だから私は、貴方との婚約を破棄する
始めは、貴族同士の見合いだった。
伯爵令嬢のマリアは、相手の男を詳しく知らなかった。
同じ階級の伯爵子息、そして同じ15歳であること。
それ以外は、あまり聞く必要がなかった。
「マリア・シュトラーゼです」
「俺はセヴァル! セヴァル・ヴィクトリアだ! よろしくな!」
何故なら彼は、貴族界の変人と言われていたからだ。
別に露出癖があるとか、変態的な意味ではない。
思考が少しズレている、と言うのが正しい。
大体いつも笑顔で、自由奔放。
そんな貴族あるまじき言動が、彼を変人足らしめてた。
「あ~あ! 課題だの、勉強だの面倒くさい! こういう時は下町まで、一走り行って来るに限るな!」
「貴方……また叱られるわよ……」
「良いんだよ! 堅っ苦しいことばかりやってたら、身体が疼いて仕方ない! あ、マリアも来る? 気持ちがリフレッシュするよ?」
「……遠慮しておくわ」
「そう? そりゃ残念だ!」
セヴァルは、あまり残念そうには見えない笑みを浮かべた。
まぁ、こういう人物なのである。
頭はあまり良くない。
貴族としての立ち振る舞いも、本当にボーダーラインのギリギリを踏んでいる程度。
物静かなマリアとは、ほぼ正反対。
何処にいても快活な姿は、彼の父親も頭を悩ませている程だ。
そんな彼と、どうして見合いをする羽目になったのか。
マリアは元々、婚約そのものに興味がなかった。
親の都合という事もあって、自分の意志に関係なく、何度も見合いをしてきた。
だが今まで一度も上手くいかなかった。
相手に下心を感じるからだろうか。
マリアの容姿は貴族内でもかなり美しい方、らしい。
なので、多くの男達が色目を使って寄ってくる。
幼少よりそんな視線を浴び続ければ、彼女の考え方が少々捻くれてしまうのも道理だったのかもしれない。
だから何の下心もない、変人と評されるセヴァル相手ならどうだろうかと勧められた。
それだけの事だった。
別に嫌になったら断れば良い。
こんな状況では長く続かないだろうと、マリアは思っていた。
だが、割とそうでもなかった。
セヴァルは思った以上に、気が付く人だった。
「マリア、最近寝不足だろう?」
「な、何のこと?」
「恍けても分かるぞ。最近、ぼうっとしていることが多くなっているじゃないか。どうせ、貴族としての教養が~とか言われて、ずっと真夜中まで起きてたんだろう?」
「そんな事は別に……」
「駄目だぞ! 睡眠も歴とした勉強の一つなんだ! 人は一日六時間以下の睡眠だと、どんどん身体の調子が悪くなるって聞いた事がある! そんな訳で俺は、毎日八時間は寝てる!」
「いえ、貴方は寝すぎでしょう?」
「あはは! バレたか!」
「……」
「でも、今の話は本当さ。幾ら頭に叩き込んでも、本調子じゃなかったら、意味がないんだ。もっと自分の身体を大切にしようよ」
自分の事しか考えていないようで、割と他人の事も考えている。
お互い回数も限られている、探り合いとも言える見合いの中で、無理矢理寝かしつけようとする程だ。
今まで、そんな事をする人はマリアの記憶にはなかった。
だから、妙に気になった。
それ以外にも、気になることはあった。
マリアは楽器の演奏を嗜む。
特にハープの弾きは、随一の実力を持つとも噂されていた。
歯牙にもかけなかったが、貴族たるものとして修練を積んでいた彼女にとっては、一種の気晴らしのような時間でもあった。
そんな音色を一度、セヴァルに聞かせた事があった。
彼は身体を動かすことが好きなので、こういったものには興味がないだろうと思っていた。
実際、あまりよく分かっていない様子だった。
ただ、やけにニコニコしていた。
「……何? 私の演奏が不満なの?」
「いやいや、そんな訳ないよ! ハープの事は詳しくは知らないけど、綺麗だなって思った! でもそれ以上に、マリアが楽しそうだったからつい、な!」
「楽しそう……?」
「え? 自分で気づいてなかったの? 君、今までで一番良い顔してたよ!」
