と印象が違いますね」
「冬花は、冬花なりに頑張ったんだよ」
そう言って、景紀は優しい視線で眠り続ける冬花を見た。
「そうでなけりゃ、学士院に在学中、ずっと首席でいられるわけがない」
「景紀様も、同じようであったと聞いています。兵学寮で常に首席であった、と」
「そりゃ、俺はこいつの主だからな。己の従者に負けるなんて、格好悪いだろ?」
「少し、妬けてしまいますね」
やはり淡々とした声で、それでもどこか微笑ましげに、宵は評した。
「ただ、景紀様と冬花様の過去に関して、少しだけ疑問があります」
「何だ?」
「冬花様のご母堂様が景紀様の乳母であったということですから、そのことで冬花様と乳兄妹の関係になったことは理解出来ます。しかし、お話を聞く限りでは、冬花様は幼少期からすでに家臣団の間で不気味に思われていたとのこと。そのような子を産んだ母を、次期当主の乳母としたことに、少し意図的なものを感じるのです」
「……俺には、兄二人と姉一人がいた」
少し、表情を苦いものにして、景紀は唐突に語り出した。
「過去形からも判る通り、全員死産か赤子の頃に死んだ。俺は顔も知らん。父上の正室、つまりは俺の母上が男児を一人、俺を含めて二人、側室が男児と女児を一人ずつだ。今、父上の子で生き残っているのは俺一人だ」
この時代の乳幼児の死亡率の高さを考えれば、珍しい話ではなかった。
「だから父上は、何としても次に生まれる子だけは守る必要があった。そこで、結城家の呪術的守護を担っている葛葉家に白羽の矢が立った。母体と腹の赤子、そして生まれた後の赤子の守護と養育を任せよう、ってわけだ。つまり、冬花は彼女の母親が俺の乳母になるために、意図的に生まれることになった子なんだ」
主命とあれば、家臣は多少の無茶にも従わねばならないだろう。それが次期当主のためのものとなれば、結城家と存続させるためのものとなれば、なおさらである。
「冬花が生まれたのは、俺のためなのか、俺の所為なのか、幼い頃の俺は悩んだよ」
白髪の少女を見つめる少年の視線は柔らかく優しく、そしてどこか悲しげでもあった。
「こいつは幼い頃から、こんな容姿の所為で城の連中から疎んじられ、蔑まれていた。同年代の家臣の子供たちからは、明確に虐められていた。いくら初代葛葉家の人間と容姿が同じだからといって、初代を実際に見た奴なんてもう誰一人いないんだからな。不気味がられるだけだった」
「それは……」
宵は何と言えばいいのか、判らなかった。鷹前での自分と重なる部分があるが、それでも自分は当主の娘であった。疎んじられることはあれど、虐められたことなどない。
自分と冬花の境遇は、似て非なるものなのだ。
安易に理解を示すことも、同情を示すことも出来なかった。
「俺は、納得出来なかった。冬花は、俺の所為でこの世に生まれたようなもんだ。そんな子が、周囲から不吉の子だ何だと言われて疎まれ、蔑まれ、孤立して……それで自分なんて生まれてこなければ良かったなんて思ったら、全部俺の責任だ。ああ、それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。冗談じゃねぇ」
どこに向ければいいか判らない怒りを、景紀は言葉にして吐き出しているようだった。宵が見れば、彼は膝の上で拳を握りしめていた。
宵は、凜々しい印象を受ける冬花のことしか知らない。そんな少女のか弱い一面を、そしてそんな少女に対する景紀の決意を知らされるということは、自分はこの少年から信頼されているということだろうか?
