花咲く場所
少年の母はとても逞しい人だった。夫の死を忘れるために住み慣れた家を捨て、森の奥にある小屋へ引越し、そこで乳飲み子と共に新たな生活を始めるほどの体力と決断力の持ち主であった。しかし逆に、夫の死を忘れるためにそこまで思いきった行動をとらなければならなかったのだとしたら、精神的には弱かったのかもしれない。
少年は母の愛情を充分に受け立派な青年に育っていった。それと反比例し彼の母は老いてゆき、ついには臨終の時を迎えようとしていた。
「花を持ってきておくれ。明るい色のついた花を。」
母は家の周りに畑を作っていた。そしてその隅には花だけが咲く畑があった。母はその花をとても大切にしていて、畑仕事の出来ない体になってもその花の世話をし続けていた。
青年は言われたとおり花を持っていった。
彼女の言う通りなるべく明るい赤や黄の色を選び、それを花瓶いっぱいに飾って母の枕元に置いた。それを見た母は、とてもうれしそうに微笑んだ。無邪気な少女のような屈託のない笑顔を浮かべた。そしてその日の夜逝ってしまった。
青年は近くの町で葬式を挙げた。母は身寄りのない人で身内は彼だけだったが、母の友人達のおかげで申し分ない式をあげることができた。母の墓は町の近くにある墓地に作られ、青年は遺灰を一掴みもらい畑にまいた。この畑の主は母だ。彼はそう思っていた。
一人になってしまうと家の中は急に寂しく、空っぽになってしまったように感じる。
それでも青年は母のようにこの場所を捨てる気はなかった。他に行きたい場所があるわけでもなかったし、母よりも若い自分はきっと、すぐこの広い空間になれるだろうと思った。
実際そうだった。けれど母が大切にしていたあの隅の花畑は無くすことにした。畑は広いので自分には面倒見きれなかったのだ。
翌日朝早く、青年は花畑の花を全てつみとり、そして家のそばを流れる川に捨てた。
ある夜のことだった。青年は明日市場へ行く準備をして眠りにつこうとした。そのとき、家の戸を誰かが叩いた。青年はいぶかしげに立ち上がった。
「どちら様ですか?」
戸のすぐそばには老夫婦が立っていた。二人とも背に籠を背負い青年に向って微笑んだ。
「夜分遅くすみません。私達はあなたにどうしてもお礼が言いたくて参ったのです。」
そして籠を下げ、中からジャムや蜂蜜、薪の束をとりだしてそれらを差し出すのだ。
「どうぞ受け取ってください。」
青年は面食らってしばし固まっていた。
この老夫婦には初めて会う。まったくの初対面だ。なのに二人は自分にこの品々を受け取れと言う。こんな夜遅くに重い荷物を背負って自分に礼を言いたくて来たのだと言う。
とにかく事情を聞くべく、青年は二人を家に招き入れた。二人ともかなりの長旅立ったらしく、靴には泥がこびりついている。
「私どもはここより下流に住む者です。」
お茶を一口のみ、老人が言った。
「先日、娘の結婚式を行ったのですが、なにぶん貧しく充分な嫁入り支度をしてやることができませんでした。」
家のしきたりで娘は戸口で夫になる人を待っていた。古い花嫁衣裳はあまり華やかではなかったが、娘は父と母に涙を浮かべて礼と別れの言葉を述べていた。
娘が発とうとした時、家の前の川から花が一輪流れてきたという。それだけではさして珍しくもなかったのだが、花は上流からどんどん流れてきた。それはまるで、祝福するように惜しみなく、川を花で埋め尽くしたのだ。
「娘はその花の川を渡って嫁いでいきました。夢のように美しい、華やかな式をあげることが出来たのです。」
老婦人は目元をそっとハンカチでぬぐった。
「これはそのお礼なのです。どうぞ受け取ってください。」
青年はその申し出を無下に断ることが出来なかった。この重いジャムや蜂蜜の入った瓶を老夫婦に背負わせて帰す事など出来るはずがない。ましてや自分が食べる事も売る事も出来なかった。
しかし、何故この老夫婦は自分が花を流したと分かったのだろう。疑問を抱えたまま青年は戸口まで出て老夫婦を見送ろうとして家の外に出た。その時、目に信じられないものが映った。庭の隅にあの花畑が残っている。明るい月光の下、赤や黄の明るい花がかわいらしく咲いている。
青年は呆然と立ちすくんだ。あの日、確かにひっくり返して無くしたはずの花畑がちょこんと残っていた。
翌日青年はジャムや蜂蜜を母の友人達に譲りに行った。この前立派な式を挙げさせてもらったお礼だとか、そういう口実をつけて押し付けに行った。
朝市で野菜を売ってから行こうと思った。いつもの場所でござを引き、豆や芋、野菜を並べて商売を始めた。なじみのお客や知人と会話しながら全て売り終わり、自分の買い物をするためににぎやかな市場を歩き始めた。
この市場には産まれた時から青年は通っている。母に連れられ、市場の隅々を見て歩いた。幼かった青年にとってここは何よりも楽しい場所だった。
甘い焼き菓子の屋台、きらきら光るおもちゃ屋のガラス玉、遠い国の果物。海の近いこの町には海産物も豊富にある。
青年がいつも昆布や干物を買うのは小麦色の肌をした母娘の店だった。自分達で採ったものを直接売りにくる彼女らに、幼い自分と母の姿を重ねたからかもしれない。
その店はいつも通り、市場の端の方に構えてあった。だがこの日は娘一人だった。いつも威勢良く声を張り上げる彼女の姿はなく、今日はおとなしく座っている。
