File.3 13歳 ??
いつもとは少し毛色の違う作品となりました。ある意味で番外編のようなお話です。
「ねーママぁ!きょうの夜ごはんなに?」
「今日はねぇ、パパが帰ってくるからトンカツにするのよ」
「ほんと?!早くかえろ!お腹すいたー!」
「そうね、じゃあママと競争しよっか!」…
夕方。赤く染まった空を見上げながら窓の縁にもたれ掛かっていると、外の道を歩く人々の話し声が聞こえてきた。水で割ったウィスキーを傾け、暖かな南風に揺られる。あまりの心地よさに、思わず大きなあくびまでしてしまう。我ながら無防備過ぎるな…と心の中で苦笑しつつ、目を閉じてのどかな時間に身を任せる……
……おっと、危うくグラスを取り落とすところだった。時計を見ると、時刻は6時を少し回ったところであった。いけないいけない、そろそろ夕食を作らなくては。
キッチンに向かい、買っておいた食材をいくつか取り出す。大根の皮を剥き、厚めに半月切りする。生姜は千切りに、豚肉も適当にぶつ切りにしておく。フライパンを熱し、生姜と豚肉を先に炒める。火が通ったらダイコンを入れて炒め合わせ、水と調味料を入れたら蓋をして中火で煮ておく。その間に別の鍋に水を入れて沸かし、豆腐を切り入れ味噌を溶かす。さっき煮ていた大根に竹串を刺したら良い感じになっていたので火を止め、それぞれ器に盛り付ければあっという間に2人分の夕飯の出来上がり。真新しい2つの茶碗にご飯をよそい、ダイニングに運んで綺麗に並べる。箸を出し、お茶を淹れ、それから奥の部屋の扉を優しくトントンと叩く。
「夜ごはんが出来ましたよ〜……開けていいですか?」
扉の向こうから小さな小さな声で「はい…」と答えるのが聞こえた。そっと扉を開けてみると、電気も付けていない部屋の隅で彼女は小さくうずくまっていた。
「もう夜なんですから、電気を付けなくちゃ。それに、座るなら椅子に座った方がいいですよ。お尻を痛めちゃいますからね……さ、ご飯にしましょう」
そう言うと、また彼女は消え入りそうな声で「はい…」とだけ呟いて、ゆっくり立ち上がって恐る恐る部屋から出てきた。
「そんなに怖がらなくてもいいんですよ、今日からしばらくはここがあなたのお家になるんですから。さ、席について…
「今日の晩ご飯は豚肉と大根の甘辛煮と、あと豆腐のお味噌汁です。大根に味が染みているか心配ですけど、きっと美味しいですよ。
「そうだ、冷蔵庫でプリンを冷やしてあるんです。ご飯の後で一緒に食べましょうね。
「それじゃあ手を合わせて…いただきます」
そう言って、箸を手に取り食べ始める。彼女もこちらの顔色を窺いながら、ぎこちなく箸を動かし始めた。美味しいですか?と聞くと、口をもぐもぐと動かしながら小さく頷く。良かった。まともに料理をしたのなんて数年ぶりだが、まあなんとかなるものだ。
…それにしてもかなり長い髪だな…明日にでも切ってあげようか。洋服も間に合わせの数着しか無いし、その他生活用品も全然揃ってない。天気が良ければ明日買いに行こうかな。出来れば彼女と一緒に。まだ難しいかもしれないが、試してみる価値はある。
「明日なんですけど、あなたの髪を切ってあげようかと思っているんです。かなり疎らに伸びてしまってますし、綺麗に整えた方が見栄えがいいですからね。
「それから、もし良かったらなんですけど、一緒にお買い物に行きませんか。細々とした日用品なんかを買いたいので。あなたが使うものですから自分で選びたいかな、なんて」
その提案を聞くなり、彼女はサッと怯えたような表情を見せた。しかし目を泳がせてしばらく悩んだのち、これまた小さな声で「わかった…」とだけ言った。
「そうですか。それじゃ、具体的にどこに何を買いに行くかはまた明日決めましょうね」
ふと彼女の皿を見ると、まだ半分近く残っていた。だがもう完全に箸を置いてしまっており、動かす素振りも見せない。もういいんですか?と訊くと、俯いたまま小さく頷いた。
「そうですか。じゃあごちそうさましましょう」
そう言って手を合わせ、声に出してごちそうさまと言う。彼女の声も微かにだが聞こえた。立ち上がり、食器を片付ける。彼女の食べていた所のテーブルが食べこぼしで汚れてしまっていたので台拭きで綺麗に拭き取り、そのあと冷蔵庫からプリンを持ってくる。彼女の前にプリンを置くと、心なしか表情が和らいだ気がした。ふむ、やはりプリンが好きなんだな。最初彼女と出逢ったとき、怯えっぱなしでこちらの問いかけに一切答えてくれない中唯一得れた情報が「プリンが好き」ということだったのだ。