「それを、私に話してしまって良かったのですか?」
だから思わず、宵はそう訊いてしまった。
「お前は、冬花を気味悪がらなかったからな。それに、俺の妻の立場を利用してこいつを蔑ろにしようとしなかった」
恐らく、景紀の中で冬花という存在は他者を評価する基準の一つになっているに違いない。
妖狐の血を色濃く引く少女の容姿を不気味がらないか否か、それに加えて自分は景紀の正室の立場を利用して冬花を遠ざけないか否かという点も試されていたことだろう。
「だから、俺はお前に礼を言わなくちゃいけない」
そう言って、景紀は宵に頭を下げた。
「ありがとうな、冬花を受入れてくれて」
「いえ」少し慌てたように、宵は両手を振った。「冬花様は、私にとっても初めて出来た同年代の友人ですので」
「暴走したこいつを見て怖かったかもしれんが、どうかこれからも冬花に偏見無く接してやって欲しい」
「いえ、むしろ冬花様は私を守ろうと必死でした。私も、父があのような暴挙に出るとは予測出来ませんでした。ですからあれは、私の失態でもあります」
そこで一旦、宵は言葉を切った。続ける言葉を、景紀に言っていいものかどうか、少しの間だけ悩んだ。
「それに、私はあの時、冬花様が激しい責め苦を受けているのを知っていて、彼女を見捨てました。父は、私が父を陥れようと画策していると思い込んでいたらしく、その企みを吐けと脅してきたのです」
「……お前は、正しい判断をした」
固い声で、景紀は言った。彼を不快にさせてしまったかと、宵は少しだけ体を強ばらせた。叱責がくるかもしれないと思ったのだ。
だが、景紀の口から宵を責める言葉は出てこなかった。
「そのことで、俺はお前を責めようと思わない。そしてお前も、そのことを負い目に思う必要はない」
「申し訳ございません」
宵は頭を下げた。大切に思う少女の悲痛な声を無視したのだから、景紀も気分が良くないだろう。
「いや、良いんだ」
しかし、景紀の声はどこか申し訳なさそうな響きが混じっていた。自分の態度が、宵を怯えさせてしまったと気付いたのだ。
「お前は、変に責任感が強い。冬花を甚振ったのは佐薙成親とあの怪僧だ。被害者のお前まで、責任を感じる必要はない」
「……判りました」
負い目は消えないが、景紀がそう言ってくれるならば、宵はそれに従おうと思った。
「それにな、俺が冬花に対して思っていることは、お前に思っていることでもあるんだぞ」
「……?」
景紀の言葉の意味が判らず、宵の頭に疑問符が浮かぶ。
「お前は、俺に嫁がされたんだ。お前が、結城家の一員となって後悔するような生き方はしてもらいたくないし、そう思ってしまったらそれは俺の責任だ。そういうのは、嫌なんだよ」
「景紀様も、責任感の強い方だと思いますよ」
やはり、この人は自らに親しい人間には甘いな、と宵は思った。
先ほど、景紀は自分のことを“変に責任感が強い”と評したが、それは彼自身にも当てはまるだろう。彼は、身近な人間に対しては責任感が強いのだ。
「別に、俺は責任感が強いとは思っていない」
だが、景紀の言葉は宵の評価とは正反対のものであった。
「俺はお前と違って、将家次期当主としての責任を果たしたいとは思っていない。以前、お前も言っていただろう? 俺が人間関係を煩わしく思って政治の世界から逃げ出そうとしている、ってな」
「確かに、政治的な責任感と、近しい者に対する責任感、私と景紀様とでは責任感の内容が違うにせよ、そこに貴賤をつけるべきではないと思います」
「俺のは単に、自分の矜持を守りたいだけだ。冬花を蔑み、傷付けた奴らと同じになりたくない、ただそれだけだ」
「それでもよろしいかと思います」はっきりとした口調で、宵は断言した。「私は、景紀様のそうした面を好ましく思っておりますし、それに救われました」
「そう言ってくれると、助かる」
少しだけほっとしたような笑みを、景紀は宵に向けた。
「ただ、少し我が儘を許していただけるならば、そうした責任感だけで接されるのは、いささか寂しくはあります」
宵の言葉に、景紀はわずかばかりの驚きを顔に浮かべた。
床入りの儀で自らの政治的役割を欲していた少女は、別の欲しいものを見つけたようだった。確かに、互いの責任感と義務感だけで繋がっている夫婦というのも、味気ないだろう。
