12 国防問題
宮城の堀沿いにある廟議堂は、上空から見ると鳥が翼を広げたような形をした木造建築であった。
両翼にそれぞれ三階建ての棟があり、向かって右側が列侯会議本会議場、左側が衆民院本会議場となっていた。
建物は洋風建築を取り入れながらも、屋根などは城の天守や櫓を思わせる造りとなっているなど、いわゆる帝冠様式と呼ばれる建築様式であった。
今年は十二月下旬から列侯会議、衆民院の常会が開会されるということもあり、すでに多くの諸侯たちが上京しており、地元の選挙区を回っていた衆民院議員たちも皇都へと集結しつつあった。
そして、その廟議堂から少し離れた場所に、華族会館という名の建物が存在していた。華族同士の交流や社交の場として造られた建物である。
景紀と宵の婚儀が執り行われてから数日後、華族会館の会議室では六家当主陣による会議が行われていた。
いわゆる「六家会議」と呼ばれるもので、議会の開催期間中でなくとも、政治上、必要があれば六家の誰かの呼びかけで開催される。
あくまで六家が独自に開催する会議であり、列侯会議や衆民院、あるいは閣議などと違って公式なものではない。従って、公式な議事録も残らない(ただし、私的な議事録は各家が作成している)。
しかし、列侯会議にて拒否権を持つ六家による会議だけに、その政治的影響力は無視出来ないものがあった。世間や後世の人間たちからは、「もう一つの閣議」、「影の内閣」などと揶揄されるほどである。
「大蔵官僚どもは、国防の重要性をまるで理解しておらん。まったく、けしからん連中だ」
ただ、その内実を知る景紀からすれば、そこまで大層なものではないと思っている。
目の前で単に不満を述べている人物を見ていると、なおさらそうした思いは強くなる。
当主代理という立場であるが故に、景紀はこの会議に参加していた。
政治・外交・軍事に関する会議であるとはいえ、表向きにはあくまでも私的な会議ということもあり、執政などの官僚系統の家臣はどの家も同席していない。一方で、用人系統の家臣が補佐官として部屋の壁際に控え、それぞれの家が私的な速記録をとっている。
景紀の場合は、冬花がその役割を担っていた。
「近年の西洋列強の傲岸不遜ぶりは、目に余る。ここで国防を疎かにしては、アヘン戦争で敗れた斉の二の舞になる」
険しい表情のまま、苛立たしげに言っているのは伊丹正信。六家の一角、伊丹家の当主ですでに齢五十を過ぎている。
「伊丹公のおっしゃる通りです。さらには近年、我が国近海に出没しているヴィンランド合衆国にも警戒は必要でしょう」
伊丹正信の発言を受けて続けたのは、一色公直であった。未だ二十八歳と若く、この場に集まった六家当主(一人は当主代理であるが)の中で、景紀に次いで若い人間だった。
「我が国は本土を海に囲まれている一方、大陸にも植民地を持っています。故に、陸海軍を一律に増強することは必須でしょう」
現状、六家の中でこの二家が対外強硬派・軍備拡張派であった。
「とはいえ、大蔵官僚の言うことにも一理あるのではないか?」
頼朋翁の息子で、現有馬家当主の有馬貞朋が発言した。年齢は四十代後半で、父親の傀儡と陰口を叩かれながらも、年上である伊丹家当主に対して臆した様子はない。
もっとも、あの父親に常に接していなければならないとなれば肝も太くなるだろうが、と景紀は思っている。
「陸軍の常備兵力平時二十五個師団、海軍は装甲艦六隻、巡洋艦六隻、航龍母艦六隻を中核とする新艦隊を整備するとはいうが、来年度予算だけでその半分を軍事費に充て、さらにそれらを維持するための経常予算も考えれば、長年にわたって皇国財政を圧迫することは目に見えている」
「貴公は皇国が西洋列強の植民地となっても構わんというのか?」
威圧するような口調で、伊丹正信は言う。
「貴公こそ、戦国時代の教訓を忘れたわけではあるまいな?」だが、有馬公は間髪を容れずに切り返した。「軍事費が大名の財政を圧迫し、それ故に内部から崩壊していった者たちがいたことを。それこそが、我が六家が皇主陛下を頂いて戦乱を収めた理由であったろうに」
「今は戦国時代とは違いましょう」
伊丹正信を援護するのは、当然ながら一色公直。
「各種国家制度が未成熟であった当時と違い、今はしっかりとした税制が整えられている。植民地からの収益もある。戦国時代の大名と、今の皇国の財政を単純に同一視するのは如何なものかと思いますな」