と、そんなこんなで2人プリンを美味しく頂いたのち、部屋に戻った彼女が眠ったのを見届けてから自室に入る。すっかり氷が溶けてぬるくなったウィスキーの残りを飲み干し、革製のソファに深く腰掛け目を閉じた。これできっと3時間は眠れる。明日は晴れてくれるといいな………
次の日の昼過ぎである。白く透き通った雲がゆっくりと流れていき、横柄なほどさんさんと輝く太陽を時折覆い隠していく。5月の風は柔らかく、隣を歩く少女の黒髪を涼しげになびかせている。昨日まで不揃いに長く伸びていた彼女の髪だが、今朝リビングで綺麗に切り揃えてあげた。なので今は肩に掛かる程度の長さですっきり収まっており、日光を控えめに照り返すキューティクルは思わず目を奪われるほどの美しさである。我ながら良い仕事をしたものだ。
服装は白の長袖ブラウスにチェックのロングスカート、熱中症予防でつばの広い帽子を被らせている。どこからどう見ても普通の女の子だが、彼女は人目が気になるらしい。歩いているときも横にぴったりくっついて離れないが、かといって体が触れそうになると慌てて間隔を開ける。そんなことをいちいち気にしながら歩いている彼女を微笑ましく思いながらも、我々は街の中心部のショッピングモールに向かっているのだった。
………
それからおよそ1時間後、我々はショッピングモール内の中庭のベンチに肩を並べて座っていた。週末のショッピングモールはかなりの賑わいようで、人混みの苦手らしい彼女がすっかり疲弊してしまったのだ。今は帽子を目深に被り、両手で耳を塞いでいる。彼女がよくやるポーズだ。何も見ない。何も聞かない。そうやって一時的に自分の殻に閉じこもり、心を落ち着けているのだろう。今までもそうやって生きてきたのだろう。そうやって生き延びてきたのだろう……
そうだ、何か飲み物を買ってきてあげよう。喉も渇いてるだろうし、飲み物を飲めば心も落ち着く。そう思い、彼女の肩を優しくトントン、と叩く。彼女の耳から手が離れ、ゆっくりと持ち上がった帽子の陰から覗く小さな瞳と目が合った。
「何か飲み物を買ってこようかと思うんですけど、何が飲みたいですか?なんでもいいですよ」
そう聞くと、彼女は少し迷ったのち小声で「牛乳……」と言った。
「牛乳ですね、分かりました。あるかは分かりませんが、とりあえず行ってきますね」
ベンチを離れ、財布片手に近くの自動販売機の前まで行きラインナップから牛乳を探す。が、やはりと言うべきかいくら探しても牛乳は無い。仕方なくイチゴ牛乳を買っていくことにして、あと自分用にコーヒーを買いベンチに戻る。彼女は依然としてうずくまるように座っていた。これしか無かったんです、と言ってイチゴ牛乳を差し出すと、まるで何かを警戒しているかのように紙パックの表面を眺め、それからストローを刺し、おずおずと口に運ぶ。
「!」彼女の目が僅かに見開かれたのが見て取れた。どうやら気に入ったらしい。そのまま数分と経たず飲み切ってしまった。
………
「もう大丈夫ですか?そろそろ帰りましょうか」
缶に残ったコーヒーを飲み干し、彼女にそう告げて立ち上がる。買った品物の入った袋を片手に持ち、そしてごく自然な風に、空いた片手を座っている彼女の方に差し出した。
「…え、と……」
彼女は明確に困惑していた。行きの道でも肩が触れるだけで気まずそうにしていたのに、手を握るなんてどれだけハードルが高いことか。それは充分に理解している。それでも、それでもなおあえて引かず、優しく微笑みかけながら手を差し出し続けた。
…数十秒の時が流れる。流石に無茶だったか…と手を収めようとした。が、その時、彼女が徐ろに手を持ち上げ、本当に、本当に躊躇いながらゆっくりと手を伸ばし、そして差し出した手をキュッと握ってくれたのだった。
ああ……。やっぱり予想は間違ってなかった。彼女は他人に触れるのが嫌なんじゃない。他人に否定されるのが怖いだけなんだ。相手を不快にさせるんじゃないか、怒られるんじゃないか、それに怯えてるだけなんだ。ずっと否定されて生きてきたから。僕と同じだ。
「それじゃ、行こうか」
彼女の小さな手を引き、 ショッピングモールを後にする。家に着くまで彼女はずっと恥ずかしそうに俯いていたが、しかしそれでも手を離そうとはしなかった。
…それから1週間が経った。彼女との生活にも少しずつ慣れが生まれてきている。彼女は最初よりずっと喋ってくれるようになったし、家事を手伝ってくれるようになった。また僅かではあるが、感情表現もしてくれるようになった気がする。昨日一緒に散歩に出かけたとき、途中で立ち寄ったパン屋で買った焼きたてのパンを半分に割って食べたのだが、美味しいですね、と微笑みながら話し掛けたら、彼女も頷きながら軽く微笑み返してくれたのだ。