「……」
「やっぱり、そんな顔も出来るんじゃないか! いつもみたいな、ムッとした顔なんてせずに、もっとそれを出していこう! マリアには、それが一番似合ってる!」
こんな恥ずかしいことを臆面もなく言ってのける。
同い年なのに子供らしいというか、幼いというか。
そんな所も、気になった。
極めつけは、とある日に起きた事件。
マリアのハープが奪われたのだ。
貴族の子息令嬢が集う学院内で起きた事だったので、内部犯であることは明らかだった。
面子と言うものがあるので、皆が全力で捜索し、すぐに犯人は分かった。
犯人は同じクラスの令嬢だった。
原因は、マリアに嫉妬したかららしい。
別にどうでも良いことだった。
彼女にとっては、消えた楽器だけが気掛かりだった。
そしてあろうことか、令嬢はマリアのハープを学院から離れた、ため池に投げ込んだのだという。
楽器を池に投げ込む、それが何を意味するのか分からない訳ではない。
真っ先にセヴァルが動いた。
マリア以上に、何の躊躇いもなく駆け出し、ため池に飛び込んだ。
池はとても深く、前に平民の子供が水難事故を起こしたばかりだった。
それでもセヴァルは、周りが制止する中で何度も潜り、水底にあった楽器を救出した。
もう、このハープは使い物にならない。
それは誰もが分かっていたことだった。
水浸しになったセヴァルは、楽器を抱えて蹲る。
マリアが近づくと、彼は悔しそうに泣き始めた。
「ごめん……ごめんよ……!」
「どうしてセヴァルが泣くのよ……良いから、早く身体を拭いてったら……」
「だって、あの楽器は一番大切なものだったんだろう? 俺がもっと早く気付けていれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに……!」
まるで自分の事のように、泣いて謝った。
わざわざ飛び込まなくても、従者たちに任せてしまえば良かったのに、何故ここまでの事をするのか。
マリアの心はざわついた。
「辛そうに、見えるんだ。とても、凄く辛そうな顔をしてる。だから、悲しいんだ」
「や、止めてよ……そんな事言われたら、私まで……っ」
「ごめん……本当にごめんな……!」
「分かったから……分かったから、泣かないでよっ……」
別に何ともない筈なのに。
平気なはずなのに、マリア自身もらい泣きをしてしまった。
それが許せなかった。
そして、余計に気になった。
決定的な何かがあった訳でもない。
セヴァルに対して気になることが多くなって。
気になって、気になって。
気付いたら、本気になっていた。
馬鹿馬鹿しい、自分は頭がおかしくなったのだと、マリアは思った。
でも彼の笑顔が、最近ではとても眩しく感じる。
だから、余計に突き放したこともある。
惚れるなんて有り得ない、そんな筈はないと、思い込みたかった。
だがセヴァルはマイペースだったので、その態度について面と向かって聞いてくる。
「なぁ、最近どうかしたの? 何だか怒ってない?」
「……」
「何か困ってるなら、相談に乗るよ! と言っても、俺が出来るのは身体を動かす事くらいだけどな! ははは!」
「……」
「あ、そうだ! どうせなら、今から街に出掛けようよ! 美味しいものを食べたら、きっと気分がスッキリするさ!」
「っ……」
「えっ? ど、どうしたん?」
「分かったわ。そんなに言うなら、ここでスッキリしてやるわよ」
その時は半ば自棄だったので、彼女は詳しく覚えていない。
ただ夕暮れ時の、他には誰もいない屋敷の庭園で、思い切り彼を指差して言った。
「セヴァル! 私と婚約しなさい!」
あぁ、私は本当に頭がおかしくなったんだと、マリアは思った。
それを聞いたセヴァルは、最初は凄く驚いた顔をしていたが、次第にニッコリと笑った。
そんな関係。
いつまで続くかも分からない、不器用な繋がり。
でも、それでも良い。
不器用でも今こうして一緒にいられるなら、それも悪くないと、彼女は思っていた。
だが……。
「セヴァル、貴方との婚約を破棄するわ」
