貴女さま⑨
「リッカさま、申し訳ございません。ここに居て――」
「アリスさん。急いで降りましょう。嫌な予感がします」
「リッカさま!?」
ここに居て欲しかったのですが、リッカさまは走り出してしまいました。私は今杖がありません。甘かった。私は何を――いえ、後悔は後です。すぐに降りて、杖を取り、オルテさんと連携して倒します。それで良いはずです。
『アルレスィア、拙い』
「分かっています。今から向かいますから」
『違う。オルテがやられた』
「――っ。まだ、戦えますか?」
『死んではいない。急ぐんだ』
集落への強襲。こんな事が起きるとは……っ。私の見通しの甘さが、オルテさんの負傷へと繋がってしまいました。死んでいない、という言葉はつまり、戦えない事と同義です。
しかし、慌ててはいけません。治療の時間さえ取る事が出来れば、まだ――。
『それと、リツカはまだ魔力に馴染んでいない。だから、どんなに頑張っても魔法は発動出来ない』
「そういう事は先に言って下さい!」
拙いです。リッカさまがどんどん坂を降りて行っています。何て速度なのでしょう。下り坂をあの速度で走れるなんて……っ。
魔法は想いがあれば詠唱が思い浮かびます。しかし、魔法自体使えないなんて聞いていません! 不本意ながら……本当に、本当に嫌なのですが、リッカさまが戦わなければいけない段階だと、考えました。しかし、魔法がないのなら絶対にダメです!
なのに……っその想いとは裏腹に、リッカさまの速度はどんどん上がっています。もう着いてしまう。あれを見られてしまう……!
坂の中腹辺りに差しかかると、悪意が更に膨れ上がりました。これは、昨日見たものよりもずっと……っ!
「グモ゛オオオオオッ!!!」
「っ……」
これは、大型……ホルスターンですか!? 馬や小動物どころの騒ぎではありません。ホルスターンは、たとえオルテさんが万全であっても倒せるかどうか、怪しいです。
「リッカさま! ダメです! 今はまだっ」
「っ……アリスさん! 今は急ぐべきです!」
リッカさまが止まってくれません。雄叫びと悲鳴が聞こえたからでしょう。リッカさまは額に汗を流しながらも、その瞳は戦意に満ちています。あれは、戦う気です。
しかし、見た瞬間に……体が固まるでしょう。その隙に、リッカさまには一度引いて貰います。きっとリッカさまは、そうしてくれるはずです。魔法がない人が戦える相手ではありません。だから……。
(して、くれますよね……?)
リッカさまの背を追う私は、言い知れない不安感に苛まれています。真っ直ぐに、全力で走っているリッカさまの背は……何かを物語っているように感じるのです。
坂を降りきり、対象を目視しました。体長約三メートル。大きな角は禍々しく天を衝き、黒く硬い毛に全身を覆われています。
(やはり、ホルスターン……!)
集落の家畜場から出たようです。外からやって来たのではなく、集落から……出てはいけないところから、出て来たのです。
見た瞬間に体の芯が訴えかけてきます。これには、勝てないと……っ。
(オルテさんは……)
血塗れですが、生きているようです。アルツィアさまから連絡を受けてすぐにやってきたとはいえ、まだ生きてくれている、という事は……。
(嗜虐性が、強いのですね)
であれば、すぐさま行動するべきです。オルテさんが生きているのなら、何とかなるはずです……! 今この場で、あれと戦えるのはオルテさんしか……居ないのですから。
「疾風よ!」
「アリスさん!?」
計画通り、リッカさまは止まってくれました。私の動きを見て、リッカさまもこちらに、ゆっくり向かってきてください。
マリスタザリアには大きく分けて二種類が居ます。嗜虐性が強い者と、殺意が強い者です。今回の敵は前者です。
この、嗜虐性が強い敵に対しての行動としては、抗戦が正解なのです。怪我人であるオルテさんを弄んでいたのでしょう。それを続けたくて仕方が無いのです。
ならば私は”盾”を張り、抗戦します。そうすればこの敵は、私の”盾”を叩き続けるでしょう。必死で耐える私と、怯える集落の者達、怪我人のオルテさんが居れば、こっちに集中するはずです。
ですから、その間に……こちらに!