その他にも、夜のデザートのプリンを買い忘れたときは心なしか悲しそうな顔をしていたし、初めてローファーを履いて外に出たとき、歩き方がギクシャクしている彼女を見て笑ったら拗ねたような顔をしていた…気がする。
今はちょうどお昼ご飯を作っているところで、彼女はダイニングテーブルで本を読んでいる。漢字があまり得意ではないようで、とりあえず小学生向けの偉人の伝記を買い与えてみたら気に入ったらしく、最近では一日中読書に熱中している。知識欲があるのはいいことだ。知識は思考の厚みを何倍にも増やす。ことに伝記はいい。先人に学ぶべきことは多い。今後の彼女の成長が楽しみだ……
そんなことを考えながら、茹で上がったパスタをフライパンに入れてソースと絡ませ、お皿に盛り付ける。バジルとトマトのシンプルなスパゲティ、それが今日のお昼だ。
「ご飯出来ましたよ〜!」
振り向いてダイニングの方へ声を掛けると、やがて彼女がキッチンに入ってきた。彼女には2人分のフォークとコップを渡し、スパゲティを持って彼女の後ろに続く。テーブルのセッティングをし、2人で手を合わせる。
「「いただきます」」
彼女が声を合わせてちゃんと言ってくれるようになったのも、ここ数日のことだ。いい意味で遠慮が無くなってきつつある。
スパゲティを食べながら、彼女に午後の予定について話す。
「午後なんですけど、僕はちょっと用事があって出かけなくちゃいけないんですよ。だから留守番をお願いできますか?」
明確に彼女が留守番をするのはこれが初めてである。家に来て間もない頃に、彼女が部屋でうずくまっている間にそっと買い物に出かけたりはしたが、こうして僅かながらにも信頼関係が生まれてから彼女を1人にするのはこれが初めてなのだ。
「留守番…ですか?えと…うん、大丈夫です…」
「夜までには帰りますから。それに、何かあったら電話してください。そうしたらすぐに帰ってきます」
彼女は少し不安そうにしているが、まあ家に居ていつも通り本を読んでいてくれればいいのだ。流石に大丈夫だろう。
………
1時間後、用意を済ませ、家を出る。玄関まで見送りに来てくれた彼女がちゃんと鍵とチェーンを掛けたのを音で確認し、マンションを後にした。
これから会いに行くのは"仕事"の仲介人である。彼とはもう10年以上の付き合いながら面と向かって話したことは殆どないのだが、今回はちょっとした面倒事が起こってしまったこともあり、今後について色々と協議する必要性が生じたのだ。
タクシーで駅まで向かい、電車の乗り継いで隣の県へ。1時間ほど掛け着いたのはどこか寂れた町、××市。その郊外にある雑居ビルに、彼の事務所はある。
狭いエレベーターに乗り、6階へ。薄暗い廊下を進み、突き当たりのドアをノックする。ドアの磨りガラスには、○○商事(有)と書いてある。もちろんダミー企業だ。
数十秒経って、突然ドアが開かれる。そこに立っていたのは長身細身で眼鏡をかけた、全身真っ黒のスーツに身を固めた胡散臭そうな男であった。
「や、久しぶり。3年ぶりくらいかな。さ、中に入って」
そう言って手招きしながら奥に入っていく。後に続いて入っていくと、部屋の中心に大きなデスクがあり、あとは馬鹿でかい冷蔵庫やら、うず高く積み上げられた段ボールやらが四方を埋め尽くしている。お世辞にも綺麗とは言えない空間だ。風通しが悪く、埃っぽい。
「まったく、少しは掃除くらいすればいいのに…」
そう苦言を呈してはみるが、彼はそんなこと意にも介していない。身嗜みにはやたら気を使うくせに、生活環境には興味がないのだ。
「まあまあ、ほら座って座って。ちょっと埃が被っちゃってるけど、これはスウェーデンの上等な椅子なんだよ」
小汚い椅子を運んできながら彼はそう言う。こんなことにいちいち取り合っててもしょうがないので、座面の埃を手で払ってから腰掛けた。彼も向かいのデスクに座る。
………
「さて、知っての通りだろうが、先日うちの顧客の一人が摘発された。ほら、眼球をコレクションしてた男だ。分かるだろ?資産家の」
「ああ、年齢に関係なくいつも注文してくるあいつだな、記憶に残ってる」
「そう、で、眼球をDNA鑑定されれば身元は全て明らかになる。そうなると、我々の所まで捜査の手が及ぶ可能性もゼロじゃない。そこで、だ。芋づる式にパクられないようにいくつか策を講じる必要があって……」
………
そういった感じで様々に議論を交わし、あらかた片がついたのは実に数時間後のことであった。