「国家予算の半分を軍事費に注ぎ込むような財政が健全だとでも、貴殿は言うつもりか?」
「それでは早晩、国家財政が破綻するでしょうな」
一方、有馬貞朋と意見を同じくするのは、長尾家当主の憲隆であった。
「財政が破綻すれば、他国に付け入る隙を与えることになる。植民地を売り渡し、国内の鉱山や港湾の利権を売り渡し、やがて我が皇国は戦わずして他国の植民地に成り下がるでしょう」
「貴公らは皇国は国防を充実させる必要はないとでも言うつもりか!?」
いっそ叱り付けるような調子で、伊丹正信が怒鳴った。対外強硬派、国内の攘夷派からは盟主のように見られている彼にしてみれば、有馬公や長尾公が軟弱者に見えるのだろう。
「いや、常識的範囲内での軍備充実には私も反対しない」長尾憲隆は言う。「ただし、そのためには軍備の重点を定める必要がある。一色公が言うように、我が国は海に囲まれておる。当然ながら、海軍の充実こそが優先課題であろう。とはいえ、六六六艦隊を一気に実現することは不可能であろうが」
「……」
「……」
伊丹公と一色公が、険しい表情になる。特に自身の発言に付け込まれる形となってしまった一色公直の表情は、長尾公を睨むようなものとなっていた。
さて、政治と軍事の両面に多大な影響力を持つ六家であったが、実は海軍に関してだけはその影響力が他に比べて小さかった。
皇国海軍は戦国時代の各大名が保有していた水軍や私掠船を元に創設されたものであるが、その水軍にしても、元々は各地の海賊衆を組織化したものであった。それ故、海軍は六家に対して独立独歩・政治不干渉の姿勢が強かった(とはいえ、自らの軍備など海軍の職掌範囲に関わる問題については積極的に発言力を行使するので、困った面もあるのだが)。
海軍だけを増強すれば、相対的に陸軍に大きな発言力を持つ六家の既得権益が損なわれる。
だからこそ、伊丹正信と一色公直は長尾憲隆の発言に不快感を示しているのであった。陸軍と海軍の同時増強という、財政規模を無視した軍備増強を主張している理由も、そこにある。
海軍の増強は必要だが、それに応じて陸軍も増強しなければ、六家の軍事的影響力を維持出来ない。そう、彼らは考えているのである。
問題は、その主張に国内の強硬な攘夷主義者たちが同意している点であった。
とはいえ彼らも一枚岩ではないので、海軍の増強を認めることで攘夷主義者たちの批判を躱し、攘夷派を政治的に分断することも可能といえば可能であった。
「私も、海軍を増強すべしという長尾公の意見に賛成です」
今まで黙っていた景紀が、発言した。あえて長尾公という部分を強調していた。
佐薙家との対立を抱える長尾家に対して、自分は長尾家に対して隔意を抱いていないということを暗に示したのだ。
「ほぅ、結城従五位殿は陸軍兵学寮首席であったというが、なかなか海軍のことにもお詳しいようだ」
すると、一色公直が嫌味のように言う。景紀よりも十以上年齢が上であるのだが、彼は陸軍兵学寮でついに首席になることは出来なかった。一方の景紀は、入学時も卒業時も兵学寮首席であった。
そうしたある種の劣等感が、景紀への反発となっているのだろう。
ちなみに、景紀の官位である従五位は、通常、華族の嫡男が叙せられる位階であった。だから一色が彼を従五位と呼ぶことは間違っていないのだが、すでに公爵位を継いでいる一色公直にとってみれば、景紀を見下す意味も込められているのだろう。
「是非とも、海軍増強の必要性とやらを結城従五位殿にご説明いただきたいものだ」
一色公直の口調には、相手の粗探しをしようとする人間特有の粘着質な響きがあった。
「我が皇国の発展の道は、海上交通路の保護にあるからです」
景紀は淀むことなく、己の主張を述べ始めた。とはいえ、内心では何故今さら海上交通路の重要性を説かなくてはいけないのだ、と思っている。
それと、背後の冬花の機嫌がまた悪くなりそうだな、とぼやきにも似た思いを抱く。あとで宥めないとな、とどこか暢気な考えを頭の片隅に浮かべながら、景紀は続けた。