「お父様、防衛再編成を。お母様は私の杖をお願いします」
両者に短く告げ、簡易的な”盾”を張ろうとした時です。
「グモ゛?」
コツンという音と共に、マリスタザリアが首を傾げました。
私の視線は、不可解な動きをしているマリスタザリアではなく……その足元に落ちた石に、向いています。
「え?」
何で石が? 何でそこに転がって? 何でマリスタザリアは私ではなく後ろを向いて? 色々な疑問が湧くよりも先に、私の背筋と脳は冷え切っていました。
(リッ――)
石を投げたとみられる格好の、自分でも何をしているのか分からないという表情のリッカさまが、瞳に闘志を燃やして、立っていました。
「何を――!!」
誰が言ったのか、分かりません。多分お父様だったと思います。お母様は急いで杖を取りに行ってくれましたから。
私は――何も考えられずに、固まってしまいました。
瞬き程の間に、一歩で十数メートルを移動したマリスタザリアは、リッカさまに対し、手に持った棍棒を振り上げていたのです。
『アルレスィア!!』
「っリッカさま!」
普段では絶対に上げない声音で、アルツィアさまが私を呼びました。何を呆然としていたのでしょう。早くリッカさまの元に行かねば――。
「!?」
私は目を疑いました。魔力が未だに馴染んでおらず、普通の人よりも力のないはずのリッカさまが、棍棒を軽々と避けたのです。
しかもただ避けたのではありません。迫り来る棍棒と腕を撫でる様に華麗に避けた後、くるくると側転や宙返りをしながら大きく離れました。それだけ、余裕があったのです。
命を奪う一撃でした。あんな速度で近づかれて、避ける間もなく棍棒で吹き飛ばされる光景を幻視した程です。
なのにリッカさまはまだ……マリスタザリアと相対しているのです。
しかしまだ、危険で在る事に変わりはありません。
「リッカさま!」
早くこちらへ。そう伝わっているはずなのに、リッカさまはこちらに来てくれません。その背中が、言っています。そちらにいけば、私が傷つく……と……。
「グァア!!」
再び棍棒を振り上げ、マリスタザリアはリッカさまに殴りかかりました。
「――っ!」
空気を裂いたような音が聞こえる棍棒の攻撃は、リッカさまの頭を狙っていました。しかしリッカさまは大きく横に跳ぶと、再び宙返りをしながら離れていきました。
「そうだ……しっかり避けねば……掠っただけでも……!」
リッカさまは今回、ギリギリで避けませんでした。いいえ……一度目も、ギリギリに見えて余裕があったのです。
お父様は、リッカさまが回避に専念したと思っているようです。しかし、私にはそう見えません。
リッカさまには、相手の攻撃が何処に来るのか……分かっているかのようでした。
その証拠に……地面に叩きつけられた棍棒は、その破壊力を石飛礫という形で示しました。再びギリギリで避けていたら、飛礫に……。
「剣を……」
オルテさんが目を覚ましたようです。そして、リッカさまを見て呟きました。その呟きに私は、視線をリッカさまに戻します。オルテさんの言うとおり、リッカさまは剣を拾っていました。避けた先に落ちていた剣を、拾っていたようです。
「リツカ様では……あれは……」
「オルテさんの治療をお願いします。私はまだ、杖が」
「は……はい!」
リッカさまは細腕です。あの重たい剣を使うのは不可能のはず。なのに手に取ったのは、武器がそれしか、ないからです。リッカさまには魔法がなく、戦う武器を持って来ていた様子はありませんでした。
「……」
リッカさまがこちらを見ています。その表情は、こちらを心配しているようです。オルテさんがまた立ち上がり戦おうとしているからでしょう。しかし今一番の心配事は、リッカさまの方……っ。
(しかし、杖の無い私が行っても……)
現状リッカさまは避ける事が出来ています。ならば、杖を待つのが最良のはず、です……っ。杖の無い私が行ったところで、足手纏いでしかないのですから。しかし、このままリッカさまを矢面に立たせるなんて……!