「……まあ、こんなとこか。あーあ、疲れたー…あ、お茶があるんだった。飲む?」
「お前なぁ…そういうのは客が来たときに出すものなんだが…まあ頂こう」
彼がキッチンに消え、ちょっとしてからカップを持って帰ってくる。
「…そういや、さ、お前、今女の子飼ってるんだって?隅に置けないねぇまったく」
「飼ってる、って…拾っただけさ。まあちょっとした気の迷いだよ。情が湧いた、というか」
「情、ねぇ……つまりはアレだろ?養殖ってことだろ?あんまり感心しないな、目撃者が増える」
「いや、それが食うつもりで拾ったんじゃないんだ。ただなんというか、放って置けなかった、みたいな」
「え、食わねーの?そんならさ、飽きたら俺に売ってくれよ。中学生くらいだろ?かなりレアもんだ。高く売れるぜ」
「あー……そう、だな。考えとく」
そうは言ったものの、もはや彼女を売る気はさらさら無かった。狩りに支障が出るからずっと一緒に暮らす訳にはいかないが、かといって殺すのも躊躇われた。そこに来て初めて、自分が彼女のことを好きになってきていることを自覚した。好き、といっても恋愛的なそれではなく、ある種の父性のような庇護欲が湧いてきているのである。彼女をどうしようか…それは目下の課題であった。
…とそこで、突然ポケットの携帯電話が鳴り出した。発信元は自宅の固定電話。彼女だ。
「…もしもし、どうしました?おーい、もしもし?聞こえてますか?」
電話越しに話しかけるが、返事がない。耳を澄ませると、微かにすすり泣く声が聞こえた。
「どうしたんですか?!大丈夫ですか?!何かあったんですか?!」
慌ててそう問いかけると、やがて掠れた小さな声で、
「…怖いよ……帰ってきて……」
とだけ聞こえてきた。
「分かりました。すぐに帰りますからね、家から出ず、落ち着いて待っててください」
そう言って電話を切り、急いで荷物をまとめる。
「すまん、今から急いで帰らなきゃいけなくなった。ま、さっき話した通りでよろしく頼む」
「おいおい…まったく、変わっちまったねぇ。あの泣く子も黙る殺人鬼サマが、今じゃガキの子守りですかい。そんなんでこの先やってけんのかい?頼むぜほんとに…」
彼は呆れ顔で言った。
「うるさいな…仕事には支障が出ないように上手くやるから。それじゃあな」
それだけ言って部屋を出る。タクシーを呼び、大急ぎで家に戻った。
………
マンションのエントランスにタクシーが止まる。財布から一万円札を数枚掴んで渡し、タクシーを降りて階段を駆け上がる。自動ドアの暗証番号を押すのももどかしく、脇の柵を飛び越えて渡り廊下に転がり込む。エレベーターホールを見たが、あいにくどれも1階に着いていない。これなら階段の方が早い。非常階段のドアを押し開け、3段飛ばしで風のように駆け上っていった。
家の鍵は開いていた。靴を脱ぎ捨てるようにして中に入ると、彼女はリビングの隅でうずくまり、ガタガタと震えていた。その様は、彼女と最初に出会ったときの光景にとても良く似ていた……
………
あの日は朝から雨が降っていた。止んでから買い物に行こうと思っていたが夕方になっても雨足は弱まらず、結局6時過ぎに家を出て近所のスーパーに向かった。その帰り道、今日はいつもと違うルートで帰ろうと思い立ち、散歩がてら知らない道を行くことにした。古い住宅街を通り抜け、放置されて草が背高く伸びた田んぼ道を突っ切り、寂れた団地のコンクリート塀に沿って歩き、そろそろまっすぐ家に帰ろうかと思い始めていたとき、どこかからすすり泣くような声が聞こえてきた。女の声だ。耳をそば立てながら声のする方に歩いていくと、薄ぼけたボロボロの木造アパートが目に入る。近づいていくと、どうやら声の主はここにいるらしい。アパートの周りをじろじろと眺め、裏の方に回っていき、おや、と思ってちらりと覗いた階段の下、蜘蛛の糸の張った薄暗い場所で、彼女はうずくまって1人泣いていた。汚れたTシャツとペラペラのハーフパンツの他何も身につけておらず、近づいてもこちらを見ようともしなかった。傘を畳み、おそるおそる彼女の足元まで近寄ってみる。何も反応がないので彼女の前にしゃがみ込み、努めて友好的な声色で話しかけた。
「もしもし、お嬢さん。大丈夫ですか?聞こえてます?こんなところにいたら風邪を引いてしまいますよ。もしもし?」
そう言って彼女の肩を触れるか触れないかという力加減で優しく叩くと、ビクッと体を震わせ、階段下のさらに奥の方に身を引いた。その目は赤く腫れ、涙に潤んだ瞳は虚ろで何物も捉えていなかった。
「どうして泣いているのですか」
