ことりば
「坊や坊、一人かい。一人なら寄って行け。甘い菓子を食わせてやるぞ」
辻の奥からことりばが手招く。こども達は悪態をつきもせず、逃げ散って行く。商店街と住宅地が交わるそこは、六本の道が交差する六つ辻だ。
おかっぱの白い髪、しわでひび割れた白塗りの顔、赤い口と赤いワンピース。格好だけでもいかれていることりばは、こどもを手招き、家に連れて行こうとする。
連れて行かれたら食われてしまうとか猫にされるとか、いろいろ噂があるから、こどもはもちろんおとなも相手にしない。
ことりばが幾つなのか、どういう素性なのか、誰もよく知らない。地元生まれ地元育ちの両親が物心ついたころからああだったというから、そうとう年寄りのはずだった。
祖母はコドモを事故で亡くしてからというが、文具屋のおじいはダンナに捨てられたからだという。
あの日まで、僕もことりばをただ、「ちょっと頭のおかしいおばあさん」だと思っていた。
夏休みを目前にしたその日。僕は最高の計画を思いついた。
みんなが怖れていることりばの家。外から見に行ったことはあるけれど、中まで入った子は誰もいない。
その家に潜入しなにか証拠を持って帰ること。きっとみんなびっくりするだろう。
裏路地経由でたどり着いたことりばの家は、六つ辻の行き止まりにある。草ぼうぼうの庭にさびだらけの郵便受け。名前が消えてて読めない。
玄関は引戸で、汚れたすりガラスのむこうは暗い。
僕は雑草に足をとられながら庭に回り、ズックのまま濡れ縁から入りこむ。
そこは茶の間らしいが、テレビも、座布団も、ちゃぶ台もなにもない。
がらんどうの部屋には、日に焼けた畳だけがあり、歩くたびに足が沈んだ。
右は土壁。正面は台所らしきすりガラス。僕は左の色あせたふすまをあけた。
薄暗い中、仏壇だけがある。黒い扉をひらいて中をのぞくと、小さなお地蔵さんだけが入っていた。
僕はそれを潜入計画の証拠にしようと思い、取り上げた時だった。
「よう来た、よう来た、よう来た」
首のまうしろで、声がした。
いつも昼間は辻に立っているから、とうぜん家には誰もいないはずだった。なのに、上機嫌に笑うことりばが、いた。
真夏の犬みたいに、舌をひらめかせて息をしていた。
「坊や坊、一人かい。一人なら寄って行け。甘い菓子を食わせてやるぞ」
辻と同じことを言いいながら、ことりばはふらっふらっと近寄ってくる。
驚きと怖さで、思わずその肩を突き飛ばしたら、ことりばはふっとんだ。
あけ放しの障子から濡れ縁を通り越し、靴脱ぎ石の上まで。
まるで紙切れみたいに。
ぺらりと落ちたことりばを、僕はしばらく見ていた。
枯れ木のカエルみたいに、うつぶせる体。真横にねじ曲がった首。開きっぱなしの目と口。
ことりばは、動かない。起き上がらない。
僕は右手のお地蔵さんをその場に放り投げ、後も見ずにかけだした。
家に帰るなり、夕飯も食べずに布団にもぐりこんだ。
殺してしまった。
僕はことりばを殺してしまった。
人殺しは警察に捕まって牢屋にいれられる。牢屋にいれられたら、学校にも行けない。友達とも遊べない。お母さんにもお父さんにも二度と会えない。
どうしよう。
いまにもチャイムがなって、そして警察が来る。
そして、そして――と考えているうちに朝になった。ぜんぜん眠れなかった。
よほど顔色が悪かったのか、お母さんに休んだらと言われたけれど、僕は牛乳だけ飲んで家を出た。
まだ時間が早くて、登校する子は少ない。静かな通学路を、僕は心臓をばくばくいわせながら歩いた。
しかし、テレビドラマで見た黄色いテープとか、たくさんのパトカーとか。僕が予想していたものはなにもなくて。
そのかわり、いつもの辻で、かわらずこどもを手招きする姿があった。
呆気にとられている僕と目が合うとさも嬉しそうににたりと、ことりばは笑うのだった。