「本土を海に囲まれ、中央大陸の沿海州と氷州、新大陸の日高州、泰平洋の高山島や新南嶺島、南洋群島を植民地として治める我が国は、本土の植民地との連絡線の確保こそ重要となります。大陸の森林資源と鉱産資源、高山島の米、南洋群島の砂糖、新南嶺島の金や椰子油(石鹸、蝋燭の原料となる)は皇国の国民生活や工業生産と密接に結びついており、この海上交通路を遮断されれば資源に乏しい本土だけでは皇国は立ちゆかなくなります。戦国時代終結後の海外進出も、根本にはこうした資源問題が関わっていたことは、皆様もご存じかとは思います」
「確かに、島を守るには海軍力の整備も必要だろう。だが、我が国は沿海州や氷州で斉やルーシーと、さらには日高州でアルビオンの新大陸植民地と国境を接している。従五位殿はそのことを忘れているようだが?」
「一色公も、大陸に展開する軍を維持するには、本土と大陸間の海上交通路が必要であることを失念しておられるのでは?」
当たり前のことをわざわざ説明させられて苛立っていたので、景紀はついつい挑発的な反論をしてしまった。ちょっと失敗したかな、とは思うが、冬花あたりはこの対応に満足しそうだ。
「そして、仮想敵国であるルーシー帝国の陸軍総兵力ばかりに注目して、それに対抗する陸軍常備兵力を考えているようですが、本当にその必要があるのですか?」
「寡兵を以て衆を討つことが可能だとでも?」一色公直は嗤った。「血気盛んで夢見がちな若者らしい意見ですな。大軍を擁する側が有利であることは自明の理だというのに」
「単純に兵力移動のための交通網の整備状況の問題です」
景紀は一色公直の発言を、あえて無視した。
「ルーシーの中心地は、大陸の西側。大陸東方にも領土を広げ、我が氷州と接する西シビルア地方まで領土を拡張していますが、この地域の鉄道網は未発達です。すでに氷州や沿海州に鉄道網を整備している我が国に比べ、東洋方面に兵力を展開する速度に劣ります。また、ルーシーは西部国境においてプルーゼン帝国との対立を抱え、さらには南下政策の推進によってアルビオン連合王国などとも大陸中央で対立を続けており、仮に我が国と戦争になったとしても、その陸軍全兵力をシビルア方面に展開することは不可能です」
「ルーシーは西シルビア地方まで伸びるシビルア大陸横断鉄道を計画中だと伝えられている」
伊丹公が口を挟んだ。心なしか、苦々しい口調だった。
「連中が鉄道を完成させれば、今、貴殿が言ったような優位性は失われる。そうなってから軍備を増強しても遅いのだ」
「海軍力の整備は、より時間が掛かります」景紀は反論した。「軍艦の設計から建造、乗員の訓練を考えれば、一定規模の艦隊を整備するのには五年、十年という時間が必要です」
六家の自分が海軍増強論を唱えるのもの妙な気分ではあったが、現状の国際情勢を考えれば妥当なところだろうとは思っている。
それにしても、長尾公も少しは反論に加わってくれないだろうか。もっとも、長尾憲隆も結城家がどこまで自家の味方をしてくれるのか見極めたいところであろうから、口を挟んでくることはないだろうが。
面倒な気分になりながらも、景紀は続けた。
「それに、将来的なルーシー帝国の脅威よりも、本土や植民地周辺に出没する異国船の方が差し迫った脅威でしょう。特にヴィンランド合衆国による捕鯨船が我が国の泰平洋植民地各地に出没し、漁民たちを脅かしています。さらに我が皇室と姻戚関係を結ぶペレ王国からも、漁民の保護のために艦隊の派遣を要請されているというではありませんか。また、北洋漁業についても、やはりヴィンランド船による脅威に晒されています」
秋津海に面する長尾家は沿海州や氷州に、一方の泰平洋に面する結城家は南洋群島や新南嶺島に多くの利権を持っている(日高州は北溟道の延長として、中央政府が開拓を担当している)。結城家の影響下にある南洋総督からは、実際に大規模な艦隊の常駐を要請されていた。日高州の総督府からも、拓務省に対して艦隊派遣の要請がなされているという。恐らく、長尾公の元にも沿海州や氷州の総督府からも同様の要請が届いているはずである。
そのため、海軍力の増強というのは、結城・長尾両家にとって共通の利益となる。
だからこそ、景紀はあえて長尾家が中心となって管轄する北洋漁業にも触れたのだ。
実際問題、長尾家にとってこの問題はそれなりに深刻であるはずだった。本州の北、秋津海に領地が面する長尾家は、秋津海や北溟道・榧太周辺の北溟海へと通ずる海峡の管理も行わなければならない。