3年後、マリアが18歳の誕生日を迎えた日。
彼女はセヴァルとの婚約破棄を正式に表明した。
彼の実家、応接間に響いた宣言は、周りの従者たちを動揺させた。
「そう……だな。こんな俺と、婚約を結んでいる意味はない……よな……」
セヴァルに大きな動揺はなかった。
予測していたこと、覚悟していたものとして受け入れる。
その姿は3年前と比べて、非常にやせ細ったものだった。
まるで死を待つ病人。
痛々しい姿に、思わずマリアは目を背けた。
「マリア様! どうか考え直してくれませんか!? まだ、セヴァル様の病が治らないと決まった訳ではありません! ですから……!」
「そんな確証が何処にあるの? 在りもしない希望に縋れと? もう、私は嫌という程待ったのよ」
「しかし、これではあまりに……!」
「良いですか? これは私達両家の当主が、互いに了承したことです。そこに個人の感情が、割り込む余地はありません」
セヴァルの従者は懸命に説得したが、彼女は冷たく言い放つ。
だがその両手が硬く握られ、微かに震えていることには誰も気付かない。
「私はマリア・シュトラーゼ。貴族の娘として、取るべき立場と名誉がある。私は彼の……」
一瞬、声に詰まる。
だが全ての感情を押し込め、マリアは吐き出した。
「彼の介護士ではありません」
誰もがその言葉に声を失う。
どうしようもない沈黙が、室内を満たし始める。
直後、俯いていたセヴァルが呟いた。
「うん……確かにその通りだ……」
「セヴァル様!」
「俺の余命は数か月。婚約を続けていても、どの道、解消されるんだ。いや、寧ろそのまま結婚すれば、君を今以上に縛り続けてしまう」
その言葉は、自分に言い聞かせているようだった。
未練を断ち切ろうと、自分から離れるべきだと、マリアが口にしないことを述べる。
すると彼女は遮る形で、強い口調を維持して続けた。
「分かってくれたのね」
「あぁ……短い間だったけれど……マリアと一緒にいた時間、本当に楽しかった」
「……」
「君だけだった。俺に呆れずに、ついて来てくれた人は。だから……もう良いんだ……」
「……そう」
セヴァルは微かに笑った。
その笑みはあまりに力なく、そして儚く。
震えそうになった声を、マリアは押し殺して退席した。
慈悲の欠片もないように、冷酷だと思われるように。
まるでその姿は、童話に出てくる悪役の令嬢のようにも見えただろう。
(ごめんなさい、セヴァル……。でも貴方とは、もう一緒にいられない……)
口元を押さえ早歩きになるマリアは、痛む胸をもう片方の手で押さえる。
彼女がそこまでの事をするには、理由があった。
(私にはもう……時間がないから……)
既に『代償』が、身体を蝕み始めていた。
●
時は、婚約破棄から数週間前に遡る。
「お父様、どうして!? どうしてセヴァルの病は治らないの!?」
「落ち着くんだ! マリア!」
「不治の病だなんて……治る見込みがないなんて……そんなの嘘、嘘よ!」
婚約を結んで2年以上が経った中、セヴァルが突如、原因不明の病を患った。
感染力はない。
他の誰にも発病しない代わりに、彼は見る見るうちに痩せ衰えた。
活発だった頃の姿は、もう何処にもない。
学院を休学し、彼の実家で寝るだけの日々を送っていた。
マリアは何度も見舞いに行ったが、力を失くしていく彼の笑顔を見る度に、胸が締め付けられるようだった。
そして、遂に訪れるセヴァルの余命宣告。
彼女は今までにない位に取り乱し、父に縋りついた。
「こればかりは、私でもどうすることも出来ない。他の貴族でもそうだ。誰も悪くない。だから、もし事が大きくなったなら……覚悟してほしい」
「覚悟……? 覚悟だなんて……!」
最早、手の施しようがない。
治療法が一切見当たらない病を前に、彼女の父も首を振るだけだった。
そんな状況に、思わずマリアは夜の屋敷を飛び出した。
これ程までに、自分の無力さを感じたことはなかった。