「景紀様と冬花様の絆の深さを見ていますと、私ももう少し、景紀様との関係に欲が出てしまいます」
宵の顔はいつも通りの無表情だったが、声にはいささかの羞恥が混じっていた。
景紀の口元が、苦笑交じりの微笑みを形作る。
「それはまあ、何というか、確定でやれると答えられるもんじゃないが……」
「構いません。私は、いつまでもお待ちしておりますので」
そう言って、宵は丁寧に頭を下げた。
その声には、床入りの儀の時のような硬い覚悟の響きはなく、ただ柔らかい親愛の情が籠っていた。
◇◇◇
宵は冬花の居室を後にした。
冬花がいつ目覚めるかは判らないが、なるべく景紀と二人きりにさせてあげた方がよいと思ったのだ。それに、あのようなことを言った後で景紀の傍に居続けるには、いささか羞恥心が勝っていた。
冬の明け方の冷たい廊下を、宵は寝室へと向かって戻っていく。
ふと、そこで視界の端に人影が映った。
自身と景紀の寝室もある、結城家当主の私的空間に造られた庭園。その木の傍に、人影を見つけたのだ。
「……そこで、何をしているのですか?」
見れば、朝比奈新八が幹にもたれ掛かっていた。
「おや、見つかってしもうたな」
「わざと私に見つかるようにしていたのでしょう?」
宵の問いかけに、新八は軽薄そうな笑みを返すだけだった。
「それで、景紀様に御用ですか?」
「今、若は取り込み中か?」
「ええ。私でよろしければ対応させていただきますが?」
「まあ、どっちに伝えたところで同じやし、まあええか」いい加減そうな口調で、彼は続けた。「んで、若のやっとった情報操作の方で、攘夷にかぶれた不逞浪士がお姫さんを誘拐、そんで若を誘き出して殺そうとしたって噂の方は、上手く流れていっとるぞ」
新八は昨日、佐薙成親の追跡を行った後、夜になってから屋敷に戻り、酒場などを巡って牢人や労働者たちに結城家が操作した情報を流す任務に就いていた。
宵の父親である成親は、娘が攘夷派浪士に攫われ、それを自身が助けたという筋書きを描いていたようであるが、そちらは不発に終わったらしい。
原因は、新八が佐薙成親があの廃寺の傍に繋いであった馬を殺したこと、そしてその後も新八が執拗に妨害して成親が屋敷に帰るのが遅れたため、対応速度において結城家が上回ったからだ。
さらに結城家は、有馬家とも繋がりがある。景紀は即座に有馬家に使者を出し、有馬派の人間が大臣を務める内務省へ、情報操作のための根回しを行った。これによって新聞検閲などによって、十五歳の少女すら標的とする攘夷派の過激さとそれによる危険性を煽る記事のみが市中に出回るよう手配。
加えて、警察を管轄している内務省は、事件現場となった廃寺についても適切な処理を行った。
隠密を持つ諸侯など独自の情報網を持つ者たちの中には事件の真実に気付く人間もいるだろうが、公式の情報を確定させてしまえば、問題はない。
「まあ、まだ今朝の新聞は市中には出回っておらんから、皇都の人々がどう反応するかは判らん。でも、牢人の中には、流石にやり過ぎだって声もあったな。連中、未だ自分たちは武士だと認識しとるから、女子供に手を掛けるのは恥と思うとる部分もあるからな」
「判りました。後ほど、景紀様にお伝えしておきます」
少なくとも朝食の時間までは、あの人を冬花の傍にいさせてやるべきだろう。
宵の見るところ、景紀は情報操作に対する命令は一通り下しており、新八の報告からも新たに景紀が命令を下す緊急性はなさそうであった。
だからこそ、彼も宵に報告することにしたのだろうが。
「そんじゃ、僕はこれで」
新八は、木の影に溶け込むようにして姿を消した。
「……」
宵はしばらく、そのまま廊下に佇んでいた。
情報操作に関する工作は、上手くいきそうである。そうなると、残る問題は父である佐薙成親の存在か。
宵は、嶺州鉄道建設請負契約を破談にしたくはない。しかし、父親の存在が景紀にとって障害となり得ることも確かだろう。
昨日、貴通とかいう景紀の兵学寮同期生も言っていたではないか。
景紀があのような男によって足を引っ張られることを望まない、と。宵も、それには完全に同意出来る。
嶺州の振興と、父親の失脚。
「……」
宵は瞳にある決意を宿して、今来た廊下を逆戻りし始めた。