そう尋ねてみるが、怯えたような表情のままなんの返事もない。このままじゃ埒が明かないな…質問の仕方を変えてみるか。
「ここのアパートに住んでいるんですか?」
そう聞くと、彼女は目を背け首を横に振った。
「帰るお家はあるんですか?」
これにも彼女は首を横に振る。
「それじゃ、僕の家に来ませんか?」
少し思い切って、そう提案してみる。見知らぬ男に家に来ないかと誘われて、まあ普通なら応じる訳がない。それは分かっているが、それでも聞かずにはいられなかった。
「信用出来ないかもしれませんけど、別にやましい事なんて考えちゃいません。ただあなたがもしここに一晩中いたら、きっとあなたは病気になってしまう。だから僕のお家においでなさい。美味しい食事もありますし、ベッドだってあります。ふかふかの綺麗なベッドです。ちゃんとした服も買ってあげましょう。怖いかもしれませんが、ここで座っているよりマシだと思うんです。どうですか?」
そう言って立ち上がり、外に出て傘を差す。じっと彼女の方を見つめ、答えを待った。もし彼女が首を横に振れば、買い物袋の中のパンやら惣菜やらを置いて立ち去るつもりだった。
…数分の静寂があった。彼女の目は様々な方向を向き、あきらかに困惑しているのが見て取れた。こちらを見てはすぐに目を逸らし、下唇を噛んで浅く呼吸をしていた。だが、やがて決意の固まったような顔をすると、聞こえるかどうかの小さな声で「…分かった」と言い、屈んだ姿勢のまま階段下から出てきた。傘の中に入るよう手招きしたが、彼女は応じなかった。仕方なく先を歩くと、間隔を空けてついてきているのが分かった。もうすっかり暗くなった雨の中、そんな不思議な2人組は人気のない道をゆっくりと歩いていった。
家に着いてからも一苦労であった。部屋の隅でうずくまり、不用意に近づくと逃げ出そうとする。何が食べたいか聞いても返事はなく、お腹が空いているのかどうかも分からない。仕方ないのでこっそり家を出て近所の衣料品店に向かい、彼女の背格好に合いそうな洋服をいくつか買って帰る。長袖のシャツとズボンをタオルと一緒に部屋のドアのすぐ奥に置き、ついでに紙に「何か食べたいものはありますか」と書いてペンと共に載せておく。少し経ってから覗いてみたら、脱いだ服をの横に紙が落ちている。めくってみると、小さく歪んだ文字で「プリン」と書いてあった。プリンか…プリンなら確か冷蔵庫に入っていたはずだ。そう思ってキッチンへ行くと、やはり冷蔵庫の奥にプリンがあった。スプーンをつけてお盆に載せ、ついでに温かいお茶も淹れて一緒に持っていく。部屋に戻ると、彼女は依然として部屋の奥で小さくなっており、そしてまたすすり泣いていた…
………
彼女と出会ったときの記憶が一瞬にして脳内に浮かび上がった。あの時と同じだ。また彼女を1人にしてしまった。あの時の状態に逆戻りしてしまってはいないだろうか。サッと不安がよぎる。
不意に彼女の顔がパッと上がった。こちらの方を見るや否や、すぐさま立ち上がって走り寄ってくる。そして、飛び込むかのように抱きついてきた。胸にすがりつき、声を上げて泣き出す。
「よしよし、怖かったですね。ごめんなさい、1人にしてしまって。もう大丈夫です」
そう言いながら片手で彼女を抱き寄せつつ、頭を撫でる。そこにはもはや距離感なんて存在しない。さながら父と子のようであった。
「……えっぐ…ごめんなさい、お留守番もできなくてごめんなさい…ひっぐ……」
顔を真っ赤に腫らし、すすり泣きながら彼女は謝り続ける。
「いいんです。いいんですよ。あなたは何も悪くない。謝る必要なんて全くないんです。大丈夫、大丈夫ですから……」
………
彼女が泣き止むのを待ってから、肩を抱いて自室に連れていく。ソファに座らせ、一度キッチンへ行って温かいココアを持ってくる。
「…落ち着きましたか。ほら、飲んで」
彼女はマグカップを手に取り、息を吹きかけてから少し飲み、ほっ、と息をつく。
「…そういえば、まだ名前すら訊いて無かったんですね……」
そう言いながら彼女の頭を優しく撫でる。
「…教えてくれますか?あなたの名前」
彼女と目が合う。あの日とは違う、穏やかな親しみを湛えた瞳であった。
「……まりか。蹴鞠の鞠に、花でまりか」
「鞠花ちゃん…ですか。素敵な名前だ」
本当に素敵な名前だ。掛け値なしに。
「あなたは…なんて名前なんですか?」
彼女が問いかけてくる。
「僕はね、○○っていうんです」
もちろん偽名だ。彼女には申し訳ないが。
彼女はニッコリと笑い、こちらに寄りかかってきた。それから、自分の生い立ちについてぽつぽつと語り始めた。