「誰か、誰かセヴァルを助けて……! 私に出来ることなら、何でもするから……! だから、神様……!」
屋敷にある庭園、その片隅でマリアは祈った。
昔の彼女なら、誰かのために祈るなど有り得なかった。
だが今は違う。
どうしようもなく子供っぽいけれど、それでいて一生懸命な彼を失いたくない。
震える両手で彼女は両目を瞑った。
「呼んだかい?」
「きゃっ!? だ、誰!?」
すると直後、不意に声が掛けられる。
驚いて振り返ると、そこには黒装束に身を包んだ老婆が、彼女を手招きしていた。
当然、顔見知りなどではない。
「こっちだよ。こっち。全く、最近の若いモンは出合頭に悲鳴を上げるのかい」
「ご、ごめんなさい……」
「それで? 何がお望みだい?」
「えっ?」
「望みさ。さっき、誰かを助けてほしいと言ったじゃないか」
さっきの言葉を聞かれていたようだ。
だが、そもそもこの老婆は誰だろう。
思わず謝ってしまったが、まさか屋敷に入ってきた侵入者だろうか。
言葉が出るよりも先に、老婆はクククと笑った。
「ほうほう。どうやら助けてほしいのは、アンタの婚約者みたいだねぇ。それで今、不治の病を患っている。だから自分じゃどうすることも出来なくて、こんな場所で祈ってた訳かい」
「っ!? わ、私の心の中を読んだの!?」
「この位は当然だ。何たって、アタシは砂礫の魔女、だからねぇ」
老婆は、自分を魔女と名乗った。
普通なら気でも触れているのかと思う所だが、その名にマリアは聞き覚えがあった。
かつてセヴァルが読み聞かせてくれた、童話の登場人物。
「砂礫の魔女……どんな願いも叶える代わりに、高い代償を支払わせるって言う……」
「普段はこんな場所、来ることはないよ。ただ今日は、この辺りに住んでいた契約者に、代償を払ってもらうために来たのさ。全く、老体をここまで呼び出すなんてねぇ」
「代償……?」
「聞きたいかい?」
困惑するマリアに、魔女は邪悪な笑みで端的に言った。
「命だよ」
「!?」
「どうしても殺したい相手がいるってね。ククク、その代償を命で支払った訳さ。人を呪わば穴二つ。等価交換というヤツさ。ま、信じるか信じないかはアンタ次第だね」
信じるかどうかは自分次第。
老婆が魔女と言うのも、適当な出任せかもしれない。
ここで声を上げて、身柄を拘束しても構わないと思った。
だが、出来なかった。
彼を救うことが出来る可能性があるなら、マリアはそれに縋るしかなかった。
「セヴァルを、治せるんですか?」
「先ずはその男を見てからでないと。アンタ一人じゃ、手が負えないこともあるからねぇ」
「……代償、ですか?」
「当然さ。相手を救うには、それ相応の代価が必要だ」
例外はない。
先程の話のように、命を取られるかもしれない。
流石のマリアも、直ぐには頷けなかった。
「考え……させて下さい」
「構わないよ。次の晩、また私は此処に来る。そこで契約を結ぶか否か、聞こうじゃないか。あぁ、それと言っておくけど、他の人にこの話はするんじゃないよ。ワタシにはアンタの心が分かる。もしそうするなら、話はこれっきり。始めから無かった事にするからね」
そう言った瞬間、魔女は姿を消した。
どうやって消えたのかは分からない。
瞬きした間に、闇の中へと消えてしまった。
夢だったのか、幻だったのか。
直後、マリアを追って来た従者が、訝しげに問い掛ける。
「あ、あのマリア様……今、一人で何を話していたんですか?」
彼女は答えられなかった。
次の日。
マリアはセヴァルの元へと見舞いに行った。
既に余命の事は周知の事実だ。
だからそんな中でも見舞いに来てくれたことに、彼はとても申し訳なさそうになりながら、ベッドの上で謝った。
「ゴホッ、ゴホッ……! マリア……ごめん……」
「セヴァル……どうして貴方が謝るの? 私の事は、気にしないで……」
「そう……だったね……。あはは……はは……」
苦笑するセヴァルには、もう殆ど力が残っていない。
あれだけ快活だった表情も、面影は無くなりつつある。
マリアは両手を震わせながらも、身を乗り出す。