しかし、出没する異国船の数に対して皇国海軍沿岸警備隊の海防艦の数は十分とはいえなかった。現状は、旧式化した巡洋艦(中には蒸気機関を搭載していない帆船すら存在していた)などを充てて数を確保している状態である。
長尾憲隆が六六六艦隊計画に否定的であるのは、そうした意味があったのだ。
艦隊決戦のための大艦隊を整備するよりは、海上交通路を保護する艦艇の整備を。それが、長尾家の本音なのである。だからこそ、景紀はあえて海上交通路の重要性を説くことで、長尾家に敵対的意図を持たないことを示す必要があったのだ。
そして海上交通路の保護だけでなく、海上からの攻撃から本土を守るという海防問題は六家共通の問題であり、伊丹家や一色家としても容易に反論し難い面があった。
また同時に、国家財政を破綻させかねない海軍の六六六艦隊計画を潰すという意味も含まれている。景紀は海軍の代弁者になるつもりはなかった。
「まったくもって、結城殿のおっしゃる通りですな」ここに来て、ようやく長尾憲隆が再び口を開いた。「実際、我が家が大陸に持つ情報網によっても、ルーシー帝国はシビルア鉄道の路線の決定はおろか、地形の測量にも取りかかれていないようです。当面は、シビルアへの輸送は馬匹頼りにならざるを得ないでしょうな」
これで有馬・長尾両家への義理は果たしたし、有朋翁にも言った通り、次年度予算を常識的範囲内に納めることが出来るだろう。
今に至るまで積極的に発言を行っていない斯波家にしても、結城・有馬・長尾三家が結託している以上、六家会議の場で形勢不利となっている伊丹、一色家側には付こうとは思わないだろう。そもそも、官僚組織や政府に持つ派閥や経済力、植民地利権という意味では、現状、六家の中で斯波家が一番弱小なのだ。余計な発言をして、残りの五家の反感を買いたくないのだろう。
もっとも、中立を貫くことがいつも賢明であるとは限らないのではあるが。
それに加えて、今代の斯波家当主は政治に無関心であることで有名だった。領地の居城に広大な庭園を築き、その手入れをするのが趣味なのだとか。城内に、和、洋、中すべての様式の庭園を造り上げたらしい。それと、美術品の収集にも熱心であり、さらに芸術家たちを金銭的に支援しているという。
歴史上、政治的には暗君であったが、文化的には重要な役割を果たした君主というものは存在する。斯波家当主の在り方が、必ずしも悪いものとはいえないだろう。
とはいえ、景紀は趣味に没頭出来て羨ましく思う反面、将来的には財政難などで痛い目を見そうだな、と考えている。
やはり、将来楽をするためには、今、苦労しておかなければならないだろう。たとえ、今がどれほど面倒であろうとも。
「六家会議」のモデルは「五相会議」です。ただ、拒否権に関しては安保理常任理事国のそれです。
ちなみに、大正十年(一九二一年。この年の十一月よりワシントン会議が開かれた)の日本の国家予算に占める陸海軍予算の割合は四八・一パーセント(海軍三一・六パーセント、陸軍一六・五パーセント)と、尋常でない数字になっています。
作中では、「八八艦隊計画」が「六六六艦隊計画」になっておりますが、作中の時代背景ですと巡洋艦という艦種は生まれていますが、戦艦という艦種は生まれていません(その萌芽的艦艇は存在していますが)。
史実では、仏装甲艦グロワール(一八五九年)、英装甲艦ウォーリア(一八六一年)が戦艦の嚆矢的存在とされています。一方、巡洋艦は一八七〇年代前半には英露で登場しています。
作中の世界でも、あと十年か二十年すれば本格的な近代的戦艦が登場することでしょう。
さて、少し問題なのが満洲(に、相当する地域)を巡る国際関係でしょう。
現実世界における東シベリアに相当する地域を支配している皇国ですが、この地域は気候的・地形的な問題から農作物があまり作れないそうです。そのため、現実世界のロシアにとって満洲の農作物確保は大きな問題だったのだとか。
日本にとっても、満洲大豆は肥料の元になる重要な作物でした。
作中世界でも西シベリアに相当する地域までルーシー帝国が進出してきていますが、東シベリアが手に入っていない分、国内における工業化問題や農村の困窮問題は現実世界のロシア帝国以上に深刻化し、満洲(に、相当する地域)を狙うようになるでしょう(蔵相時代のウィッテなどは、シベリア鉄道の敷設とシベリア開拓のための農民の移住政策でロシアの近代化を成し遂げようとしていました)。