「わたしね、お母さんの顔もお父さんの顔も知らないの。ずっと親戚の家で暮らしてた。
「でもね、学校に行かせてもらえなかったの。毎朝おばさんにたくさんの布を渡されて、これをぜんぶ縫ったら学校に行かせてあげる、って言うの。でもすごくたくさんだったから、1日で終わらせるなんてぜったいに無理だったの。だから、学校に行けないのは自分のせいなのよ、っていっつも言われてた」
そう語る彼女の口調は歳不相応にどこか幼げだった。それも学校に行っていないせいなのだろう。
「おじさんはね、いっつも叩くの。お皿割っちゃったりしてもね、ゆうきくんのことは叩かないのに、わたしだけ叩くの。
「あ、ゆうきくんっていうのはね、おばさんの家の子供なの。しゃべると怒られるんだけどね、誰もいないときにこっそりお話ししてたの。学校でこんなことしたとか、みんなで野球したとか、すごく羨ましかった。
「いっかいね、ゆうきくんと2人で外に遊びに行ったんだけどね、すごい怒られた。おじさんに棒でいっぱい叩かれてね、すごい痛かった。この腕のとこがね、雨が降ると痛いの。そのときいっぱい叩かれたから」
そう言って、彼女は左の二の腕をさする。その様子はあまりに健気で、痛ましかった。
「あ、それでね、おばさんの家にね、えーつと…じどう相談所?の人が来てね、この家に女の子はいませんか、って。わたしは捕まっちゃうと思って2階に逃げたんだけど、結局大人の人たちに見つかっちゃって、車に乗せられたの。
「それからいろいろ聞かれて、全然知らないおばさんに抱きしめられたりしてね、そのあと**園っていうところて暮らすことになったの」
**園といえば、この近くの有名な児童養護施設だ。虐待された子供が集まるらしく、時々テレビでも紹介されている。
「そこはすごくいいところでね、学校にも行くことになったんだけど、学校でちょっとだけいじめられちゃったりしてね、それで嫌になって行くのやめちゃったの。
「それでね、おじさんとおばさんがたまに会いに来てね、帰って来ないか、って言うの。わたしはいつもやだって言ってたんだけど、なんか帰ることになっちゃったの。
「それで、おばさんの家でまた暮らすことになったんだけど、最初は良くてね、前とは違う学校に行けるようになったし、おじさんも叩かなくなってた。でもね、おじさんが私の部屋に来てね、寝てるときに体を触ってくるの。それがすごく最近の話なんだけど。
「それが嫌でね、朝の誰も起きてないときに逃げたの。この近くをうろうろしててね、途中で警察の人とかに見つかっちゃったりもしたんだけど、頑張って何日も逃げてたの。
「でもね、すごく疲れちゃって。歩けなくなっちゃって、もう死んじゃうんだ、って思った。それであそこでずっと座ってたの。すごい怖かった。ここでもう死んじゃうんだって……思っで…うっ……」
そこで彼女は言葉を詰まらせ、唐突に泣き出した。そのときのことを思い出してしまったのだろう。彼女の背中を優しくさすってあげる。
「ありがとう、もう分かったよ。辛かったね、今までずっと。もう大丈夫だからね…」
そう言いはしてみたものの、頭の中は不安で満たされていた。彼女とこの先ずっと一緒に暮らせるとは思えない。第一、狩りはどうなる。狩りをしなければ"食事"も出来ないし、収入源もなくなる。今はまだ大丈夫だがいずれ衝動を我慢し切れなくなるだろうし、貯金も底を尽きる。彼女と一つ屋根の下で生活しながら狩り……いや、万が一彼女にバレたらどうする。彼女が逃げ出して警察に言ったら?そうでなくても、彼女を連れて住居を移すのはそれだけで大変だ。
いっそこの場で殺してしまうか…?いやしかし、流石に湧いた愛着というものがそれを許さない。だが、時間が経てば立つほど殺すのは辛くなる。情など捨てろ。肉を食らうことでしか女性への愛情を満たせない、お前はそういう業を背負った人間なのだ。そうやって生きてきた。今さら人と馴れ合おうなんて、おこがましい話なのだ。そんなことをするくらいなら、初めから人なんて殺さなければいい。普通の人間と同じように、スーツを着て労働すればいい。でもそんなことをしたら衝動に押し潰されて発狂してしまうから。幸いにも密かに人を殺す能力には長けているのだから。今まで何人殺してきた。何人の肉を食ってきた。どれだけの困難を乗り越えてきた。それに比べたらこんな小娘、ひねり殺して処分するなんて訳ないことじゃないか。体に刻まれたルーティンに従うだけじゃないか。あの日を思い出せ!あの決意の日を!死の淵まで追いやられ、一生人を殺して生きていくことを決めたあの日のことを!