昨日の話は出来ない。
だが、仄めかすように問い掛ける。
「砂礫の魔女。セヴァルが、前に話してくれたわよね? もし……そんな魔女がいたとしたら、どうする……?」
「どんな願いも叶える……ね。もし、それが出来るなら……」
セヴァルは虚ろな様子でマリアを見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「俺の事を……忘れてほしい」
「え……?」
「コレは治らない。だからせめて、皆が悲しまないように……」
胸に大きな何かが突き刺さった気がした。
痛い。
どうしようもなく、痛い。
セヴァルは思わずハッとして、取り繕う。
「な、な~んて、な! 冗談だよ……! ゴホッ、ゴホッ……! ちょっと……ちょっと、気が弱くなってたのかなぁ……らしくないや……」
マリアは、もう何も言えなかった。
ただ自身の膝元に視線を落とす。
起き上がっていた身体を横にしたセヴァルは、ゆっくりと瞼を閉じる。
「なぁ……あのハープの音色、聞かせてくれないか? とても、落ち着くから……」
今の彼にとっては、それが最大限の願いなのかもしれない。
今まで何度も弾いて聞かせた、美しい音色。
だからこそ、マリアは一つの決心をした。
「病の正体は、強力な呪いだったよ」
「呪い?」
「あの男の先代が、何かやらかしたんだろうね。その時の呪いが、巡り巡って降り注いだって訳さ」
「そんなことが……」
「相当な力だ。でも、この砂礫の魔女ならば容易いことだ」
その日の夜。
魔女は神出鬼没の如く、彼女の自室に現れた。
他の者には見えていないようで、存在を認識してすらいない。
無論、それは幻覚ではない。
昨日明かした通り、下町では二人の平民が謎の不審死を遂げていた。
砂礫の魔女は、間違いなく此処に存在する。
「代償は……何ですか?」
「そうだねぇ。命を貰う、という程のものでもないからねぇ」
試すように、魔女は笑みを浮かべた。
「アンタの存在を頂こうか」
「……どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。アンタは美しい。あの男を救うだけの対価には十分成りえる」
「……!」
「まさか、男を治してやり直せる、なんて考えていたんじゃないだろうね? 本来なら治せない呪いを治すんだ。それだけの事はして貰うよ」
つまりそれは、自分の存在が消えるという事だ。
曖昧だが、死に近い代償を払うことに変わりはないだろう。
マリアは、死にゆくセヴァルの姿を思い浮かべた。
そしてゆっくりと息を吐き、明確な意志を持って告げる。
「分かりました。契約します! どうか、セヴァルを助けて下さい……!」
「契約成立だ。喜びなさい、マリア・シュトラーゼ。その願い、今ここで叶えよう」
●
砂礫の魔女は消えた。
代償も支払われた。
直にマリアの存在は消失する。
だからこそ、彼女はセヴァルとの婚約破棄に踏み切った。
尤もらしい理由を付けて、彼に自分を諦めさせるためだ。
最後にあったセヴァルは、未だに痩せ衰えていたが、それでも快方に向かっている。
その確信があった。
だからこそ数日後、彼女は安心して姿を暗ませた。
両親への謝罪の手紙を残して。
「マリア様がいません!」
「どういうことだ!? あの子がそんなことをするなんて! 必ず探し出すんだ!」
マリアは近くの森に逃げ込んだ。
逃げる意味は他でもない。
既に彼女の両腕は、得体の知れないナニカに変わっていた。
黒い体毛、鋭い爪。
まるで闇に棲む獣のように、醜く変貌していた。
「存在が消える……人じゃ、なくなるって事だったのね……」
直ぐにでも、この変化は全身に及ぶだろう。
怖い。
確かに怖い。
だがそれ以上に彼女は、セヴァルの身を案じた。
「セヴァル、元気かな……」
貴族というレールしか知らなかった自分に、恋を教えてくれたのはセヴァルだった。
彼が生きてくれていれば、笑ってくれていればそれで良い。
それ以上は、もう何も望まない。