「ぁ……っ」
マリスタザリアが、当たらない棍棒による攻撃を諦め、手を突き出しました。それは、リッカさまを握り潰そうとしているようです。
しかしリッカさまならば簡単に避けられる速度……なのにリッカさまは一向に動こうとせず、地面を――じゃり、と鳴らしたのです。
「――シッ!!」
リッカさまは短く息を吐くと、地面を強く踏みつけました。そしてその足を軸にくるりと回ると――剣で、マリスタザリアの腕を斬りつけたのです。
「斬っ、た……?」
オルテさんが驚愕の表情で、膝をつきました。
振る事すら難しい重たい剣を軽々と振れた事も、回避と攻撃が一体となった動きも驚きですが……何よりも斬った事に、驚きが隠せません。
何しろあの剣は――訓練用の、刃が殆ど潰れている物なのですから。
(切れなくは、ないです。あの剣でも、抉ったような傷はつけれます。しかし、リッカさまが付けた傷は、どう見ても……っ)
包丁でお肉やお魚を切った時のような、鋭い傷なのです。
なぜあんな事が出来たのか。オルテさんや守護者達は目を見開いて驚愕したまま固まっています。
でも私は、視ました。
リッカさまが地面を踏みつけた際、驚くべき力がリッカさまの足元に発生したのです。その力は本来、地面を傷つけるだけで終わったでしょう。しかしリッカさまはその力を、体内に流したのです。
踏みつけた時の力はそのままリッカさまの体に入り込み、剣先へと駆け上がりました。ただ駆け上がったのではありません。筋繊維がまるで鞭のようにしなり、先端へと力を伝えていきました。
筋繊維から筋繊維へ、関節から関節へ、回転という形で伝えて行った力は増幅されていき、剣先を風に変えたのです。
(普通の人だったら……一回で筋肉がぼろぼろに……いいえ、あの速度で剣を振ったのです。体が千切れたかも、しれません)
なのにリッカさまは、少しも怪我をした様子がありません。斬りつけた直後すぐに飛び退いたのです。
「一体、何の魔法を……」
「いいえ、魔法では……ありません」
魔法を疑うのも無理はありません。粗悪な剣でも、”精錬”や”風”を使えば同様の傷をつけられます。
しかし、リッカさまは魔法を使えません。だから、あれは――。
「あれは、技術です」
神懸り的な身体能力により、あの剣は粗悪な物ではなく名剣となったのです。
(これが、アルツィアさまが言っていた……リッカさまの、戦う力)
敵の攻撃を未来予知の如き正確さで避けるだけでなく、粗悪な剣を名剣へと変えられる戦闘技能を有しています。
それは、この世界にはない技術です。
(ですが、今はまだ……っ!!)
リッカさまが戦えるのは分かりました。魔力や魔法に目覚めれば、リッカさまは誰よりも強くなれるという確信が持てました。
しかし……今はまだ、ただの少女です。
「っ……」
たった数度の攻防でしかありません。しかし……マリスタザリアとあの距離で戦える人が、どれ程居るのでしょう。もっと言えば、戦おうと思える人が、どれ程……。
私は、遠目から見ただけで震えた。想いがブレたのです。なのにリッカさまは、堂々と戦っています。出会ってすぐの私や集落の方達の為に、石を投げ当て自身を差し出したのです。剣を手に取り、敵と戦っています。
それでも、疲労しないはずはありません。リッカさまが少し距離を空けようと下がった時、マリスタザリアが作ったであろう地面の窪みに、躓いてしまったのです。
それを見たマリスタザリアは、醜悪な笑みを浮かべてリッカさまに近づこうとしました。
マリスタザリアは恐怖の権化。視線が合えば体は竦み、声を聞けば体は固まり、相手が動けば死を覚悟する。そんな相手に対して、リッカさまの距離で戦う事自体、安全策に安全策を重ねて、やっと出来る事なのです。その精神的疲労は、リッカさまの集中力をほんの少し削りました。
躓いたリッカさまを見た私は――疾走しました。何か策がある訳ではありません。杖のない私は、何も出来ないに等しいです。しかし、だからといって……リッカさまが傷つくのを、黙って見続けるなんて――。
(出来る訳ないでしょう!)
「私に盾を!!」
今の私が出来る、本当に弱弱しい”盾”。でも、リッカさまを守る為の”盾”ならば――これくらい、耐えられるはず……!
「っ……ぁ……」
私の”盾”に、棍棒が直撃しました。壊れる気配はありません。でも、私は違います。踏ん張りが利きません。このままでは――。
「あ……」
気付いたら、私は、空を見ていました。先ほどまで、リッカさまと見ていた星空が……高台より低いはずなのに、近く見えます。それにすごく、時間がゆっくり流れている気がするのです。
「あぅ……っ」
「アリスさん……」
小さい衝撃と共に私は、リッカさまの腕の中に納まりました。どうやら私は今まで、空を飛んでいたようです。あの棍棒で吹き飛ばされて……リッカさまが受け止めてくれなければ、死……。
「リッカ、さま……?」
「待っていて下さい。アリスさん」
自分の体が震えているのが、分かります。血の気が引き、視界が揺れています。でも、そんな私の目は、決意の赤を灯したリッカさましか――映していませんでした。
「私が……守ります!!」
そして優しく私を下ろしたリッカさまは、再び剣を構えました。その身に、真っ赤な魔力を、纏って――。
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