そう自分に言い聞かせる。ズボンを強く握りしめる。胸が苦しい。気がつくと、彼女はいつの間にか眠ってしまっていた。安らかな寝顔だ。今なら楽に逝かせてあげられる。さあ、どうするべきか。
彼女を起こさぬようそっとソファから立ち上がり、彼女の背中と脚に手を回してゆっくり持ち上げる。ベッドまで運んで優しく横たえ、戸棚から手錠とアイマスクを取り出す。彼女の腕を持ち上げて手錠をかけ、アイマスクを付ける。それから別の戸棚を開け、綺麗に手入れされたナイフを出す。ナイフを軽く研いでからベッドの脇に置き、そして彼女の上に馬乗りになった。
彼女の頬を何度も軽く叩くと、やがて目を覚ました。状況が良く分かっていないといった感じで、手をガチャガチャ動かそうとしたり、体を捻ろうとしたりする。
「あのっ、あの、○○さん?○○さんなんですかっ?あの、これはどういう…!」
「ごめんね、落ち着いて。大丈夫だから」
そう言って彼女の腕を抑える。顔を耳元に近づけ、囁くように語りかける。
「落ち着いて聞いて欲しいんです。僕の正体と、ありのままの本音を」
彼女はごくりと唾を飲んだ。鼓動が速くなっているのを感じる。
「僕は、実はですね、いわゆる殺人鬼ってやつなんですよ。人を殺すんです。今まで何人も殺してきました」
彼女の鼓動が更に速くなる。何か言おうとしているが、言葉にならないようだ。
「どうして殺すのかっていうと、僕はね、人間の太もも肉を食べるのが大好きなんですよ。それも若い女性の。それ以外の食べ物は全部味がしなくって、定期的に食べないと頭がおかしくなってしまうんです。
「でもね、これだけは信じてください。あなたをここに呼んだのも、今までこうやって一緒に暮らしてきたのも、決してあなたを殺すためではなかったんです。むしろ殺したくなんてなかった。ずっと一緒に暮らしていたかった。本当なんです。
「でも現実は優しくない。太もも肉を食べないと本当に発狂してしまうんです。何もかも分からなくなって、手当たり次第に人を攻撃してしまう。一度だけそうなりかけたから分かるんです。ああなってしまったら二度と正気には戻れない。それは実質的には死ぬことと変わらないことなんだ、って。
「だから、人を殺すのはやめられない。君はそんな人と一緒に生きるのは嫌だろうし、人を殺すとたくさん引っ越ししなくちゃいけないんだけど、それに君を連れて行くのも難しい。
「だからね、いま決めて欲しいんだ。僕のことも、今までの約10日間のことも全部忘れて、誰にも言わないと約束して、そしてお家に帰るか。本当は帰したくはないんだけどね。君のことを最大限尊重してその選択肢を与えよう。
「もしくは、ここで死ぬか。睡眠薬があるから、それで眠っている間に終わらせてあげよう。痛みもなく、苦しみもなく。もちろん、殺しても君の肉は食べないし、身体をバラして売ったりもしない。綺麗なお墓を建ててあげよう。海が見える場所なんかに」
彼女のアイマスクを外してあげる。彼女は泣いていなかった。ただ、全てを諦めた絶望の目をしていた。
「…どうして、こうなるんだろ………」
掠れた声で、彼女は呟いた。
「…やっと幸せを手に入れたと思っても、どうして、いっつも逃げてっちゃうんだろ……」
彼女の目から、涙が一筋溢れた。それを、そっと指で拭ってあげる。
…長い時間が流れた。どのくらい経ったのか分からない。もしかしたら数分かもしれないし、あるいは数時間かもしれない。彼女の目が突然こちらを向き、そして口を開いた。
「決めた」
彼女はそう言った。
「聞かせてください」
そう返した。
彼女は大きく深呼吸をして、それから言った。
「わたしを、殺して」
彼女の目から、また涙が一筋溢れた。
「……分かりました」