しかし、不意に思い出す。
彼の笑みに、自然と微笑んでいたあの頃を。
ハープの音色を聞かせていた、あの他愛もない日常を。
そして今、目に映る自分自身の両腕を。
「これじゃ、もう、ハープも弾けない……」
マリアの瞳から涙がこぼれる。
その涙だけは、確かに人のそれだった。
全身を黒い狼の姿に変えながらも、彼女には人の心が残っていたのだ。
「ば……化け物だ! 化け物がいるぞッ!」
そして、事態は急転する。
森の中で狩りをしていた平民たちに、この姿を見られてしまったのだ。
今のマリアは、人と同じ位の大きさがある狼そのもの。
どんな対応をされるのかは、考えるまでもない。
「まさか、この森にこんな狼が!?」
「剣を持て! 殺されるぞッ!」
殺される。
そう悟ったマリアは、思わず声を張り上げた。
こんな姿でありながらも、未だ声だけは元のままだった。
「待って! 私はマリア! マリア・シュトラーゼよ! お願い、話を聞いて!」
人の声を喋り始めた狼に、狩人たちは驚く。
しかしそこまでだった。
彼らは彼女の名前に首を傾げるだけだった。
「マリア? 誰だそれは?」
「シュトラーゼって言ったら、貴族の名だろう? でも、マリアなんてヤツいたか?」
「俺も、知らないなぁ」
シュトラーゼの名を知らない筈はない。
娘であるマリアのことも、この土地の人間ならば誰もが知っていることだ。
そこで彼女は、ようやく気付く。
自分の存在が忘れられている。
姿が変貌することとは別に、マリアという少女が、皆の記憶から消失しているのだ。
これもセヴァルを救うために背負った代償の一つ。
魔女が言っていた消失の意味を、彼女はようやく理解した。
「構うな! 俺達を惑わそうとしているんだ! 撃てッ!」
マリアは逃げた。
飛来する矢の群れを掻い潜り、森の奥深くへと逃げ延びる。
だが、何処に逃げれば良いのだろう。
最早、誰も彼女の事を覚えていない。
そして、こんな獣の姿では誰も信じる訳がない。
「はぁっ……! はぁっ……!」
どれだけの時間が経っただろう。
日はとっくに落ちた。
息を切らして、マリアは大きな湖までやって来る。
追手はいない。
ゆっくりと彼女が湖を見下ろすと、水面には漆黒の毛に包まれた狼の姿があった。
「もう、皆が私の事は忘れて……こんな姿で、会いに行っても……」
独り言の如く呟くと、遠くから男達の声が聞こえる。
「あの狼は何処に行った!?」
「まだこの辺りに隠れている筈だ! 必ず探し出せ! 皆に危害が及ぶ前にッ!」
狩人たちは、周りを探し回っている。
見つかるのも時間の問題だろう。
「このまま追われて、吊るし上げられる位なら……いっそここで……」
一歩一歩、湖に向かって歩き出す。
後悔はない。
存在というもの全てを代価にした彼女は、自ら命を絶とうとした。
直後、背後から呼び止める声が聞こえる。
「見つけたぞ」
聞き覚えのある声に振り返る。
宵闇から現れたその姿を見た瞬間、彼女は息を漏らした。
(あぁ……)
セヴァルがそこにいた。
呪いは完全に取り除かれたようだった。
未だ衰えは見えるが、自身の足で立ち、剣を手に持ち、狼となったマリアを見つめている。
表情は固く、いつになく真剣な様子だった。
騒動を聞きつけ、狼であるマリアを討ち取りに来たのだ。
記憶も当然奪われている。
声を出した所で、意味がないことは分かっていた。
(他の誰でもない、貴方に殺されるなら、私は……)
彼の無事も分かった。
最後に会うことも出来た。
もう十分だった。
マリアは目を閉じて、己が斬り伏せられる瞬間を待った。
だがいつまで経っても、それはやって来ない。
痛みも感じない。
不思議に思って目を開けると、彼は目の前まで歩み寄って、悲しそうな表情をしていた。
「やっぱり、君だったんだな。マリア」
「え……」
聞き間違えではない。
セヴァルは確かに、マリアの名を口にした。
「どう……して……」
「皆、マリアの事を忘れていく。始めからそんな人はいないって。でも俺は、覚えていられた」