母親はどうしたのか気にはなったが、青年は尋ねなかった。いつも通りの買い物を済ませ、娘から品物を受け取った。
青年はまた花を捨てに行った。すぐにでも捨てに行きたかったのだが、台風がきたのでしばらく家から出られなかったのだ。
今度はなるべく人目につかぬよう夜を選んだ。そしてなるべく下流まで行き、思いきり良く花を捨てた。花は激しい流れに乗ってどんどん流れていく。これでよし、と青年は思い家に帰った。
案の定、今度は誰にも見られていなかったらしく何日経っても誰も訪ねてこなかった。花畑も変わりなく土の掘り返された跡を残していた。
青年はいつも通りに畑の世話をし、収穫をし、過ごしていった。そしていつのまにか、あの不思議な出来事などすっかり忘れていた。
しばらく雨が続いたある日の晩、青年は豆のスープを作っていた。すると誰かが戸をたたいた。青年は不思議そうに立ち上がった。戸を開けると合羽を着た小麦色の肌をした娘が立っていた。
「夜分遅くすみません。」
娘が暗い顔で笑った。
青年はふいに、いやな予感がした。
娘は丁寧に厚い皮で防水された重そうな籠を下ろして彼に差し出した。
「あなたにお礼が言いたくて来たんです。どうぞ受け取ってください。」
娘の靴は泥水と長い道のりのため、ひどく汚れていた。青年はかろうじて震える声で娘を家の中に招き入れて火のそばに席を進めた。
「いったいどんな事情でこんな荷物を背負ってわざわざここまで?」
柔らかい布と温かなスープを出し、青年は半ば途方にくれていた。
若い娘が夜に、それもこんな雨の中を訪ねてくるなんて一体何を思ってのことなのだろう。理由を考えるだけでため息が出る。
「お礼を言われる事などなにもやっていない。次の市場までこの品物を預かっておくが、受け取る事は出来ない。」
「いいえ、受け取って頂かなければなりません。」
娘は深い緑色の目でじっと青年を見つめ、言った。
「あなたが花を海に流していないと言うのであれば、私はこの品物を持って出て行きます。」
その瞬間青年ははじかれたように家の外に出た。
雨は止んでいた。雲の切れ間から光がカーテンのように差し、庭の隅に当たっていた。そのふもとで月光に照らされ濡れた花がゆれていた。
青年はがっくりとひざをついた。こんなことがどうして起こるのか、一体全体この花は何を思ってここに居座る気なのか。薄気味悪いと言うより、これはもうただただ理解に苦しむ。
はっと青年は顔を上げた。この花畑は最初からここにあったのだろうか。いいや違う。ここには畑なんてなかった。
彼はやっと気づいた。ここは母の遺灰を巻いた場所だった。
「負けたよ母さん・・。」
力無く青年はつぶやいた。花は何も答えない。
母の墓参りを欠かした事は無かった。けれど母に強く依存しているというわけでもない。解るのは母がここに残りたいと強く願っている事だけだった。
それが母の気持ちなら、もうつみ取るのはよそう。青年はそう思って立ち上がった。娘は青年の奇怪な行動に少し驚いていたようだった。
「あの花を流したのは私だ。けれどそれは、面倒見切れないならいっそつみ取ってしまった方がいいという、身勝手な気持ちから流したのであってけっしてあなたに感謝されるようなものではない。これらの品々は申し訳無くて受け取る事など出来ない。どうかわかってもらえないか。」
しかし娘はなおも首を横に振った。月明かりのせいか、娘の表情は暗い影などなく晴れ晴れとして見えた。
「あなたにこの贈り物を受け取ってもらいたいというのも私の身勝手な気持ちなのです。私の話をきいてくれますか?」
娘は人気のない浜辺の隅にすんでいた。最近この浜では漁業を生業とする者が減り、皆遠い国や町へいってしまった。娘の兄や姉もそうで、幼い娘は母のそばで漁業を続けていた。
「私の母は女手一つで私達を育ててくれました。私は母が大好きでした。」
けっして母のそばを離れるものかと娘は思っていた。こんな寂れた場所に母を置いていった兄や姉を薄情だとも思っていた。
「母はずいぶん年をとっていました。だから、私は母が起きられなくなった時にすぐ、兄や姉に手紙を出しました。」
手紙はすぐ返ってきた。
「兄も姉もすぐ戻ってくるはずでした。けれど、台風で船が出なかったのです。」
娘の目から涙が滴った。手の甲に落ち、娘は肩を震わせてしばし言葉が出なかった。
「・・母は、逝きました。御医者様を呼びに行った少しの間に・・。」
兄と姉が来られないまま、娘は式をおこなった。信仰上身内だけでしかやってはいけないことになっていたので、一人で水葬にするために船を沖に出した。しばらく、朝日を見ていた。母が、誰にも看取られず孤独に逝ってしまった事がやるせなくて、静かに泣いていた。
「母がもういないのだと思うと胸がはりさけそうでした。あの家で私一人で暮らさなければならないと思うと・・。」
母の顔をもう一度見ようとした時、花が流れてくるのが見えた。夢かと思ったがそうではない。たくさんの花が潮に乗って船を包むように流れてきた。
「一瞬、母と一緒に私も黄泉の国へきたのかと思いました。あんまりきれいで言葉には言い表せなかった・・。」
何か大きな力を持つものが、母の死をいたわってくれているのかと思った。娘はその花の中に母を埋葬した。そして朝焼けにまばゆく光る岸へと船をこいだ。