そう言って立ち上がり、戸棚から睡眠薬を取り出し、それを飲みかけのココアに入れる。彼女を起き上がらせ、マグカップを渡す。彼女はそれを一息で飲み干した。それからまたベッドに横になる。
「あのね、一つだけお願いしたいの」
彼女は続ける。
「わたしの体は、食べて欲しい。太ももしか食べたくないかもしれないけど、出来れば全部」
「……分かった、可能な限り」
「それからね、お墓は建てて欲しい。海じゃなくて、静かな森の中に。森が好きなの。だから森の奥深くに埋めて欲しい」
「それも分かった、約束しよう」
「うん、じゃあそれで充分。それだけで……」
彼女は眠ってしまった。部屋を出て、廊下の物置からブルーシートと大量のタオルを持ってくる。ベッドの上に敷き、彼女をその上に乗せ、ナイフを持つ。タオルを用意し、彼女の右肩の下辺り、鎖骨下動脈の部分にナイフを当て、一気に深く突き刺す。噴水のように血が出るためタオルで抑えつつ、更に深く押し込む。彼女の体は一瞬激しく痙攣し、そしてゆっくりと弛緩していった。さようなら、鞠花ちゃん。君と過ごしたこの数日間の思い出、それは絶対に忘れない。
………
彼女の体を解体し、骨から肉を切り分ける。いつもは太もも肉だけだが、今回は全身余すところなく綺麗に。骨は洗って袋にまとめる。これは墓に埋めるのだ。
肉の切り分けは非常に時間がかかった。全てが終わるころには外は朝になっていた。
さて、ここから調理に入る。少女とはいえ、肉だけでもかなりの量がある。内臓は全ては無理だろうが、内容物を掻き出して綺麗に洗えばある程度は食べられるだろう。
とりあえず内臓の類いは下処理して大鍋で煮込むことにする。肉は部位に分け、ステーキにしたりローストしたり、シチューにしてみたり。とにかくキッチンを最大限に使い、ありとあらゆる調理法で料理にしていく。食べきれない分は小分けにして冷凍し、余った細かい肉も適当に他の料理に混ぜておく。
そんなこんなで大量の肉料理が完成し、テーブルに並べる。この席はいつも彼女が座っていた席だ。あえてそこに料理を並べていく。シチューやら煮込みやらローストやら様々だが、とりあえず太もも肉のステーキを一番に食べなければ始まらない。ワインを注ぎ、ナイフで切り分け、ひと口食べる。
殺人鬼は、今までで一番の大粒の涙を溢した。
………
それから1ヶ月後。レンタカーを走らせ、早朝から某県の山奥に向かう。舗装されていない急な山道を進んでいき、行き止まりで車を止め、大きな袋を担いで草をかき分けずんずん森に入っていく。30分ほど進み、ほとんど電波も届かないような鬱蒼とした森の中、急に少し開けた場所に出る。前にここに死体を埋めに来たとき、たまたま見つけた場所だ。そこだけ何故か木が生えておらず、柔らかな木漏れ日が差している。そのちょっとした広場の真ん中の木、真っ直ぐに伸びた大木の根元に近づき、バッグからシャベルを取り出してせっせと土を掘る。数十分で大きな穴が出来上がり、その中に袋の中身を流し込む。予め彼女の骨は砕いて粉状にしてあるのだ。ちゃんと綺麗に全て入れ、土を戻す。それから、木の幹をナイフでガリガリと削って平らにし、そこに彫刻刀で
「鞠花 ここに眠る 20××年 6月○日」
と彫った。我ながらなかなかの出来栄え。土を均し、ポケットから線香を1本だけ取り出し、火を着ける。それを少し盛り上がった土の上に突き立て、それから手を合わせて深く目を閉じた。彼女の笑顔が脳裏をよぎる。鳥のさえずりが聞こえ、木々が風に揺れてさらさらと音を立てる。東の空から、赤々と滲むように燃えている太陽が、ゆっくりと顔を出し始めていた……
ここまで読んで頂き本当にありがとうございます。次回もお楽しみに。