剣を鞘に収めて、彼は言った。
何故、マリアの存在が消えた中で覚えていられるのか。
理屈は分からない。
彼自身も理解出来ていないようだった。
ただ一つの予感を抱いていたのか、マリアに問い掛ける。
「砂礫の魔女。前にそう言ったよな。まさかって思った……。でもそれが本当なら……まさか君は、俺を助けるために……そんな姿になったんじゃないのか……?」
あの時聞いたことも覚えていたのか。
否定する余力は、既にマリアにはなかった。
肯定という名の沈黙が流れると、彼は肩を震わせて、涙を流し始めた。
「う……うぅ……!」
「泣か……ないでよっ……」
「何でだよ! 何でこんな事したんだ! 俺は死ぬ覚悟だって出来てた! なのにッ……! マリアがこんな姿になったんじゃ、意味がないじゃないかッ……!」
「貴方に……貴方に、いてほしかったのよ! 生きていてほしかったの! だから、もう良いの!」
「良い訳ないだろ! 馬鹿ッ! どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「っ……!」
「来るんだ、マリア! 俺と一緒に!」
目元を拭ったセヴァルは手を差し伸べる。
それはいつもと変わりなく。
あまりに眩しくて、彼女は思わず叫んだ。
「駄目よ! 止めてッ!」
「……!?」
「こんな姿じゃ、誰も分かってくれない! 何も出来ない! ハープを弾くことも、セヴァルに聞かせることだって……!」
「だったら! だったら、俺が弾く!」
彼が手を引くことはなかった。
ハッとしてマリアが見上げると、揺れる瞳が彼女を真っ直ぐに見つめていた。
「俺、楽器は下手クソだけど! 頑張って練習するよ! 同じにはなれないかもだけど! それでもあの音色を、マリアを忘れたくないんだ! だからッ……!」
マリアの視界がぼやける。
同時に、林の奥から複数の男達が躍り出て来た。
彼女を追って来た狩人達だ。
彼らは黒い狼と、対面する子息の姿を見て驚きの声を上げる。
「いたぞッ! 例の狼だ!」
「待て! あれはヴィクトリア家の御子息では!?」
「何てことだ! 襲われているぞ! 助け出さなくては……!」
狼に襲われた貴族。
そう思い込んだ狩人達は一斉に、弓矢を構える。
二人は息を呑むが、もう逃げるだけの猶予はなかった。
「放てッ!」
幾つもの矢が、音を切って迫る。
セヴァルが身を乗り出して、マリアの元に駆け寄る。
分かるのはそこまでだった。
彼女の視界は一気に暗闇に落ち、何も見えなくなった。
●
気が付けば、マリア達は森の更に奥深く、巨大な樹が聳える場所にいた。
先程までいた狩人達の姿はなく、迫っていた矢も消えている。
まるで自分達が突然、別の場所に転移したような感覚。
二人は全くの無傷のまま、お互いに顔を見合せた。
「一体、何が起きたの?」
「どうもこうもない。アタシが助けたのさ」
唐突に聞き覚えのある声がして、マリアが振り返る。
そこにはあの砂礫の魔女が、溜め息をつきながら待ち構えていた。
セヴァルも只ならぬ空気を察して、思わず彼女を庇う。
「全く、折角契約してやったのに、いきなり死なれたんじゃ骨折り損じゃないか。こういったことは、今回限りにしておくれよ」
邪悪な笑みはなく、二人の行動に呆れているようだった。
魔女の言葉には、以前とは違う雰囲気を感じ取れた。
突如包み込んだ暗闇と、今の状況。
マリアは目の前の魔女こそが、自分達を助け出したのだと気付いた。
「私達を助けて……? も、もしかして、何か代償を……」
「だ、代償なら、俺が払う! だからマリアだけは!」
「あ~、大丈夫さ。今回はサービスにしておくよ」
魔女は見返りを求めない。
自分の利にならないことを承知の上で、二人を助けたようだ。
単なる気紛れ、ということなのか。
困惑するマリア達に向けて、彼女は珍しそうな視線を向けた。
「しかし、妙なことになったもんだねぇ。アタシは確かに、アンタの存在を全て奪ったのに、男の方はしっかり覚えている。繋がりってモノが、あったのかもねぇ」
「……」
「そう警戒しなさんな。もう、契約分の量は頂いたんだ。これ以上は、何もしないさ」
そう言って、黒装束を翻す。
これ以上手を出すことはないと言わんばかりに、背を向ける。
だが不意に動きを止め、呟くように言葉を並べた。
「これから先は好きにやれば良い。どうなるかはアンタ達次第だよ。ただ、一つだけ教えておいてやろう」
月明かりが、彼女達に向けて差し込む。
「男の呪いは、性質を変えて移し替えたに過ぎない。言わば、恨み辛みがその子の身体に降り注いでいる。その状態が、今の姿さ。それをどうにかしたいなら、それ以上の思いで克服すれば良い」
「思い……? それって……」
「アンタ達は、もうそれを知っている筈だよ」
皆までは言わない。
仄めかす助言だったが、二人はそれが何であるか直ぐに気付いた。
そして今まで黙っていたセヴァルが、一歩前に踏み出す。
目の前にいるのはマリアの存在を奪った悪しき魔女だが、それでも彼は真摯な瞳で見つめる。
「ありがとう、砂礫の魔女! 貴方のお蔭で、俺達はまだ一緒にいられる……!」
「よしとくれ。これは本当に例外さ。アンタ達を見て、アタシも昔を思い出した。それだけさ」
魔女が答えたのはそこまでだった。
次の瞬間、彼女の姿は闇の中に消える。
まるで始めから何もいなかったかのように、残されたのは二人だけだった。
マリアは消えた魔女の姿を思い浮かべ、空を見上げた。
「優しい魔女、だったのかしら」
「分からない。でもあの人に救われた命を、俺達は無駄にしちゃいけないと思う」
彼の言ったことは正しい。
気紛れだろうと何だろうと、魔女はマリア達を救ったのだ。
その幸運から目を逸らしてはいけない。
セヴァルは、もう一度彼女を見つめた。
「だから俺は絶対に手を放さない。一緒に来てくれ、マリア」
真っ直ぐな目だった。
もう、マリアに首を振るだけの意志はなかった。
小さく頷き、一歩一歩彼に近づく。
するとセヴァルは、狼姿の彼女を優しく抱きしめた。
申し訳なさでいっぱいだったが、マリアはそれを、とても温かく感じた。
次の日、セヴァルは黒い狼を屋敷に連れ込んだ。
驚く人々を前に、彼はその狼を飼うと言い出したのだ。
元々突拍子もない人物だったので、彼の変人ぶりは今に始まったことでもない。
大きさに反して非常に大人しかったので、何かあれば直ぐに処分する、という条件を元に共に暮らすことを許可された。
セヴァルは狼をマリアと呼び、大切に育てた。
食事も寝床もそして衣服すらも、まるで人間のように扱い、会話すら投げ掛けたのだ。
そして今まで触れることすらなかったハープを、実に下手くそなものだったが、何度も弾き続けた。
「マリア、どうかな? 少しは上手くなっただろう?」
「――」
「えぇ、まだまだ!? あはは! 手厳しいなぁ!」
周りの者は、以前患った病でセヴァルはおかしくなった、と思い始めた。
そうして皆、彼らの事を遠ざけるようになった。
貴族という立場上、人前に出る機会も少なくなる。
それでも彼はマリアという狼を手放すことはなかった。
周りの目を気にすることなく共に過ごし、楽器を弾いて聞かせたのだ。
それから何年かが経った。
皆がセヴァルの事を意識の外に起き始めた頃だった。
働く従者達が、彼らの姿を見かける。
普段あまり見かけないが、庭園を散歩しているだけで、特に珍しくもない光景だ。
しかしその日だけは、彼らの姿を見た民衆が、不思議そうな声を上げる。
「なぁ、見ろよ。あの娘」
「あれ? あんな人、今までいたかな?」
セヴァルの隣にいたのは、美しい女性だった。
身分は分からないが、貴族のような出で立ちと美貌に、皆が目を奪われた。
心当たりはない。
周辺に暮らす貴族ならば顔を知っている筈だが、誰も娘の名を答えられなかった。
見覚えはあるけれど、何処で見たのかは分からない、そんな感覚。
ただ、一つだけ分かるのは。
笑いあう二人の姿は、とても幸せそうに見えることだけだった。